病院には叔母さんが付き添ってくれた。私が「病院に行ってみる」と言うと、叔母さんは明らかにほっとしたような顔をした。自分だけではもう、この日に日に痩せ細っていく姪を、どうすることもできないと悩んでいたのだろう。私にしたって、自分自身が受診したいと思ったから、というわけではなく、叔母さんにこれ以上心配をかけたくない、という気持ちから受診を決めたのだ。

 待合室は全体的に淡い水色に統一されていて、花が飾ってあって、静かにクラシックが流れていて、病院というより、お洒落なカフェみたいだった。待合室には、私と叔母さんの他に、痩せ細った同い年くらいの女の子と、母親らしき女性がいた。私もあの子と同じくらい痩せて見えるのかな、と思うとぞっとするくらいその女の子は痩せていた。ミイラみたい。そう思うほどだった。自分の腕を見てみる。同じくらい細いだろうか。いや、私のほうがまだマシだ。私のほうが、軽症だ。あんなミイラではないはずだ。そう思う一方で、私もあの子と同じくらいミイラなんだと思うと、安心している自分もいる。きっと人から見たらひどく痩せたミイラで、ぞっとするくらい気持ち悪いに違いない。ミイラみたいな女は魅力がない。それでいい。それがいい。

 番号が呼ばれて診察室に入る。優しい感じの、女の先生だった。

「こんにちは。酒井さかいと言います。水島沙湖さん、ですね」

「はい」

 私は先生と向かい合って椅子に座って、叔母さんは少し後ろの椅子に座った。

「心療内科は初めてですか?」

「はい」

「じゃ、いくつか聞きたい事があるから、答えられることだけ、答えてもらっていい?」

 穏やかな口調の先生は、さっき待合室で私が書いた初診票を見ながらゆっくり話した。

「食べられなくなったのは、中学に入ったころからって書いてあるけど、突然だったのかな? 何か思い当る原因がある?」

「原因……ですか。突然パタリと食べられなくなったわけじゃないです。少しずつです。なんとなく食欲のない日が増えて、なんていうか、よくわからないんですけど、少しずつ食べる量が減った気がします」

「そうですか」

 にっこり微笑む先生。こんなに毎日微笑み続けたら、表情の筋肉鍛えられそうだな、と白けた気持ちがした。

「えっと、叔母さま、なんですね」

「あ、はい」

 先生が突然叔母さんに話しかけたから、叔母さんはびっくりしていた。

「まず沙湖さんと二人で話してもいいですか?」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 叔母さんは深く頭を下げて、診察室を出て行った。先生は改まって私に向き直った。

「水島さんのご両親は、他界なさってるんですね」

 タカイという言い回しに聞きなじみがなく、何を聞かれたのか一瞬わからなかった。

「タカイですか」

「えっと、亡くなっているのですね」

 あぁ、死んでいることをタカイというのか。

「はい。私はとても小さいときだったので、ほとんど両親のことは覚えていません。姉は覚えているみたいですけど、私は叔母さんのことをお母さんみたいに思っています。叔母さんは、あなたたちの母親は世界に一人よ、って言って、お母さんって呼ばせませんが、私にとっては親と同じです」

 両親が死んでいることと私が食事を摂れないことは関連がない、と言いたい。私は両親の死を悲しむほどの年齢ではなかったし、その点においては、姉のほうが辛かっただろうと思う。二歳と六歳では、大きな差だ。

「叔母さんとは、仲が良いですか?」

「はい。いつも心配ばかりかけて申し訳ないと思っています。今回だって、私のことを本当に心配して病院に連れてきてくれたんだとわかっています」

「そうですか。叔父さんはいかかですか?」

「叔父さんもそうです。叔父さんはあんまりお喋りな人じゃないですけど、私のことも姉のことも、本当の娘みたいにかわいがってくれてると思います。私が今日病院に来るのに、本当は叔父さんも一緒に来るって言ったんです」

 私は、思い出して急に心細くなった。

「俺も行く。実際に先生に会って本当に信用できる医者かどうか確かめないと、沙湖を任せられるのか、心配じゃないか」

 昨日叔父さんは、叔母さんに詰め寄るように言っていた。

「そんなこと言ったって、あなた会社はどうするのよ」

「そんなの、いくらでも休める」

 叔父さんの不器用な愛情が、急に胸を圧迫した。叔父さんも来てくれて、私は全然構わなかった。

「けど、叔母さんが、デリケートな問題なんだから、二人で一緒に行ったら沙湖にプレッシャーがかかるって、心配してくれて。結局叔母さんと二人で来ました。叔父さんと叔母さんには、本当に感謝しています。だから、できれば……食べられるように……なりたいです」

 早く帰りたい。こんなところで白衣の先生に話を聞いてもらったって私の問題は解決しない。叔母さんは何で部屋を出されたんだろう。叔母さんに言えなくて先生にだけ言える話なんて、私にはない。早く帰って、叔父さんと叔母さんと美湖ちゃんと、私の家族と一緒に過ごしたい。

 そのあとまたいくつか質問をされて、私は解放された。かわりに叔母さんだけが部屋に呼ばれて、私は待合室で待たされた。叔母さんは、私には言えないけれど先生には言えることがあるのだろうか。さっきまで待合室にいた女の子と母親らしき人はいなくなっていた。会計を済ませて帰ったのだろう。あの女の子と私は、人から見たらかわいそうに見えるのだろうか。食事が摂れなくて、痩せ細って、病院に来て、かわいそうな人なのだろうか。

 神経性食欲不振症は、「認知の歪み」が起こるとパンフレットに書いてあった。自分は平均よりずっと痩せているのに、痩せていると感じない人が多いらしい。「まだ太っている、もっと痩せなきゃ」と思ってしまう。それが「認知の歪み」というのだと、初めて知った。

 私は、自分が痩せていないなんて思っていない。まだまだ太っているからもっとやせなきゃ、なんて思っていない。自分は十分に痩せているし、そのせいで初潮が来ていないことも理解している。さっき先生に「思春期に痩せすぎていると、初潮も遅れるし、大人になってからも婦人科系が弱くなる」といった内容のことを言われた。そうなのかもしれない。でも、私には関係ない。初潮なんて来なくていいと思っている。私は、自分を太っていると思っているわけでも、母や母代わりの叔母さんとの関係性によってストレスを感じているわけでもない。

 私は、ただ大人になりたくないだけだ。

 やっと診察室から叔母さんが出てきた。何時間も一人で待っていた気分だったけれど、ほんの十分くらいだったみたい。叔母さんは私の隣に座って、私の耳元に口を寄せて「先生の笑顔、ちょっと嘘っぽかったね」と言ってニヤニヤした。私は、全く同じことを考えていたことが嬉しくて、「あんなに笑ってたら顔の筋トレになりそう」とコソコソ返事をした。それを聞いてふっと吹き出す叔母さんは、病院に来る前より何か吹っ切れた様子に見えて、もしかしたら受診が必要だったのは叔母さんのほうだったのかもしれないな、なんて勝手に思ったりした。失礼な話だけれど。

 貧血や体力の補充などに使われるらしい漢方薬を処方されて、私は病院を後にした。

 晩春の日差しは明るくて、私は世界が眩しすぎるように感じた。

「外はずいぶん明るいのね」

 叔母さんも眩しそうに目を細めて、街路樹の新緑を眺めた。

「ねえ、沙湖は食べなくていいからさ、叔母さん行きたいお店あるんだけど、寄っていい?」

 昼食に少し早いくらいの時間だ。

「うん、全然いいよ」

「じゃ、行こうか」

 私たちは、心療内科の帰りとは思えないような軽い足取りで、叔母さんが行きたがっていたカフェまで歩いた。木漏れ日はチラチラと光り、風に甘い花みたいな香りが混じっている。春特有の匂い。春は美しすぎてあまりある。

 叔母さんが注文したパスタはさすがに食べようと思わなかったけれど、ホットハーブティはとても美味しくて、私が気に入ったことを叔母さんは喜んでくれた。帰りにティーバッグを買ってくれた。明日から、家でもこれが飲めると思うと、ちょっと嬉しかった。


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