第3話 Im(像)

 日本時間十二時三十五分。スイス某所のIPAZ――Institut für Physik大気組成 der atmosphärischen物理学 Zusammensetzung研究所――モニター室で、アラームが鳴った。『陽』粒子の急激な増加の予兆が再び見られたためである。

「ヴィルヘルム、まずいですよ。また日本で『陽』粒子の急増の兆しが現れてます」

「ヴィック、またそれか? さっきも言ったじゃあないか、今日はバレンタインデーで......」

「そんな悠長なこと言っている場合ではありませんよ。この上昇値、見てください」

 新人は、この後四時間の間に生じると計算シミュレートされた『陽』粒子の総量を提示した。それを見たヴィルヘルムの顔はみるみるうちに青ざめていった。

「まずいぞ、これは......。これは確かにまずいな。緊急通知アラートを鳴らせ、クーゲルシュタイン博士に直接つなぐんだ。急がないと、最悪の場合......」最悪の場合、という今まで聞いたことのないヴィルヘルムの言葉に、ヴィクターは身震いした。「最悪の場合、位相空間に断裂が発生し......平行世界との重なりが生じて、誰かが平行世界に飛ばされる可能性がある」

 ヴィクターは、コンソールにおびただしく埋め込まれたボタンのうちいくつかを軽やかな手つきで押すと、自身の席の左側にある赤いボタンを拳で強く叩いた。たちまち施設内全域にアラームがけたたましく鳴り響き、同時に機会音声が「空間断裂発生の可能性あり。空間断裂発生の可能性あり。直ちに対処せよ。空間断裂発生の可能性あり......」と異常を知らせた。

 一分と経たないうちにモニター室へ駆け込んだのは、クーゲルシュタイン博士である。彼は息を切らしながら扉を乱暴に開け、階段を駆け下りて二人のもとへ駆け寄った。

「どうなっている。状況は?」

「日本で『陽』粒子急増の予兆あり、しかもかなり大幅です。このままでは空間断裂が現れる可能性があります」

「ヴィック、予兆が見られた座標をだせ。今すぐにだ! ヴィルヘルムは槍ヶ岳の感情観測所と連絡を取れ。『陰』粒子レーザーの準備をするように伝えろ。一歩間違えれば、大変な世界のゆがみが生じるからな……」

 数年に一度程度で博士の口から発せられる「粒子レーザー」の単語に、ヴィルヘルムは表情を険しくした。彼はコンソールの右側にあるパネルを操作すると、日本は岐阜県、標高三一八〇メートルの槍ヶ岳山頂付近に設置された感情観測所を呼び出した。

「座標、出ました。N=33.584817、E=130.353554です! 一般名称……『西南学院大学チャペル』」

「チャペル、そしてバレンタインデー……『シュッセ』感情か!」クーゲルシュタインは眉根を寄せた。「やれやれ、若いってのはいいもんだと思っていたが、今回ばかりはそうでもないな」

 その時、背後の扉が開き、シラー大統領以下五人がモニター室へなだれ込んできた。彼らは、突然走り出したクーゲルシュタインの後を追ってきたのである。

「ちょっと、あんたら……ここは最高機密の場所ですよ! うかつに入っちゃあ……」

「構わん!」ヴィクターの椅子に片手をかけ、モニターを見つめながらクーゲルシュタインが怒鳴った。「もともとここへ招く予定だったのだ。それに、我々のを認めさせる絶好の機会さね」

「観測所、連絡取れました」早口のヴィルヘルムの報告に、クーゲルシュタインはよろしい、と一音一音をはっきりと口にした。

「座標を伝え、観測所に引き続き連絡。『ザイツィヒ』感情レーザーを用意。現地時間、一四三〇ヒトヨンサンマルに最大圧縮、最大威力で座標に向けて照射。位相空間の『陽』粒子レベルを、断裂が生じない程度に収めさせろ」

「座標、伝達。引き続き、『ザイツィヒ感情レーザー、現地時間の一四三〇ヒトヨンサンマルにて最大圧縮レベルで照射。オーバー」

「ヴィック、『陽』粒子の増加予測はどうなっている」

「現在、レベルフィーアを突破。なおも増加中……最大値予測は現在、アハト……!?」

アハトか、レーザーだけじゃ足りんかもしれんな。ヴィルヘルム、現地特派員のJP028を呼び出せ。彼が目的地に近いはずだ」

「JP028は五分前に、別地点における超閾値『陰』粒子への対処のために出動させました」

 ヴィクターがコンソールのキーボードを操作しながら言った。JP028は今、東海道新幹線で広島から名古屋に向けて移動中とある。クーゲルシュタインは小さく舌打ちをし、ヴィクターに非番の特派員を調べさせた――鹿児島市にて、休暇中の特派員JP055が確認された。

「ギリギリ間に合う距離に、一人確認しました。つなぎますか?」

「十分以内に目的地に向け出発させろ。一刻を争うからな」

 ヴィクターはJP055を緊急通信で呼び出しにかかった。

 その一連の流れを見ていた大統領と教授陣は、先ほどとはまったく異なる表情を見せているクーゲルシュタインに目を白黒させていた。引き絞られた弓のように緊迫した空気の中、貼りつけられたような唇を開いたのはピサロであった。

「ク、クーゲルシュタイン博士……今の状況は一体……」彼は額にうっすらと汗を浮かべて言った。クーゲルシュタインは首だけで背後にいる者たちを振り返った。

「まあ、現段階でできることはやったからご説明しましょう……今まさに生じているのが、世界におけるひずみの発生の危機です。そして、我々はそれに対処しようとしている」

「ひずみ、とは?」菅沼が眼鏡をくいと上げながら言った。クーゲルシュタインは体ごと、背後の彼らに向き直った。その表情は冬のヒマラヤの峰よりも厳しいものだった。

「ドッペルゲンガー、というものがあるでしょう。あれは大本をたどれば、感情エネルギーの局所的な増加によってもたらされた、平行世界の重なりなのです。平行世界は本来、多次元宇宙マルチバースにおいて重ならないはずのものです。それがわずかたりとも重なってしまう……この重なりによって、本来なされるべき世界の進行に、ひずみが生じてしまう、ひずみは時間とともに拡大し、それはある時、また別の感情エネルギーの爆発を伴って解消されます。その爆発というのが……」

「もしかして、先ほどご説明にあった、戦争なんかだというのですか……?」菅沼がまたも、眼鏡を上げながら言った。クーゲルシュタインは芝居がかったようにゆったりと拍手し、彼の推理力の高さを賞賛して見せた。

「その通りですよ、菅沼博士。我々の目的、覚えていますね? そう、世界の秩序と安定の維持。そのために我々は日夜こうして世界的な感情エネルギーの変化を観測し、その急激な変化がもたらすひずみから世界を守っているのです」

「それは、もうよくよく実感したのですが……」シラーが銀色の短いあごひげをさすった。「『シュッセ』感情とか、『ザイツィヒ』感情とかいったもの、それから感情レーザーとは、一体何なのです?」

「シラー大統領、いい質問だ……ヴィクター君、説明してあげなさい」クーゲルシュタインは今や、もとの芝居調子に戻りつつあった。コンソールを操作してウィンドウをモニターに呼び出すと、椅子を回してヴィクターは立ち上がった。

「アメリカの心理学者であるロバート・プルティックは、人間の感情を八つの基礎に分類しました。すなわち――喜び、信頼、恐れ、驚き、悲しみ、嫌悪、怒り、予期の八つです。そして我々はこの八つの基礎感情を、二つずつ四つのグループに分類し、それらを『味覚』の表現にて表しました。喜びと信頼は『甘味シュッセ』、恐れと驚きは『酸味ザウエル』、悲しみと嫌悪は『塩味ザイツィヒ』、そして怒りと予期は『苦味ビッテル』。どうです、意外とイメージとあっているでしょう? これらのうち、前二者は『陽』粒子を、後ろ二者は『陰』粒子をエネルギーの中心に持っています。そして、このプルティックによる感情の輪の図を見ていただければわかるように……『甘味』と『塩味』、『酸味』と『苦味』が対極の位置にありますね」

 と、そこでヴィクターは言葉を切った。スクリーン状にはプルティックによる感情の輪が大きく映し出されている。政治家と科学者はヴィクターの話を思い返し、各自が大なり小なりになるほど、と首を縦に振っていた。

「それぞれ対極にある感情は、ぶつかり合うことでエネルギーがが相殺されます。この原理を利用して、我々は感情エネルギーの逸脱を防いでいるのです。その手段の一つが、先ほど我々が連絡を取っていた、感情観測所に備え付けられた『感情レーザー』……特定の感情エネルギーを圧縮したレーザーを照射し、ピンポイントでその地点の感情エネルギーの大幅な変化を軽減するのです」

「実に、実に面白いですな……しかし、先ほどそれでは足りない、とクーゲルシュタイン博士はおっしゃっていたような……」とピサロが言った。クーゲルシュタインは、うむ、と腕を組んだ。「そうです……運が悪ければ、またも世界の進行にひずみが生じるかもしれん。ですがそれを全力で止めるのが、我々の使命です」

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