第4話 Π(総乗)

 西南学院大学院生の池田利樹いけだ としきは、今までにない高揚した気持ちで午後の授業に出席していた。もっとも、そんな気持ちはおくびにも出さなかった――出さないように努力していたが。

 何しろ、サークルの後輩である後藤真美ごとう まみから、午後の授業終わりにチャペルに来てほしい、というメッセージを受け取ったのだ。彼女は群を抜いて、というわけではないが、二十歳の女性が持つ、あどけなさと大人っぽさの混ざった特有の可愛さを、年相応に備えているのだった。

 後藤に交際相手がいないことは、事前の噂話で知っていた――もちろん、彼女を狙う不届き者の男子学生が大勢いることも。池田にとって男女の関係という言葉は、これまで生きてきた四半世紀では最も縁遠い言葉だった。それだけに、後藤から送られてきたメッセージは、新たな言葉を人生の辞書に刻む千載一遇のチャンスといっても過言ではなかった。

 池田の脳内は早くも、授業後に描かれるかもしれない物語でいっぱいだった。今日はバレンタインデー、そしてチャペルへの呼び出し――その意図は、交際の申し込みであろう。手作りのチョコレートとともに、多数の不埒な輩を差し置いて、純粋な交際を一人勝ちできるかもしれない……。

 とはいえ――と、池田は別の可能性も考えていた。容姿には定評のある後藤のことである。自分が知らないだけですでに相手がいて、自分はいわゆる「義理チョコ」の範疇にとどまるのではないか、と。

 いやいや、と池田はかぶりを振ってポジティブな可能性に賭けることにした。わざわざ呼び出してくれたのだ。しかもチャペルに。しかも僕自身を。これは――そうであってほしい。

 就業のベルがなり、教員が講義を締めくくると、池田は足早に講義室を出た。友人が呼び止めたが、バイトが急に入ってさ、とごまかした。

 チャペルには誰もいなかった。張り切りすぎるのもよくないだろうかと思い、食堂で時間をつぶして、約束の五分前に扉を開けたのだが、それでも早かっただろうか。

 彼はチャペルに置かれた長椅子の一つに腰かけ、鞄を自分の隣に置いた。心臓が早鐘を打ち、その音が誰かに聞こえるのではないか、と思えるほどだった。

 五分間はあっという間に過ぎた。だが、後藤は顔を見せなかった――チャペルの扉が開く気配すら、ないように感じられた。やはり後藤は初めから、そんな気などなかったのではないか。自分の思い違いだったのではないか。

 しかし彼の憂慮は、背後で開く扉のきしむ音によってかき消された。彼はゆっくりと立ち上がりながら、背後を振り向いた。外の光でやや影になっているが、ほっそりとした身幅、肩の上で切りそろえられた焦茶色の髪、まっすぐに筋の通った高い鼻、長いまつ毛に挟まれた大きな瞳は、その人物が後藤真美本人であることを物語っていた。午後三時をちょうど回った頃合いだった。

「……後藤さん?」池田はそう言って、自分の声が震えているのに気づいた。そして、自分の耐性の無さを笑った。尋ねられた女性は、「はい、そうです」と答えた。池田は全身の毛が逆立つような高揚感に包まれた。


     *****


「『陽』粒子レベル、予想値を突破! 現在レベルノインです!」

 午後二時二十五分。悲鳴のようなヴィクターの報告がモニター室に響いた。

ノインか……このレベルは史上初だな。まったく、どれほどベタ甘なシチュエーションが展開されているのだ……?」

「博士、特派員の到着予想時刻が出ました。一四五〇ヒトヨンゴーマル現地到着の予定です」コンソールのモニターを見ながら報告するヴィルヘルムの声は冷静だったが、彼もまた額に汗を浮かべていた。

「了解、そのまま向かわせろ。レーザーで『陽』粒子場を中和させ、特派員には現地で『塩』感情の簡易発生器を使わせる。これで応急的にだが、エネルギーを相殺できるはずだ。ヴィルヘルム、そのまま観測所に連絡。レーザー照準を開始」

「レーザー照準、開始します……なに、照準できない?」

「できない……? どういうことだ」

「状況解析、出ました。『陽』粒子の力場がかなり強力かつ多数の層で球状に形成されているようです。まるで……ミルフィーユです」

 ヴィクターは沈鬱な表情で報告した。クーゲルシュタインは目を細め、「継続だ。照準をこちらとむこうの二拠点から合わせ、精度向上を図る。モニターに呼び出せ」

 ヴィクターの声とともに呼び出された照準画面に、その場の一同が唸った。ウィンドウいっぱいに表示されたのは、照準地点のチャペル――ではなく、それを覆う粒子のエネルギーによって極度に歪められた、力場のノイズだった。

「まるでブラウン管テレビだ……」信じられない、とでも言いたげにヴィルヘルムが目を見開いている。一方で、クーゲルシュタインは背筋を伸ばして目を細めたまま、ヴィクターに指示を飛ばした。

「望遠倍率を下げろ。……そうだ、粒子球の全体が見えるくらいにまで……よろしい。そこで止めてくれ」

 ウィンドウには、幾重にも重なった層の中で縦横無尽に走る、赤色の粒子の流れが鮮明に映し出されている。ヴィクターはその力場の明らかな強さに――そして、あの場の人間が抱いている感情の強さに戦慄した。

「こんなもの……どうやって中和するんです」

「一つだけ、可能性がある。特派員の簡易発生器で内側から力場を見出し、その隙を衝いてレーザーを臨界状態で照射する。内と外から同時にエネルギーをかければ、幾分かは相殺されるはずだ。――ヴィルヘルム、観測所に伝達」

「はっ」

「感情レーザーの圧縮限界突破を許可。臨界状態にて維持。現地時間の一五〇〇ヒトゴーマルマルを回ると同時に照射。――これが、頼みの綱だ……」


     *****


 後藤は後ろ手にチャペルの扉を閉めたまま、手を後ろに組んで入口に立ったままであった。「何か……」と、池田は精一杯に平静を装って相変わらずの震え声で言った。「僕に、用が?」

 後藤は無言のままこくりとうなずいた。池田はこのまま、相手の出方をうかがうべきか、それとも自分が相手に歩み寄るべきか逡巡した。友人の、「男ってのは最初にアピールするのがマナーなんだぜ」という半ば前時代的なかつての言葉を思い出し、椅子の間を通って通路に出ようとした。

「そのままで……池田さんはそのまま、そこにいてください」

 池田の動きを察知した後藤は慌てたように口を開き、池田を押しとどめた。そして、ブーツの音を響かせながら、一歩一歩池田のもとへ歩いた。池田には、彼女の姿がヴァージンロードを歩く花嫁のように見えた。

 後藤は左の肩にかけたバッグを開け、小さな赤い包みを取り出した。それを両手に乗せ、はい、と池田に差し出した。

「これは?」分かり切った質問だった。「もう、わかってるくせに」と後藤は口をとがらせ、質問をした自分も、それに答えた後藤の姿もどこかおかしかったので、二人の口からは自然と笑いがこぼれた。ありがとう、と池田はチョコレートの包みを受け取ったが、後藤はそれきり、池田の前に立ったままである。池田は弛緩した空気の中で小さな嗜虐心が芽生えているのを感じたが、今はその流れに乗ってみることにした。

「まだ、何かあるの?」後藤はハッとして、伏せていた目線をそらした。顔が赤らんでいるのは明らかだった。

「あの、池田さん……。私、その……私を、池田さんの……」

 か細い声を紡ぐ後藤を前に、池田は生唾を飲み込んだ。

 見上げる後藤と、見下ろす池田。二人の目線が重なる――その時。大きな音を立てて、チャペルの扉が開いた。転がり込んできたのは――。


     *****


 午後二時五十七分――IPAZのモニター室は、異様な緊張感に満ちていた。空間断裂の発生可能性を告げるアラーム、現地の特派員からの通信を告げるアラーム、照準不可能を告げるアラームが同時にけたたましく鳴っている。ヴィクターとヴィルヘルムが刻一刻と変わる状況を報告している中、クーゲルシュタインはひとり不動の姿勢を貫き、照準の表示されたウィンドウをじっと睨んでいた。

 政治家と科学者たちも固唾をのんで、彼らの動向を見守っていた。

「――これより、照射最終段階に入る。観測所に伝達」

「伝達回路、開きます」

「最終照準調整を行う。E=33.584817、N=130.353554。風速と気温に伴う誤差修正は現地の判断に委ねる。照射まで百二十秒――続いて特派員への伝達回路、開け」

「伝達回路開きました!」

「照準地点、チャペル外部にて待機。簡易発生器を『ザイツィヒ』感情に設定の上、起動より五秒以内でのエネルギー発生を可能にしておくように」

「特派員への伝達、完了。……博士、現地特派員より緊急通信! 高濃度の『陽』粒子の力場により簡易発生器の動作に支障発生」

「状況を具体的にくれ」

「『陰』粒子生成装置に不具合が生じています……生成回路がショートしているもよう!」

「……このままでは空間が感情エネルギーに耐え切れず断裂を生じさせてしまう。発生器が破損しても構わん、なんとしても抑えるのだ!」

「博士!」モニターを監視していたヴィクターが重ねるように叫んだ。「粒子レベル、さらに上昇! 現在のレベルはツェーンです!」

「まずい! 断裂が生じるぞ!」

「現地時刻、一五〇〇ヒトゴーマルマル! 槍ヶ岳観測所よりレーザー照射されます!」

 ヴィルヘルムの野太い声と同時に、岐阜県と長野県の県境にそびえたつ槍ヶ岳の観測所から、臨界状態に圧縮された『ザイツィヒ』感情レーザーが照射された。後にこの照射記録を調査した観測員は何度も首を傾げた。システム内に残された記録によると、照射地点における粒子球は、で回転していたという。

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