三話

 倒れた男を私は仰向けに転がした。硬直の解けた体は簡単に転がると、青白い顔が天を向いた。痛みをこらえるような表情で男は息絶えている。その原因に目を移せば、突き刺さった短剣の周囲は血で真っ赤に染まっている。あの妖精、正確に心臓を突き刺したようだ。殺すことで、私を助けようとしてくれたのだろうか。それとも結果的にそうなっただけなのか……どう受け止めればいいのだろう。


 そもそも、妖精が現れたこともわからない。あれは一体何なのか。確か、男に刺されそうになって、その時に私の胸の辺りが光り始めて……そうだ。あの光は何だったのだろう。あの光の中から妖精は現れたように見えた。つまり、私の胸から……。


 気味の悪さを感じ、私はシャツの胸元を引っ張り、その中を恐る恐るのぞいてみた。そこには当然光を放つようなものはない。見慣れた二つのふくらみがあるだけで特に異変は――


「……!」


 はっと気付いた。異変は起きている。数時間前に目が覚めて、そこで私は肌に描かれた異変に気付いた。両手足、そして胸から腹にかけて入れられた刺青に。今の私はその刺青があることが普通なのだ。それなのに、のぞいた胸は目覚める以前の状態に戻っている。まっさらな肌……あったはずの刺青が、消えている。


 見間違いかもと思い、私はシャツの裾をめくり、腹を確認してみた。


「ない……」


 日に焼けていない白い肌があるだけで、大きく派手な刺青は跡形もなく消え失せていた。そんな馬鹿な。この目で確かに見たというのに……消えるはずのないものが、どうして消える?


 手足の刺青も消えているのだろうかと思い、私はすぐに確認してみた。だがそこには変わらず派手な刺青があった。これが当然の状態なのだが。ではなぜ腹の刺青だけが消えてしまったのだろう。いくら考えても首をかしげることしかできない。


「あの光のせい、なのか……?」


 理由は謎だが、関係がありそうなのは、あの光くらいしかない。光の中から妖精が現れたことが、きっと刺青が消えたことと関係しているはず――ん? ちょっと待って。腹に入れられた刺青の絵はどんな絵だった? 思い出せ。確か……そう、子供が数人集まっているような、そんな絵だった。数人の子供……それは先ほどの妖精達の姿にも重なる。これは偶然? それとも私の考え過ぎだろうか。あの刺青は子供ではなく、妖精を描いたもので、消えてしまったのは、絵が具現化したから――


 そんなことを考える頭を、私はすぐに振った。空想が過ぎる。まるで魔法みたいなことが起きるわけがない。私は単なる兵士なのだ。特別な力など持っては……だが、刺青を入れたのは助けてくれた男性だ。宿の女将の話では、彼は異国人だったようだ。異国には怪しげな術を使う者もいるとは聞くが、定かではない。消えてしまった刺青……私の持っている知識では説明がつかない。やはり本人に聞いてみるしかないが、それも叶わない。現れた妖精も刺青も、ひとまず忘れるしかないか……。


 息絶えた男を見下ろし、私は改めて安堵した。あんな不可思議なことが起こらなければ、私は間違いなくこの男のようになっていただろう。尻を強く打っただけで済んだのは本当に幸いだった。……そういえばその時、頭に痛みを感じた。後頭部の辺りだった。何の痛みだったのだろう――私は手を回し、痛みの走った部分を探ってみた。


「……傷がある」


 髪の中を指で探ると、硬い凹凸に触れた。小さく、横に細長い。何かで切ったような傷だ。強く押すとまだ少し痛みが走る。触れた指を見ても血は付いていないから、治りかけた傷のようだ。一体いつ負った傷だろう。状態から今負ったものではないのは確実だ。宿で寝ていた時か、それ以前のもの――私はふと思い出した。女将は、私に傷があったと言っていた。それがこれかもしれない。しかしなぜ後頭部なんかに。腕や足なら何となく想像もしやすいが、自分の目の届かない死角に傷を負うなど、まるで不意打ちでも食らったような感じで不快感を覚える――


「……私は、何者かに襲われた……?」


 よぎった考えに、私の気持ちはざわめいた。十分あり得ることだ。現に今、見知らぬ男に襲われたのだから。宿に運ばれる前も、私は誰かに襲われ、そのせいで傷を負い、弱っていたのでは……。だとすると、私は何をしていたのだろう。何者かに狙われるような、危険な行動をしていたのか? でも私は王女の護衛兵だ。そのお側を離れることは基本的にない。情報収集役にしても、王都から出て他の街へ行くような指示はこれまで受けたことはない。それとも、私は誰かに恨まれでもしているのか? 身の危険を感じ、ここまで逃げて来たというわけではないだろうな……。


 私は再び動かない男を見下ろした。この男は私が何かを持っていると思い、それを奪うことが目的のようだった。しかもこちらの素性を把握していた。それはつまり、私を始めから狙っていたということだ。単なるやからならそこまで知る必要はない。この男には私に対する明確な目的があったのだろう。


「何者なんだ、こいつは……」


 私はかがみ、男の服をまさぐってみた。何か身分のわかるようなものはないかと探してみたが、何も出てはこなかった。どうやら男の持ち物は、自分の胸に刺さった短剣だけのようだ。この短剣も王国軍で使われているものではなく、街などで一般的に作られているもので、ごくありふれた武器だ。これだけでは男の正体を突き止めるのは難しい。


 失った記憶は、得体の知れない不安を与えてくる。一体私の身に何が起きているのか。刺青に、後頭部の傷に、こちらの素性を知る男、それに妖精……わけがわからない。私は王女の護衛兵として任務を全うしていたはずなのに。消えた記憶の中で、私は何をしていた? 何をしてしまった? 現状でわかることは、私は何かしらの問題を起こしたか、あるいは巻き込まれている可能性が高い。何しろ殺されそうになったのだ。生易しい問題ではないのだろう。


 私は二本のナイフを腰に戻し、かばんを肩にかけ、足早にその場を去った。林から街道へ戻りながら、これからどうすべきかを考えた。


 こんなことがなければ真っすぐ王都へ戻るつもりだったが、私は問題を抱えてしまっているらしい。こんな状況で王女の元へ戻ったら、任務に支障が出るかもしれないし、何より周囲に迷惑をかけてしまうだろう。まさか私を狙う者が王国の中枢にまでやってくるとは思えないが、相手の正体がわからない以上、警戒を欠いた行動は控えるべきだろう。早く記憶を回復させる手掛かりを得たかったが、今は辛抱だ。


 だが、かと言って王都の他に、私には行く当てがない。故郷に戻るにしても、ここからでは遠過ぎる。移動手段が少ないから、片道半月はかかるだろう。様々な事情があるとは言え、そんな遠地にいては、任務放棄をしているようで気が引ける。私には、今起きている問題を共に解決してくれる協力者が必要だ。


 暖かな陽光の降り注ぐ街道に出て、私はとりあえず王都方面へゆっくり歩きながら、記憶にある協力者候補を思い浮かべた。


 友人と呼べる存在は何人かいるが、そのほとんどは同僚だ。つまり王族護衛部隊所属で、今現在、その任務を王都で果たしている最中のはずだ。そんな友人らを王都の外へ呼び出すのは難しいだろう。休暇も前もって申請しなければならず、急遽時間を作ってもらうことは大方無理だ。となると同僚以外の友人となるが、そうなると軍とは無関係の、街で平穏に暮らすような者しかいない。そんな静かな暮らしに、殺されかけた私が問題を持ち込んでいいものだろうか。皆優しいから、頼めば部屋に入れてくれるかもしれないが、それで危険に巻き込み、危ない目に遭わせてしまうことになりはしないか? 協力を頼むなら、襲われても抵抗できるような、ある程度腕っ節の強い者のほうがいいだろう。そう考えるとやはり同僚が最適なのだが……。


 私は記憶の隅々まで巡った。街にいる友人に武術を習った者などいただろうか……いや、いない。皆そんなものとは無縁の暮らしを送っている。どの街も治安はよく、駐在する兵が警戒に当たっているから、わざわざ身を守る術を習う必要もない。その駐在する兵の中に知り合いでもいれば頼むこともできるのだろうが、さすがにそんな都合よくは――


「……あ、確か前に……」


 頭に一人の顔が思い浮かんだ。二年前くらいだったか。同じ王族護衛部隊所属で、友人と呼べるほど距離が近かったわけではないが、同僚として何度か会話をしたことのある知り合いではある。だが部隊内の練習試合中に腕を痛め、そのまま兵士をやめざるを得なくなってしまったのだ。当時は誰もが彼の不運に同情した。しかし当人は暗い顔も見せず、前向きに去って行った。故郷のヤグルカで新たな生活を始めると言って……。


 現役ではないが、限りなく同僚に近い人物だ。二年くらいなら武術の腕もそれほど落ちていないはず。頼めるとするなら彼しかいない。


「イオシフ・パーレン」


 そんな名前だった。そして故郷はヤグルカ――私はすぐさま踵を返し、街道を戻った。ヤグルカはアーメルナヤンの街を越えた、さらに東にある。彼が今もヤグルカで暮らしていてくれればいいが……。

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