第26話 責務と情熱の狭間で
神精山の山頂、神のうたた寝と呼ばれる地には、今日もひっそりと泉が佇む。その水底には、ソフィアお手製の掘っ建てがある。
昼過ぎに起きた家主ソフィアは、ボサボサ髪をそのままに、食事を摂ろうとした。精霊石を埋め込んだ鉄の箱の中から、湯気と香りの沸き立つスープを手に取る。
そして、上の空としか言いようのない顔色で、食卓に着いた。
「アクセルの奴め……一体何を考えておる……」
かつてない程に深く、物思いに耽る。あまりにも手元を疎かにしてしまった。熱々のスープで満たしたスプーンは、口先を通り越して、頬にべチャリ。躊躇なし。
「熱ッ! 熱ぅーーッ!!」
仰け反るくらいには高温だ。ソフィアは自分の間抜けさに苛立ち、腿を拳で叩いた。
「おのれ……! それもこれも、アイツが世迷言をほざくから!」
再び意識すると、怒りは瞬く間に萎んでいった。そして、あの日の言葉がまざまざと蘇る。
――私は師匠に、真実の愛を抱いております。
思い返すだけで、胸に鋭い痛みが走り、頭も疼(うず)くような不快感が過ぎる。温かな気持ちが湧き上がるのを、理性をもってして全力で抑え込むのだが、中々に手強い。何度否定しても、繰り返し押し寄せてきた。まるで川のせせらぎが止まらないように。
正直に言えば、アクセルの気持ちには薄々と勘付いていた。お互いの触れ合いは濃厚になりがちで、何らかのラインを超えている実感もある。これまでは取り立てて拒絶しなかった。子犬が甘えような顔を向けられるのだ。どんな時も、両手を広げて迎え入れてしまった。
良くない事だと、ケジメをつけるべきだと、頭の何処かでは理解しながらも。
「ともかく、私への依存を断ち切るべきだ。あやつには気持ちを切り替えて貰わねば。何のために嫁探しを命じたか」
咳払い。手始めに自分が持ち直す必要がある。それから数度、深呼吸を繰り返して心を落ち着けた。その頃になると、空腹が強いことを思い出す。
「まずは腹ごしらえ、腹ごしらえ。腹減りでは何事も上手くいかん。そういえば、アクセルはちゃんと朝食を食っただろうか……」
そんな言葉が溢れた瞬間。脳裏には、更に1歩踏み込んだ光景が鮮明に浮かんだ。
何か理由があって打ちひしがれるソフィア。後悔と汚辱に塗れた身体は、泥をかぶっていて、酷くみすぼらしい。そこへ颯爽と現れたアクセルが、無遠慮に歩み寄る。相手の苦痛など意に介さない素振りだ。そしていつもの無神経さを発揮して、泥だらけの手を優しく握りしめて、こう囁くのだ。
――ソフィアよ。私はお前を心から愛している。
すると、熱々スープで満たしたスプーンは、口先を通り過ぎる。終着点は鼻の先だ。
「グハァーー! 熱ッ! 辛ッ! 鼻の奥がぁーーゲホッゲホ!!」
師匠も気苦労が絶えない。今のは概ね、自己都合の凡ミスだと言えるが、ともかく責任ある立場なのだ。弟子にとって最善の未来を見定め、導いてやる責務がある。だから一時の情に流されてはいけない。
「あぁ、酷い目に遭った……。次から辛い料理は控えるとしよう」
涙目を浮かべながら食事を終えると、すかさずベッドで横になった。気分は一向に晴れない。ならば書見だと、装丁の厚い本を手に取った。
その試みは成功した。読み応え十分の濃厚な物語に、ソフィアはすっかり虜となった。文脈に合わせて顔を怒らせ、また哀しんだかと思えば、頬を赤くしてときめく。一冊を読み終えた頃には、満足の溜息が溢れ出た。
「はぁぁ……良かった。まさに学びの宝庫だった。この感動はアクセルにも教えてやらねばな」
アクセル。その単語が切欠(トリガー)になった。今や馴染み深い言葉が、彼女を妄想の奥地へと引きずり込んでしまう。辿り着いたのは脳内楽園(エデン)だ。夢とも現実とも異なる世界。場所を得たソフィアは、意図せずして半自動的に夢想してしまう。
最近のアクセルとの関係性と、熟読した本の世界観が、絶妙に折り重なった状態で。
◆
「ソフィア姫。ここは私に任せ、貴女は落ち延びるのだ」
「そんな、嫌でございますアクセル様! 私は片時も離れとうありません!」
「護るべきもの護るため、命を賭して闘う。これは剣に生きる者の宿命なのだ。たとえこの場で倒されようとも悔いはない。貴女を守って死ねるのなら、むしろ本望である」
「嗚呼、何という事でしょう。私は呪います。生涯呪い続けます。真実の愛を引き裂こうとする、我が運命を! 何ら抗う術を持たぬ、この非力さを!」
「泣くな。龍真珠よりも美しい顔が台無しだ。そんな哀しい言葉を口にするのなら、私の唇で塞いでしまおう」
「あっ……」
「続きは後ほど。私が生きて戻るならば、その身も心も、全てをいただこう」
「……はい。貴方の帰りをお待ちしております。ご武運を」
◆
「ンミャァァァ違ッ! 違ァッ! ちーーがーーうーーッ!!」
ソフィアは虚空を両手で引っ掻き、声が枯れるまで叫び続けた。幸いな事に、誰にも伝わりようのない妄想だ。周囲の変化といえば、泉に住み着く小魚達が驚いて逃げた程度だった。被害は皆無と言って良い。当人の精神ダメージに目を瞑れば。
「フゥ……フォオゥ……。落ち着け私、平常心だ。心安らかであれば、アクセルの誘惑なんぞに屈するはずが……」
「師匠。アクセルです。報告のお時間となりました」
「ンミャァアーーイ!?」
窓から差し込む光が朱い。気づけば夕暮れを迎えていた。ベッドから転げ落ちる心地で、しかし意識は集中させて呼び出しに応じた。
ソフィアは、眼前にアクセルの姿を認めた。それから聞えよがしな咳払いを放ち、威厳を保とうとする。実際、彼女の体面に被害は無かった。
「では聞こう。今日は何があったか」
「昨日お伝えした通り、シボレッタ村を発ちました。今はマズシーナという街を目指して移動中です」
「マズシーナ。王国南部に位置する一大都市だな。あまり良い噂は聞かんが、そこで学べる事もあるだろう」
ソフィアは、そこまで告げた所で気づく。アクセルの隣に、青髪の少女が遠慮がちに佇むのを。
「名前は何と言ったか忘れたが、その小娘も連れて行くのか?」
「この子は、名をサーシャといいます。武芸の心得はありませんが、何かと助けられています。特に地図を読み解く能力は、非常に役立ちます」
「まぁ良い。貴様の旅だ。誰を連れて行くかは、自分で決めよ」
「ありがとうございます」
サーシャという少女は、若いというよりも幼い。アクセルの伴侶としては不釣り合いに見える。しかしそれも、数年経てば話が変わる。長年培った信頼が、愛情に変わる事も珍しくはないのだ。互いの年齢差も、大人同士であれば些末に感じられるはずだ。
ソフィアの胸が僅かに痛む。だが堪えられない程ではない。少なくとも、平静を装う事は出来た。
「報告は終わりか? ならば、話もここで……」
「師匠。以前お話した剣の光について、結論が出ていませんでした」
「そう言えば。光の色味について確認出来ていなかったな」
「実際にご覧いただくのが良いでしょう。では失礼を」
アクセルは、その場で剣の鞘を払った。すると純白の輝きが弾けて、辺りの夕闇を蹴散らした。刀身の根本は七色に煌めき、切っ先の方へ行くに従い混ざり合って、眩い白となる。
「なっ……! これは、この輝きは……!」
「師匠。この光はどう解釈すれば良いのでしょう」
「まさか、まともな契約もなく、これ程にまで精霊と調和するとは……。父祖から受け継いだ血がそうさせるのか……」
「どうなさいましたか、師匠?」
ソフィアは、今も輝き続ける剣を見つめては、腹を決めた。アクセルには知る権利がある。彼が何者で、なぜ秘境の山で育てられたかを。
「アクセルよ。貴様は自分の出自を知りたいと思わんか?」
「いえ、特に」
「剣の秘密も、貴様が忘れたであろう生い立ちについても、同時に説明してやれる」
「興味ありません」
「貴様はいつもそうだ。自分の存在意義を、自ら拒絶しようとする」
「私は師匠に育てられ、剣を学び、今ここにいます。それだけで十分です」
「まぁ、そこまで言うなら止めておく。少なからず、辛い話になるからな」
ソフィアは口をつぐんだ。しかし、話はまだ続いた。
「ひとつだけ命じておく。その剣は決して、私闘に使うな」
「それは、魔力損耗を起こす為でしょうか?」
「違う、そうではない。精霊の助力を得るというのは、確かに有用だ。しかし強すぎるのだ。時には魔法で、時には精霊石を介して得られる力は、言うなれば諸刃の剣だ」
「強いに越したことは無いと感じられます」
「大事な話だ、よく聞け。破壊や殺戮に関わった精霊たちは、極稀(ごくまれ)に性質を変える。それは『血酔いの精霊』とも呼ばれ、世界に仇なす災厄となるのだ」
「血酔いの精霊、ですか」
「貴様もこれまで眼にしていよう。破壊を暗示する濃紫に、死と破滅を暗示する黒に染まる何かを。あまねく魔獣は、血酔いの精霊どもの存在が大きく関わっている」
「なるほど。それがごく普通の獣とは違う点ですか」
「そうだ。人間を襲う魔獣という存在は、その人間どもが精霊を使役するが為に生まれている。皮肉な話だ」
「承知しました。以後も、無闇に剣を抜かぬことを肝に命じます」
「念のために伝えておくが、必要だと判断すれば躊躇わずに抜け。その時は、精霊どもも正しく力を貸してくれるだろう」
「はい。グレートソフィアの名に恥じぬよう気をつけます」
「物分りが良くて助かる……って、何だその名前は!?」
ソフィアは、思わず前の眼って叫んだ。そしてアクセルの平然とした顔を睨む。ボンヤリとした表情が酷く腹立たしい。
「伝え漏れていました。剣の銘が無いことに気づきましたので、名付けました。敬愛する師匠の名をお借りしています」
「ダメだダメだ! 絶対にダメだ! 金輪際その名を使うな、分かったか!」
「申し訳ありません」
「話はこれで終わりだ!」
強引に会話を終わらせると、ソフィアはベッドに身を投げだした。そして、暗闇に染まる天井を眺めつつ、言葉を溢した。
「まったくアクセルの奴め。小っ恥ずかしい事を。そこまで私を追い求めてどうするのか」
暗闇の中で、様々な顔が浮かんでは消えた。それらは全てが不肖の弟子、アクセルのものばかりだ。
「あまり構ってくれるな。確かに育ててやったが、愛してはやれん。私にはその資格が無いからな」
アクセルの顔が全て消えると、更に古い出来事が見えるようになり、そっと視線を逸した。出自の話に触れたばっかりに、辛い記憶が蘇りそうになる。
「知らぬままで居られるなら、その方が幸せかもしれんな。あやつは見抜いているのだろう。昔から妙に鋭いからな」
1人で静かに笑ううち、意識は徐々に遠ざかっていった。願わくば、アクセルだけでも幸せな生涯を。その祈りにも似た想いも、やがて支離滅裂な夢の世界の中で、溶けては消えた。
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