チョコレートよりも甘く

日諸 畔(ひもろ ほとり)

今日は2月14日

 柔らかい感触とほのかな体温がコート越しに背中へと伝わる。自分の腰へ視線を落とすと、彼女の腕が巻きついているのが確認できた。

 

 スウェットの袖からは、白く滑らかな指が覗く。見慣れたねずみ色は、俺が普段寝る時に着ているものだ。泊まりに来た時の彼女は、俺の服を奪う習性がある。着古してぼろぼろになっているスウェットに喜ぶ彼女は、とても愛らしい。


「いってらっしゃい」


 まだ眠気がとれないのか、ぽやんとした甘ったるい声。見送りの言葉には、どこか不満気な響きが含まれていた。


「うん、いってきます」


 今日はいつの間にやら国民的な文化となった日だ。女性が意中の男性にチョコレートを贈り、その想いを告げる。本来の意味からはだいぶずれている気がするが、世間ではそういうことになっているのだから仕方ない。


「お仕事がんばってね」

「うん、なるべく早く帰るよ」


 せっかくの日だからと、当初はなんとか在宅勤務にしようと画策していた。しかし、どうしても外せない打ち合わせが入り、出社する羽目になってしまったのだ。営業め、明日にしてくれよ。


「んふふー、待ってる」

「帰ったらご褒美期待してるよ」

「まっかせてー」


 彼女の弾んだ話し方には、わかりやすい理由がある。ざっくり言うと、手作りだ。今日休みをとり、昨夜俺の部屋に泊まったのはそのためだ。


「ご褒美は何?」

「んふふー、ひみつ」


 俺が家を空けることに多少の不満はあれども、基本的に彼女はご機嫌だった。口癖みたいに特徴的な笑い方がその証拠だ。


「はーい、じゃあね」

「はいはーい」


 後ろ髪を引かれる思いを振り切り、俺は外に出た。冷たい空気が顔に刺さるようだった。昨日はこんなに寒くなかったのに、くそう。


 駅までの道中、携帯電話に彼女からのメッセージがひっきりなしに届く。歩きながらの返信は控えなければ。ちょくちょく立ち止まる俺は、若干の不審者かもしれない。


『材料買いに行く前に洗濯しておくね』

 

 メッセージによれば、スーパーが開くまでに家事をしておいてくれるらしい。めんどくさいことを率先してやってもらえるのは、本当に助かる。お礼の言葉を返信して、俺は満員電車に体を押し込んだ。


 仕事はまぁ、それなりに順調に進んだ。営業の商談に技術的なサポートをするため同席するのだが、毎回毎回ほとんど俺が喋ることになる。残念ながら、成功したとしても俺の成績にはならない。

 普段であれば理不尽に感じるところではある。しかし、今日の俺は一味違う。なぜなら、正直なところ仕事をしている精神状態ではないのだ。

 とはいえ、もちろん仕事に手を抜くつもりはない。あくまでもそういう気分という話だ。


「お疲れ様でしたー!」


 夕方の商談が終わり、俺は同僚に勢いよく挨拶をした。ちょうど定時だ。事務所には戻らず直帰してやろう。


『仕事終わった。今から帰るよ』

『やったー!』


 彼女にメッセージを入れて、俺は電車に飛び乗った。約1時間半の移動時間が、倍以上に長く感じてしまう。


「ただいまー」

「おかえりっ! お疲れ様!」


 家に帰ると、俺のパーカーを着た彼女が満面の笑みで出迎える。アパートの部屋には、甘い匂いが立ち込めていた。

 とても魅力的な香りなのだが、俺は少しの違和感を覚える。この日に女性から男性に贈る慣例になっている、あの黒っぽいやつの匂いではないのだ。


「何作ったの?」

「んふふー、これ! 前食べたいって言ってたでしょ? 残念ながらまだ途中だけど」


 ネクタイをほどく俺に彼女が見せたのは、想像していたものとは大きく違うものだった。それが目に入った瞬間、あまりにも嬉しくなり、小柄な身体を強く抱き締めた。


「んー、なぁに?」

「覚えてたんだなって」


 嬉しい気持ちと照れくさい気持ちが混ざり、彼女の肩に額を押し付ける。俺が使う柔軟剤と、俺が使うシャンプーの匂いがした。


「んふふー、ばれた」

「ありがとうね」

「でもまだ途中なんだよ。ぐだぐだでカッコつかないー」

「いいよ、嬉しい」

「もー」


 今年のバレンタインに贈られたのは、作りかけのティラミスと、少し不満そうな彼女の笑顔だった。

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チョコレートよりも甘く 日諸 畔(ひもろ ほとり) @horihoho

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