最終話

 朝食を終えると、美湖ちゃんが「じゃ、学校行こうか」と言うから、私はお気に入りのピンクのミトン手袋をつけて、長靴を履いた。美湖ちゃんはお気に入りの赤い傘。休みの日に美湖ちゃんと二人で学校に忍び込むなんて、なんだか楽しい。

 外は思っていた以上に雨が強くて、跳ねた雨が道路に白くしぶきを作っている。大雨は冒険みたいで好きだ。わくわくする。台風の日みたい。でも、美湖ちゃんはあまり好きじゃないみたい。靴が濡れるから、と言っていたけれど、だったら私みたいに長靴をはけばいいのに。美湖ちゃんは最近叔父さんに買ってもらったヒモの多いブーツを履いていた。あみあげ、というらしくて、美湖ちゃんのお気に入りだ。私はわざと水溜まりの中に飛び込んで、美湖ちゃんに「さあちゃん、服汚れるよ?」と注意された。

 学校までは歩いて十分ほどだ。誰もいない校門に入る。校庭にベージュ色に濁った水溜まりができて、水面の波紋が広がる間がないほど、雨が降り続いている。下駄箱について、美湖ちゃんのあみあげブーツは脱ぐのが大変だから、私は美湖ちゃんに「すぐ取ってくるから、ここで待ってて」と言った。

「一人で大丈夫?」

「うん」

 私は姉を下駄箱で待たせ、教室へ向かう。上履きがないから、靴下越しに廊下の冷たさが伝わって寒い。誰もいない学校は静かで不気味だ。こんなときに限って、急に友達から聞いた怖い話を思い出した。髪の長い女の人が四つん這いで、廊下を猛スピードで追いかけてくるという話だ。聞いたときは、そんなのあるはずないじゃん、って笑ったけれど、雨音の響く冷えた廊下にいると無性に怖くなり、速足で教室へ向かった。

 ロッカーを見ると宿題の半紙や習字セットがあった。

「良かったー」

 私は習字セットをまとめて抱え、姉の待つ下駄箱へ急いだ。


 下駄箱に姉の姿はなかった。

「美湖ちゃーん?」

 長靴を履いて外に出てみる。いない。おかしいな。一人で帰っちゃうはずないのに。

 周囲を見渡すけれど、いない。よく見ると、少し離れたところ、学校の裏門へ続く道の途中に、開いたままの赤い傘が落ちている。姉の傘だ。駆け寄ってみると、傘の骨が一本折れてしまっているし、傘の持ち手が水溜まりに浸かっている。いつもしっかりしている美湖ちゃんらしくない。

 私が傘を拾おうとして屈んだとき、遠くで微かにビービーと音が鳴っている気がした。何の音だろう。雨が強く、ビービーという音はかき消されそうだ。私は傘を拾って、微かに音がする方へ歩く。それは、学校の裏門のほうから聞こえている。

 裏門を出ると、細い道を挟んですぐに川だ。足首くらいの長さの草が生えた土手があって、川には橋がかかっている。車が一台通れるくらいの、小さめの橋だ。川は水かさが増して、茶色く濁っている。

 その川のほうから、ビービーという音が聞こえる。川の流れる音が大きく、ビービーという音は聞こえにくかったが、微かに、でも確かに聞こえる。

「美湖ちゃん?」

 私は恐る恐る川に近づく。長靴で土手の草をかきわけて歩く。草の生えた土手と川の間にあるコンクリートの道に立つ。橋の下からビービーと音が聞こえる。低い暗い橋の下、砂っぽいコンクリートの上で黒っぽい何かが動いている。その横に、白い柔らかそうなものが見えた。それが何かわかった瞬間、ひっと声にならない叫びが体中を駆け抜けた。

 それは、抑えつけられてもがいている美湖ちゃんと、上から覆いかぶさるように体重を乗せている大きな背中。黒いジャンパーの男。白い柔らかそうなものは、美湖ちゃんの太腿だった。何が起きているのか理解できなかった。何も考えられなかった。何あれ、怖い。ビービーという美湖ちゃんの防犯ベルの音と、ざぁーざぁーと耳鳴りのような雨の音だけが低い橋の天井で響いている。

 美湖ちゃんを助けなきゃ。

 真っ白な頭の中に、ざぁーざぁーという雨の音が満タンに溢れて、私の思考は停止した。

 一瞬息を止め、抱えていた習字セットと自分の傘と美湖ちゃんの傘をコンクリートの地面に置いた。

 少し目をやると、コンクリートと草の間に、大きな石が落ちている。両手で持たないと持ち上げられないくらい大きい石。私はそれを拾って両手でしっかりと握りしめる。石は、重かった。手袋越しに、冷たさと硬さが伝わってくる。強く握りしめたまま、黒いジャンパーの男に気付かれないようにゆっくり一歩ずつ近づく。そして、男の頭めがけて、大きな石を力一杯振り下ろした。

 ガッ! という声をあげて、男は前のめりに倒れた。男の頭が赤黒く濡れていく。私は石を足元に投げ捨てた。ガツンと鈍い音を立ててコンクリートの地面に落ちる。お気に入りの手袋に、真っ赤なシミができた。

「美湖ちゃん!」

 私は叫んだ。棒立ちのまま、恐怖と混乱で、何が何だかよくわからなかった。怖い。怖いよ! 美湖ちゃん!

 前のめりに倒れたまま、びくんびくんと変な動きをしている男の下から、美湖ちゃんが這い出してきた。

「さあちゃん!」

 姉は起き上がると私に飛びつくように駆け寄り、抱き付いてきた。

「ありがとう。……何もされてないから」

 姉が小さな声で言った。小さな、でも強い声だった。私には「何も」の意味はわからなかった。

 私は口の中がカラカラで、全身は硬直したみたいにガチガチで、でも足はガクガク震えていた。まばたきを忘れたみたいに目を見開いて、倒れた男を見つめていた。男は、まだビクビクと少し動いていた。手に力が入らなくて、息苦しくて、頭がぼーっとしてきて、少し目の前が暗くなった。姉は鳴りっぱなしだった防犯ベルを、鞄からはずし川に投げ捨てる。そして、私の腕をつかんだ。

「行こう」

 姉は私の腕をつかんで走り出そうとした。私は、腕をつかまれて引っ張られたけれど、その場を動けなかった。男から目がそらせなかった。怖かった。怖くて怖くて、どうしようもなかった。

「こ、怖い……怖いよ。美湖ちゃん、どうしよう……どうしよう!」

 私の声は震えていた。恐怖と興奮でうまく喋れなかった。パニックだった。

 美湖ちゃんはつかんでいた私の腕を離し、私と倒れている男を交互に見た。そして震えている私を、ゆっくり抱きしめた。

「さあちゃん、ゆーっくり深呼吸して」

 耳元でそう言われて、自分が、走りまわった犬みたいに、ハッハッハッと速くて浅い呼吸だけを繰り返していたことに気が付いた。一回ゆっくり息を吸う。それでもまだ胃のあたりが、ヒッヒッヒと細かく震えた。男から目が離せない。

 姉は私から体を離すと、丁寧に自分のスカートやコートについた砂埃を払い、雨で濡れた前髪を指でかき分けた。そして倒れた男をじっと見つめた。男はもう、ぴくりとも動かなくなっていた。姉は、私の両肩に手をおいて、正面から目を合わせて静かに言った。

「さあちゃん。大丈夫だよ」

 美湖ちゃんは男にゆっくり近づいた。少し離れたところから足を伸ばして、男の太腿あたりを一度軽く蹴る。私はどきっとした。男の足は柔らかい人形みたいに、だるんと一度揺れただけで、男は目を覚まさなかった。美湖ちゃんがまた二回太腿を蹴る。男は動かない。美湖ちゃんはゆっくり男の顔をのぞきこんだ。そして、一度橋の天井をじっと見つめてから、一人でうなずいた。

 美湖ちゃんは、男の足首を持った。そして、男を引きずった。川までの、およそ二メートル。私は、男が目を覚ましてまた美湖ちゃんに襲い掛かるのではないかと怖くて仕方なかったけれど、美湖ちゃんは唇をかむようにして、重そうな男を無言で引きずった。私は、これは私が手伝わなきゃいけないことなんだ、と思って、怖かったけれど、ガチガチの体で何とか近寄って、片方の足を持った。重くてだらんとした男の足。美湖ちゃんは私を見て、無言でもう一方の足を持ち、二人で男を引きずった。

 コンクリートの端までくると、美湖ちゃんは「さあちゃん、離れて」と言って、男を両手で押して、川の中に落とした。どぷんと音を立てて、男は川に沈んだ。昨日からの雨で増水した濁流は、男の姿をあっという間に消し去った。まるで、始めから何もなかったかのように。

 姉は、私の汚れた手袋を脱がせてくれた。そして、手袋も川に投げ捨てた。濁流は私のピンク色のミトンも勢いよく飲み込んで、あっという間に下流へと運んで行った。姉は私が使った大きな石も抱えて、川に投げ捨てた。そして、一つ息をはいた。ほんの少しの間、二人で並んで、茶色い川の流れを見つめた。

「手袋、川に落としちゃったって言おうね。叔母さんに、新しいの買ってもらおう」

 私は、黙ってうなずいた。何が起こっていて、自分が、姉が、何をしたのか、脳が理解していなかった。理解することを拒否していたのかもしれない。

「行こう」

 姉に言われて、私たちは歩き出した。冷えた私の右手を姉の左手がきつく握っている。姉の手もひどく冷たく、小さく震えていた。

 さんざん降っていた雨はいつの間にか止んでいた。私たちは、寄り添うようにくっついて歩いた。私はまだ体がガチガチだったけれど、姉に手を引かれていれば、歩いていられた。二人とも無言だった。男のことも、何もしゃべらなかった。でも、さっき起こったことは一生二人だけの秘密。誰にも言ってはいけないこと。そのことだけは、わかっていた。暗黙のうちに、二人で誓い合っていた。

 私は強く姉の手を握り返した。この手だけは離さない。この先何があっても、美湖ちゃんの手だけは離さない。そう決めて、私たちはゆっくりと歩き始めた。




【おわり】

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SISTER 秋谷りんこ @RinkoAkiya

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