十五 金鶴楼
一橋が思ったよりも真剣な顔になると、狐火も表情を引き締める。
「これからの時代、幕府が力を持ち続けることは難しい。私は帝を中心とした大政を志したいと思う」
いきなりの核心を突いた発言に狐火の視線が一橋を刺す。
「将軍となろうとも京を離れるつもりはない。長州はいずれ幕府を潰しにくる。その時のために朝廷と密に手を取り合う必要がある」
「一橋はんの思惑はほんまにそれだけやの?」
狐火の見極めんとする鋭い目が面の奥に光る。これには参ったと一橋がふっと笑みをうかべた。
「狐火は手厳しい。察しの通り、これは徳川を守るための策でもある。長州の狙いは討幕。徳川を守るためには幕府を切るのも一つの手。しかし帝をこの国の象徴として政を進めていきたいのも本心。帝はそのような存在であるべきと思っている」
未だ疑いの目を向ける狐火に笑いかける。
「共に帝を守ってはくれないか?」
緊張が解かれた声音に狐火も逆立てた毛をおさめた。
「まあええわ。一橋はんがこちらの敵にならんと信用しましょ。御所ちゃんがあんたはんを将軍と認めてる。それならうちも従うまで。うちはこれからも御所ちゃんと共に……京を守れればそれでええ」
つい出そうになった本音を抑え込む。一橋はまるで気にならなかったようで狐火の淀んだ言葉には触れなかった。
慶応二年 十二月二十七日
長州征伐が続く中、浪士たちによる騒ぎは抑えられ新選組にも派手な動きはなかった。魂喰といえば、それに付随して新選組よりも帝の住む御所と徳川慶喜のいる二条城を行き来する日々を送っていた。狐火も帝の傍にいれることに機嫌をよくし、つい浮足立ってしまう。故に垂れこめていた暗雲さえも気付けずにいた。
その日は冬に似つかわしく曇天が広がる。昼間というのに一筋の光も差し込むようすはなかった。そんな日も狐火は疑わずその時を過ごす。魂喰における今後の去就を話し合うため猫尾のいる部屋へと向かった。襖を開けると部屋の中に猫尾の姿がない。部屋の外、庇の下の廊下に猫尾が腰掛け庭を眺めていた。自由気ままなその背中に声を掛けようとした時だった。従者が猛烈な勢いで駆けてくると狐火たちがいる部屋に飛び込んできた。あまりにも取り乱した様子に狐火が咎めることも忘れるほどだった。
「なんやの、騒がしい」
尋常でない様に猫尾もそちらに振り返る。
「狐火様、天子様が……天子様が!」
従者の慌てふためきように嫌な予感を感じた。身体の血管という血管が逆撫でられたように狐火が身震いをする。ぞわぞわとしたものが体中を這いまわる。ここまでの胸のざわつきを今まで感じたことがなかった。
「御所ちゃんが、なんやの」
冷静に問い詰めるつもりが思わず声が上ずった。口をぱくぱくとさせ、言葉を出せなくなっている従者に狐火が詰め寄る。その殺気に気圧されると従者の体が縮こまった。
「今しがた、体調を崩され、倒れられたと」
狐火が怪訝な顔で従者を睨むと目も合わせられなくなり狼狽えだす。
「それが、かなりの重篤な様子。狐火様を、お呼びするようにと、天子様が仰せだと……」
「重篤? 今の今までそんな異常なかったやろ」
凄む狐火に従者も泣きそうな顔になる。
「呪い、かもしれへんなあ」
険悪な空気にゆるい声が聞こえた。猫尾が庭を見つめたまま言い放つ。
「呪詛使の仕業やて? ありえへんやろ!
「共に生きることが正道だと、当たり前に思うておるのはお主の考えよ」
狐火の思考が止まり血の気が引く。上手く息が出来なくなると突然に部屋を飛び出した。面を付けるのも忘れていた。息を整えることが出来ない。周りの景色がぐらついて正常に見えない。こんなになりふり構わず、ただ走ることしか出来ないのは初めての経験だった。
廊下をひたすらに走ると視界の端に貂を捕えた。
「狐火様、帝が!」
貂に僅かすら構わずにその横を走り抜ける。屋敷をでるとつんのめるように空へと飛び上がった。
どんな顔をしていただろう。不安で不安でしょうがない泣きっ面か。
「御所ちゃん、すぐに帰ってくるから」
消え入りそうな声で帝が言葉を伝えると、狐火がすとんと帝の傍に腰をおろした。あぐらをかき、つらそうな表情をじっと見つめる。わずかな音も負担になると、物音ひとつ立てずただただ静かに寄り添っていた。
「辛いやろうに」
泣きそうで悲痛な、小さな声に帝が反応する。
「だんないだんない」
狐火の口癖を帝が真似ると頬をゆるめる。帝が少し目を開ける。目から零れたのは太陽が降り注ぎ煌めく川のような光。そんなふうに狐火には見えた。「だんない」と励ます帝が狐火の手を取った。その手を両手で包み込む。帝の息が薄くなり消えていく。赤く染まった顔が次第に収まってくると、帝が狐火の顔を愛おしく眺めた。
すっと帝の目が閉じられる。力なく重くなった帝の手がずりしと狐火の手の中に落ちた。帝が静かに息を引き取った。
その手をもう一度ぎゅっと握る。せり上がってくる気持ちを無理やり抑え込み、帝の額についた玉汗を袖で優しくふき取る。最後にその崇高な顔を惜しそうに撫でた。
狐火が立ち上がると廷臣たちに帝を任せ、御殿の外へと駆け出した。においを嗅ぎ取っていくように狐火が迷わず
「うちに見つけてほしかったんか?」
声をかけても返事がない。ただ呻くような声を発するだけだった。その人物の顔が確認できるところまで寄るとしゃがみ込む。
「呪いをかければ必ず呪い返しに合う。呪い返しも呪いの一種。神からの呪いはキツイやろ。なあ、桜王」
カタカタと震える体からは正気がほとんど感じられない。次第に目から鼻から、穴という穴から血が流れ出て来た。その痛ましい光景に狐火が目を細める。
「御所ちゃんが自分でお前を呪い殺すと言うた。お前を一緒に連れていくと。ほんま、妬ける話やろ」
聞こえているのかいないのか、答えない桜王の震えがはげしくなる。
「なあ、桜王。
ついに桜王の口からどっぷりと血が溢れ出た。最後に激しく呻くとぴたりと動かなくなった。狐火がむなしそうに息をつく。
「御所ちゃんはお前を恨むことは望んどらん。御所ちゃんが望まんことはうちもせん」
立ち上がると近くにあった
「今手を出せばこちらが殺られる。殺る時は相打ちや」
桜王から抜け出た化け物が飛び立った方を睨み、その場を後にした。
屋敷に戻ると中庭に向かい、廊下に腰掛ける。誰も狐火に近寄ろうとしなかった。誰もが狐火を見ないようにし過すごしている。わざとらしいほどだった。そんな中、ひたひたと近づいてくる足音が聞こえた。
「どないしたん」
上の空の狐火に声を掛けられると、貂が浅く頭を下げた。
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