二話

 鮮魚や野菜、雑貨や衣料品などを売る店が立ち並ぶ大通りには多くの人々が行き交っている。呼び込みの声や談笑する声、駆け回ってはしゃぐ子供達の声が一緒くたになって騒がしくも活気のある雰囲気を作り出している。その光景は私の知るアーメルナヤンの街そのものだ。以前に何度か訪れたことがあり、そのたびに王都とは違うこの喧騒を肌で感じている。そう、私は過去の記憶をすべて忘れたわけではない。そのほんの一部、ごく最近のものだけが思い出せないようだ。ではいつからいつまでの記憶が抜けてしまったのか。


 私の名前はナザリー・セギュール。四人家族の長女として生まれ、現在二十三歳。職業は王国軍兵士、王族護衛部隊に所属し、ソフィヤ王女の護衛兵兼情報収集係として働いている。王族を筆頭に上流社会ではあらゆる情報が武器となる世界だ。些細な噂話でも立場を危うくすることなどよくある話だ。それらの状況を把握し、王女にお伝えするのが情報収集係だ。もちろん私の他にもいる。ガリナ、ベーラ、マリエッタ、皆同僚で顔も憶えている。互いに上手くやっていて、関係も良好だったはずだ。普段通り、ソフィヤ王女のお側で任務に励んでいたと思うが……憶えているのはそこまでだ。その空白で私の身に何かが起き、そして宿のベッドで目覚めるところにつながる。


 最後に王女や同僚と顔を合わせたのはいつなのだろう。宿では二週間も眠っていたらしいから、それ以上前ということだろうか。それにしても不思議だ。私は王都にいたはずなのに、どうして離れたこの街にいるのか。ここに何か目的でもあったのか、やはり助けてくれた男性の仕業なのか……。


 眩しく暖かい日差しの下、私は人の間を縫いながら街の外を目指して歩いた。ここで何かすることがあったとしても、今の私には何もできない。早く思い出すためには、一度王都へ戻ったほうがいいだろう。うろうろしていても思い出せる保証は何もないのだから。


 大通りを抜け、人がまばらになった通りを進み、街の門をくぐって外に出た。その先には各方面へと続く長い街道が伸びている。しばらく真っすぐ進み、最初の分かれ道を北へ行けば王都へ着くはずだ。少々長い道程だが、急いで事情を知らせなければ。


 街道沿いには木立が並び、その枝に鮮やかな緑の葉と無数の蕾を付けている。季節はもう春だ。肌に当たる風はまだ冷たいが、日差しはぽかぽかと体を温めてくれる。街道を歩き先を急ぐ人達も、その足取りは軽い。春に近付く景色を眺めながら、私は黙々と歩き進んだ。しかし二週間も眠り続けたせいか、一時間ほど歩いたところで呼吸が乱れ始めているのに気付いた。病み上がりの影響もあるのだろう。平坦な道を早歩きしただけでもう疲れるとは。思ったより体力が落ちてしまったようだ。これでは峠を越える前にばててしまいそうだ。もう少し緩めるか……。


 急ぎたい気持ちを抑え、私は呼吸が戻るまでゆっくりと歩いた。前を行く人、後から来た人がどんどんと先に進む中、私は街道に一人取り残されたように歩いていた。人影が途切れ、辺りにはのどかに鳴く鳥の声が響き渡る。こんな状況でなければ、もっと景色も鳥の声も堪能できただろう。


 私はふと足を止め、耳を澄まし、意識を背後に集中させた。物音は聞こえない。だが感じる。こちらをうかがう気配を……。実はアーメルナヤンを出た直後から、何者かにつけられている気配を感じていたのだが、気のせいかもしれないと思い、そのまま歩き続けていたが、どうもそうではなかったようだ。人影が途切れたところで確信できた。私を追って来る者がいる。おそらく街道を行く女一人を見つけて、追い剥ぎでもしようというやからだろう。ナイフで撃退してもいいが、あまり体力は使いたくない。ここは上手くまいてみるか。


 私は再び歩き出すふりをして、街道脇の林へ一気に駆け出した。ちらと背後に目をやると、慌てたように追いかけてくる男の姿が見えた。よし、このまま奥まで走って、身を隠しながら林を出られれば――木の陰に隠れつつ、足を緩めて男の様子をうかがってみた。


「……?」


 こちらを捜しているはずの男は、なぜかどこにも見当たらなかった。確かに追って来ていたのに、どこへ行ったのか。まさか引き返して待ち伏せでもしているのか? だったら気配を探して、その裏を突いてやる――足音を立てないよう、木の陰から陰へ、慎重に移動する。隠れているなら、もう少し戻った辺りだろう。あの大きな木の裏なんか怪しいが――


 直後、背中に気配を感じ、私は振り向いた。するとそこにはこちらにつかみかかろうとする男の姿があり、私は息をする間もなく咄嗟にその手を避けた。そして腰からナイフを抜き、素早く振り上げた。


「おっと」


 男は反応よく飛び退り、私の一撃を避けると、間合いを取ってこちらを見据えてきた。追い剥ぎにしてはいい動きをする。


「かくれんぼなんかしてる暇はないんだよ」


 痩せ型の男はうっすらと笑みを浮かべながら、腰から短剣を抜き、構えた。


「大人しく渡したほうが身のためだ」


 じり、と一歩近付き、男は威圧的な態度を見せる。やはり金品が目的か。


「その短剣でも売ったほうが、もっと簡単に金が手に入ると思うけど」


 そう返すと、男は怪訝な表情に変わった。


「金? 今さらとぼけるつもりか。それとも、挑発でもしてるつもりか?」


 私は思わず眉をひそめた。この男、金が目的ではないのか? でも大人しく渡せと言っているし――


「お前が持ってることはすでに知れ渡ってるんだよ。下手な芝居は通用しないぞ」


 芝居でもとぼけているのでもないのだが。どうも会話が噛み合わない。私が何を持ち、一体誰に知れ渡っているというのか。


「私の何が目的だ」


 聞くと、男はつまらなさそうに笑った。


「答える必要があるか? 無意味に時間を稼いでどうする」


「金品を狙った追い剥ぎではないのか?」


 これに男は顔をしかめた。


「そうか。やっぱり挑発か……ということは、その命はいらないってことだな」


 男の表情は変わり、鋭くなった目付きがこちらを射るように睨む。まったくそんなつもりはなかったのだが、どうやら挑発と受け取られ、怒らせてしまったようだ。私はただ状況を理解したかっただけなのに……。


「素直に渡さなかったこと、後悔しろ!」


 短剣を握り締め、男は切りかかって来た。


「やめろっ……何を、渡せっていうんだ」


 ナイフで攻撃をかわしながら私は聞いた。


「こんな状況になっても、とぼけた態度を貫くか!」


 かわし、逃げる私を、男はしつこく切り付けようとしてくる。金以外に私が持っているものは、着替えに食料、そして二本のナイフだけだ。そのどれにも特別な価値があるとは思えない。金でないのなら、この持ち物のどれが欲しいというのか。男は私がそれを知っているような口ぶりだが、当然心当たりなどない。そもそもこの男自体、初めて見る顔だ。大人しく何かを渡せと言われる筋合いもないはず。……もしかして、勘違いでもしているのでは? 


 振り下ろされた短剣を避けると、その刃は私の背後にあった木に勢いよく突き刺さった。その隙を見て私は短剣を握る男の腕をつかみ、動きを制してから聞いた。


「私は何も持っていない。人違いをしていないか?」


「ナザリー・セギュール、それがお前の名だろう」


「どうして私の名前を――」


「皆、知ってるさ!」


 男は肘打ちを食らわせようとしてきたが、私はすぐに飛び退き、距離を置いた。その間に木から短剣を引き抜いた男は、ゆっくりとこちらに近付いてくる。


「さすが、王女の護衛兵だけある。動きが機敏だな」


 こいつ、私の名前に、所属までも知っているのか。本当に追い剥ぎではなさそうだ。


「だが、息が上がり始めてるぞ。このまま逃げ続けられるかな」


 それは自分でも感じていた。病み上がりの体力では、こんな戦い方は続けられない。向こうは本気で命を奪いに来ている。殺される前に、どうにか決着を付けなければ――私は肩のかばんを投げ捨て、男を見据えた。


「……ようやく、とぼけた芝居をやめる気になったか」


 私の顔を見て、男は口角を上げた。


「王族護衛部隊の実力を見せてみろ!」


 猛然と襲いかかって来た男を、私は迎え撃った。短剣とナイフがこすれ、互いの体の際どいところをかすめていく。しかしこの男、一体何者なのか。明らかに単なるやからではない、上級兵並みの技量を持っている。力で勝る男が相手というだけでも不利なのに、体力のない状態ではもっと不利だ。


「動きが、鈍くなってきたぞ。渡せば、この剣は収めてやるが……」


 疲れている私を見て、男は余裕を見せている――こんな時に隙を見せる馬鹿がいるか。


「……!」


 私はもう一本のナイフを抜き、男の死角から首へかけて切り付けた。しかしその攻撃は咄嗟に身をよじられたせいで空振りに終わった。


「わかった。なら覚悟しろ」


 不敵な笑みを浮かべ、男は連続で攻撃を仕掛けてきた。


「くうっ……」


 歯を食い縛りながら、私は二本のナイフでそれを弾き、受け止める。一撃一撃が重い。確実に仕留めにかかっている。このままではナイフが折れるか、私の腕の力がなくなるか、時間の問題だ。ほんのわずかでも隙があれば……。


 すると、男は短剣を横薙ぎの構えに変え、正面を一瞬だけ無防備にさらした――ここしかない! 私は男に飛び込むようにナイフを突き出した。その切っ先は脇腹を貫くと思われたが、次の瞬間、男の体はナイフから遠ざかり、くるりと回転した。


 え? と思わず男を見れば、その顔はしっかりと私を見ていた。まさか、誘導されたのか。攻撃をさせるためにわざと――体を回転させた勢いで、男は短剣を横薙ぎにした。不意を突かれた私は避けることができず、それをナイフで受け止めるしかなかった。


「はっ……」


 キンッと高い音を立てて当たった短剣は、二本のナイフを弾き飛ばした上、私の体も弾き飛ばした。体力を失っていた体は踏ん張ることもできず、簡単に地面に倒された。打った尻の痛みを感じる間もなく立ち上がろうとしたが、その時、後頭部の辺りに鈍い痛みが走り、私は一瞬動きを止めてしまった。


「素直に渡せばよかったものを」


 男は身を起こそうとした私の肩を踏み付けると、そのまま地面に押さえ付け、冷酷な目で見下ろしてくる。


「あの世で悔いろ」


 短剣を構え、その先を私の心臓に向ける――こんなわけのわからない、見知らぬ男によって、私の人生は終わらせられるのか。確かに、あの世で悔いるしかない。林が囲む緑の空の中を、鈍色の刃が私に向かって突き下ろされる。痛みを覚悟し、息を止めた直後だった。


「なっ……何だ!」


 男の驚いた声と共に、私の視界は突然まばゆい光に溢れた。どこからか照らされているわけではない。溢れる光は私の胸から発せられている。何なんだこれは。何が光っているのか。


「け、剣が……」


 男がうろたえている。よく見れば、私を突き刺そうとしていた短剣が光に絡め取られている……いや、光ではない。赤子よりも小さく、真っ白な手が、刃を受け止めている……?


「一体、どうなってるっ……」


 つかまれた短剣を男は必死に引っ張っているが、どんなに力を入れても微動だにしないようだった。そんな様子をあざ笑うかのように、きゃらきゃらと無数の笑い声が聞こえると、溢れる光の中から何かが飛び上がっていった。


「うわっ――」


 自分の周りを飛び交う何かに驚き、男は短剣から手を離し、私から遠ざかっていく。それと同時に私の胸から発せられていた光がすっと消えた。そして視界が鮮明になり、短剣を受け止めているその正体を目の当たりにした。


「……妖精……?」


 そうとしか言い表しようがなかった。人の頭ほどの大きさしかない体には半透明の羽が生え、ほのかな光を放って浮いていた。そんな自分よりも大きく、重い短剣を、細く小さな手は軽々とつかんで持っている。私の視線に気付いたのか、こちらを見下ろした顔は無邪気に笑う子供そのもので、そんな姿はどこからどう見ても、絵本や童話に出てくる妖精にしか思えなかった。


 その妖精は私に笑顔を残すと、短剣を持ってふわりと飛んでいった。これは現実なのか? まるで幻想を見せられているような心地で私は身を起こした。


「来るなっ! 近付くなっ!」


 男は叫びながら両腕をぶんぶんと振り回している。その様をからかうかのように、ほのかに光る三匹の妖精は、子供のような笑い声を上げながら男の周囲を執拗に飛び回っていた。よくわからないが、この妖精達は私を助けてくれているのだろうか。そうではないとしても、結果私は命拾いしている。今のうちに逃げるべきか――


「くっ、体が、動か、ない……」


 考えていた私の前で男の様子が変わった。腕を振り回していたのが次第に大人しくなり、全身を硬直させたように動かなくなってしまった。飛び回る妖精達は引きつった顔の男になおも笑い声を上げ、飛び回っている。どういうことだ? あの妖精達は何かしたのか?


 すると短剣を持った妖精が男の正面に距離を開けて対峙した。それを見て他の妖精達は男から離れ、歓声のような声を上げ始めた。まるで対峙した妖精を応援するかのような……。


「……何、する気だ……」


 動けない男は不安げな声を出す。それを見ながら正面の妖精は短剣の切っ先を男に向けた。そして人間のように、狙いを定める素振りを見せた。まさか――


「やめ、やめろ……」


 男も私と同じ想像をしたようだ。妖精は男を殺す気だ。短剣を矢に見立て、的当ての的にするつもりなのだ。見守る妖精達はいかにも楽しげな声を立てている。子供のような笑顔で。


「やめてくれ!」


 震えた大声が響いた瞬間、正面の妖精は迷うことなく短剣を男に向かって投げた。風を切り、勢いよく飛んだ短剣は、口を開けたままの男の胸にぐさりと突き刺さった。


「う、ぐぶっ……」


 苦しげな呼吸をし、男はがくっと頭を垂れる。そして硬直した体は力を失い、地面にばたりと倒れた。それを見て妖精達はきゃらきゃらと笑い出す。上手くいったと言わんばかりに喜び、全員で手をつないで舞う。その姿だけを見れば、無邪気な子供が戯れているかのようだが……。


 すると妖精達は楽しげな顔を私に向けた。その一瞬、自分も的にされる危機を感じたが、そうはならなかった。ふわふわと浮かぶ妖精達は私を確認するように見ただけで、再び皆で戯れ始めると、そのまま頭上高くまで舞い上がり、景色に溶けるように姿を消してしまった。私は立ち上がって消えた妖精を捜そうとしたが、やはりもうどこにも見当たらなかった。あれは幻だったのか? それともおかしな夢でも見ていたのか――そんな気持ちが完全には拭えなかったが、見下ろした地面に倒れる男の姿は、夢でも幻でもないとはっきり答えてくれていた。

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