夏休みになって、叔父さんの実家がある北海道へ旅行に行くことになった。相変わらず私はあまり食べなかったけれど、春よりはマシになった。心療内科はあれから月に一回のペースで行っていて、張り付いた笑顔の先生は、実は話しやすくて優しいことがわかった。初診のときみたいな、筋肉痛になりそうな笑顔ではなくなっていて、先生自身も初診の患者は緊張するのかもしれないな、と思ったりした。漢方薬はもっと苦いかと思っていたけれど、苦みの中に甘さがあって、毎日飲んでも苦痛はなかった。

 病院に定期的に通っていること、漢方薬を飲んでいること、叔母さんが時々買ってきてくれるハーブティを私が良く飲むこと、春と比べたら少しずつ食べるようになったことなどが、叔父さんと叔母さんを少しでも安心させているなら、私は多少の我慢は必要だと思った。本当は食べたくないけれど、食べないことは家族を悲しませることになる。そう言い聞かせて、自分の許容と妥協のちょうど真ん中を探す。それで私は、必要最低限の栄養をなんとか摂ることができた。それでも、私は普通の女子中学生のようにムチムチと太ってはいかないし、相変わらず初潮も来なかった。それでも、傍から見れば、春よりは全然マシだった。


 叔父さんの実家は中標津にあるのだけれど、せっかく長めの休みがとれたから、と知床まで足を伸ばすことにした。中標津の、叔父さんの実家には、子供の頃によく遊びに行った。「おばあちゃんち」という感覚だったが、よく考えてみれば、私と叔父さんは血が繋がっていない。だから、叔父さんの母親は私の祖母ではないのだ。けれど、本当の孫のようにかわいがってもらった記憶しかない。

 中標津空港からレンタカーで知床方面へ向かう。空港を出て少し走ると、もう建物は全くなく、ただ広い大地が広がっているだけだった。離れたところにある防風林の横に、大きな鹿がいた。立派な、威厳のある佇まいで、すっくと立っていた。黒くて大きな鹿に、私は憧れた。少し湿った密度の濃い黒い毛。大きな角。生命力のみなぎる瞳。自然の中で、あんなに堂々と、生きている。生きていることに何の不思議も感じず、自分の生をまっとうしている。私もあんな風に自分の生を誇れたら、どんなにか素晴らしいだろう。


 知床半島を横断し、ウトロ側へ行く。車で走るうち、鹿は何頭も見た。どの鹿もかわいらしくて、威厳があった。防風林にいた鹿より小ぶりに見えた。メスなのかもしれない。だんだん驚かなくなるほど鹿に遭遇し、自然の豊かさを感じる。車は、知床五湖という湖が見られる場所に着いた。

 五湖のうち、ガイドなしでも見られる一湖を目指して高架木道を歩く。知床は北海道でも有数のヒグマの生息地で、ヒグマの暮らす環境を壊さないように、そして人間と共存していけるように、さまざまな工夫がされている。この高架木道もその一つで、地面から浮かせて組んである木製の遊歩道の上を私たち人間は歩く。ヒグマは地面を歩く。そうやって住み分けて、お互いの縄張りを侵さない。それは自然に対する敬意の現れだし、同じ地球に住む生き物として当然のことに思えた。

 高架木道の白い木の手すりを握る。眼下には笹みたいな植物が生い茂っている。少し遠くを見ると、森と山。そして広くて水色の透明な空。空に向かって深呼吸する。土と草と、あと嗅いだことのない良い匂いがする。爽やかな、軽やかな、花の蜜みたいな少し甘い匂い。

「ねえ、なんか良い匂いするけど、何の匂い?」

 北海道出身の叔父さんに聞く。

「良い匂い? どんな?」

「なんていうのかな、爽やかな、ちょっと甘いみたいな、花みたいな、葉っぱみたいな匂い」

 叔父さんは少し顔を空に向けて、深く鼻から息を吸う。

「あぁ、これは木の匂いだよ」

「木?」

「うん。マツが多いんじゃないかな。トドマツとかアカエゾマツとか、そういう針葉樹の木の匂いだよ」

「木なのに、こんなにいい匂いするの?」

 私は思い切り静謐な木の匂いを吸いこんだ。爽やかで少し甘い針葉樹の匂い。話を聞いていた美湖ちゃんも、少し顔を上に向けて深呼吸をしている。

「ほんとだ、なんか良い匂いするね」

 美湖ちゃんが上を向いたまま言う。

「空気の匂いの違いにすぐに気付くなんて、沙湖は感受性が豊かだな」

 叔父さんが私の頭をぽんと撫でてくる。叔父さんの大きな手のぬくもりを頭頂部に残したまま、私は高架木道の手すりに胸を押しつけて下を覗き見る。ヒグマと共存するための工夫なのだけれど、この高架木道にはヒグマよけの電流柵がついているらしい。人間だけ科学に頼るなんて卑怯だな、と少しだけ思った。でも、ヒグマに遭遇したら、やっぱり怖いだろう。人間は非力だ。そのための科学だ。お互いが安全に共存するためには、必要な科学なんだろうな、と自分を納得させた。

 このまま歩いていくと知床五湖の一つ、一湖が見られるらしい。


 車で羅臼方面へ戻る。水平線からの朝日が見たい、と言った美湖ちゃんの意見で、泊まるところは羅臼側に決まっていた。旅館に着いて荷物を降ろす。部屋のベランダから海が見えた。

 爽やかな針葉樹の匂いのかわりに、懐かしいような潮の匂いが流れてくる。私は海の近くで育ったわけではないのに、潮の匂いに懐かしさを感じる。前世は魚だったりして。そう思うと、陸地が息苦しい理由もわかってくる。もともと魚だったのなら仕方ない。

「そんなわけないのにね」とつぶやくと、美湖ちゃんに「ん?」と言われた。

「なんでもない」

 美湖ちゃんが隣に来て、並んで海を眺める。

「海、きれいね」

 美湖ちゃんが言う。

「うん、きれい」

「私、なんか海って懐かしい気持ちになる」

 え? と美湖ちゃんを見る。

「海の近くで育ったわけでもないのにね」

 そう言って微笑む美湖ちゃんの長い髪を潮騒色の風が撫でて去る。私と美湖ちゃんは、やっぱり姉妹なんだ、と体で感じた。流れている血液が同じ色に違いない。きっと、この海みたいな、真っ青な血液だ。私の血は赤くない。きっと美湖ちゃんも同じはずだ。


 旅館の夕飯は、バイキング形式のカニ食べ放題だった。会場に着くと、カニ料理が所せましと山積みにされていて、私は思わず足を止めた。子供の頃、私はカニが大好きだった。カニに限らず、エビや貝などの海鮮が大好物だった。それを思い出して、何とも言えない嫌な気持ちがした。叔父さんと叔母さんは、私が、好きなものなら食べると思ったのだろうか。食べ放題なんて、今の私には地獄ではないか。食べられないって知っているのに、食べ放題に連れてくるなんて、ひどいよ。

 でも、食べないわけにはいかない。意地悪でやっているわけじゃないんだ。良心でやってくれていることを、拒否できるほど私は強くない。それでも、足取りは重かった。そんな私に、叔母さんは近づいてきてそっと優しく耳打ちした。

「沙湖。食べ放題ってことは、食べない放題でもあるんだよ」

「え?」

 叔母さんは微笑んでいた。

「食べたいだけ食べればいいってことは、食べられない分は食べなくていいってこと。食べる量も食べない量も、自分で決めていいってことなんだよ」

 叔母さんに言われて、私ははっとした。好物で誘って、私にたくさん食べさせたいのかと思った。でも、バイキングは「出された食事を残すという精神的にしんどい行為」をしなくていい、という私にとって最適な食事だったのだ。食べ物を残す罪悪感を、私は叔母さんのお弁当でそれこそ死ぬほど感じてきた。食べ物を捨てるたびに増えていた肩の傷は、もはや数えきれない。そんな私なんかよりずっと、私自身のことを考えてくれる家族に、私は何をすればいいんだろう。叔父さんも叔母さんも、そしてたぶん美湖ちゃんも、わかっていてこの旅館に決めたんだ。私はぐっと唇を噛んだ。そうしないと、泣いてしまいそうだった。私は最近、泣きそうになることが多い。あの漢方薬は涙もろくなる成分でも入っているのだろうか。カニの山を見て、「わー、すごーい」と歓声をあげている美湖ちゃんと叔父さんに、駆け寄って抱き付きたい気持ちだった。私はいつも家族に守られている。

 叔母さんに言われた通り、私はカニのむき身の入った小さな茶碗蒸しを一つと、カニの足を一本だけ食べた。茶碗蒸しは滑らかでカニの出汁がきいていて、とても美味しかった。久しぶりに食べ物を美味しいと思った気がした。カニの足は、ぷりぷりに身がつまっていて、レモンを少しだけふって食べた。子供の頃、北海道の叔父さんの実家からカニが送られてくるたび、私は飛び上がって喜んだ。これは、その味だ。私の、過去の、ずっと昔の、喜びの味。今日は一本しか食べられないけれど、いつかまた、お腹いっぱい食べられるようになる日がくるのだろうか。私は、自分のためにではなく、家族のためにそうなりたいと思った。そして、食べ物を美味しいと思えた気持ちを忘れたくなくて、左肩の無数の傷を、服の上からそっと右手で撫でた。それは、祈りに似た気持ちだった。

 叔父さんは「もうこれ以上は無理だ」と笑いながらたくさん食べて、叔母さんは「こんなに一気に食べて、カニアレルギーにならないかしら」と山盛り食べたあと突然真顔で言い出して、その顔がおかしくてみんなで笑った。手がカニ臭くなった。でも、吐き気はしなかった。私はもう一度、左肩の傷をそっと撫でてから、「ごちそうさまでした」と両手を合わせ、食事をとるということに、感謝した。


「さあちゃん、起きな。日の出、見よう」

 静かな美湖ちゃんの声に目を覚ますと、叔父さんと叔母さんはもう起きて、寝間着の上にカーディガンを羽織っていた。

「沙湖、起きた?」

 叔父さんの優しい声がする。

「うん、起きた」

 美湖ちゃんが返事をして、私は体を起こした。午前四時。

 四人でベランダに出て、まだ暗い空を見つめた。思っていたより寒い。何か羽織れば良かった、と思っていたら、美湖ちゃんが近付いてきて、自分がかぶってきた毛布の中に入れてくれた。一枚の毛布を二人で頭からかぶって、水平線を眺める。真っ暗から、ゆっくり薄ら明るくなっていく海と空の境界線。空気は透明に冷えて、朝日は少しずつ少しずつ世界を白く染めて行った。

「きれいだね」

 美湖ちゃんが言う。耳元で、毛布の中でくぐもった声は、とても穏やかで、優しい声だった。

「うん、きれい」

「北海道、来て良かったね」

「うん、良かった」

 少し黙ったあと美湖ちゃんは、毛布の中で痩せ細った私をそっと抱きしめて、小さな声で「大丈夫だよ」と言った。

「さあちゃん、大丈夫だよ。大丈夫だから、一緒に大人になろう」

 私は何も言えなかった。私が食事を摂れない理由も、原因も、恐怖も不安も、姉は全てわかっている。その上で、姉は、大丈夫と言ってくれた。

 一緒に大人になろう。

 こんなに心強い言葉はなかった。私はまた泣きそうになった。美湖ちゃんがいてくれて良かった。美湖ちゃんがいなかったら、私は死んでいたかもしれない。そして、叔父さんや叔母さんを悲しませたかもしれない。でも、姉の言葉は強い。強いと同時に、私の覚悟を決める決定的な言葉になった。

 私がいつまでも食べないで、大人になることを拒んでいたら、一番つらいのは姉であることに、私は気付いていなかったのだ。私が食べないことで、どんどん痩せ細っていく中で、美湖ちゃんが自分を責めていたとしたら、私はなんてひどいことをしていたのだ。私は、健康でなければならない。ちゃんと食べて、肩に傷なんかつけないで、大人になることに向き合わなければいけない。それが、私が姉にできる最大の感謝の伝え方なんだ。

 美湖ちゃん。名前を呼ぼうとしたら、涙が出てきた。どんどん出てきた。何も言えず、美湖ちゃんに抱き付いて、しくしく泣いた。一度泣き出すと涙が止まらなくて、ひっくひっく言いながら泣いた。その声は、一緒にベランダにいる叔父さんにも叔母さんにも聞こえているはずなのに、誰も何も言わずにいてくれた。私は今まさに一日が始まろうとしている早朝のベランダで、子供みたいに泣いた。


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