第10話

 越後から陸奥への道中で服部半蔵は肩透かしを食らうはめになった。予想していた異変が何も起きなかったからである。彼を妨害する敵は出現せず、身の安全を補償されたかのように呆気なく、会津を経由して陸奥に入ることができた。越後と同様、まだ残雪が多く、冬の凍てつく寒気は大地を覆っていたが、仙台城の城下町もまた春の到来を心待ちにした賑わいに満ちていた。ところが一つだけ気懸りな点があった。それは切支丹の気配が、まるで蒸発したように消えていることだ。数年前に江戸幕府は切支丹の禁教令を出していたが、それは幕府の直轄地に限定されている。これには少し奇異な印象を受けた。


 結局、三代目服部半蔵は越後で彼自身が刺客に狙われたことと、陸奥における切支丹の消失という二つの事実を手土産にして、江戸へ戻ることにした。杉谷善住坊の可能性を首の皮一枚で残す観音爺さんを、五助が播磨の三草山で監視している以上、半蔵を標的にした何者かは、当然のこと観音爺さんであるわけがない。第一あの老人が、半蔵よりも早く播磨から越後へ移動することなど無理な話だ。正体不明の刺客が敵の策謀で動いているのは明らかだが、この冬の大坂の陣以降の状況は複雑怪奇に変容しつつある。無論、幕府側が勝利する大勢に影響は無かろうが、半蔵は奥歯に物が挟まったような不快な違和感を覚えた。


 ほぼ床が真四角の空間は、清潔かつ簡素に纏められていた。地球儀と小さな壺に生けられた梅の花以外に目立った物が無く、質素倹約な雰囲気をその二つの要素が余計に際立たせている。

「半蔵の言葉を信じよう。用心に越したことはない」

 江戸城の将軍愛用の控えの間で、服部半蔵から報告を受けた徳川秀忠は、開口一番、きっぱりとそう断言した。秀忠は江戸幕府第二代将軍に就任してから半蔵とは全く会っておらず、この日はその再会を素直に喜び、屈託なく笑みを溢している。端正な顔を綻ばせた上機嫌な様子に、半蔵は表向きではあっても、かつて直属で仕えた主君が、今は征夷大将軍として幕府の頂点に立っている事実が頼もしかった。しかし実際にこの国を動かしているのは、駿府城で隠居を装う大御所の徳川家康だ。そしてその大御所に最大級の影響力を発揮しているのが、この場で仏像のように静止している重臣の本多正信であった。謂わばこの江戸幕府第二代将軍は、黒幕の老雄二人に操られている。


「‥‥やはり、夏には決着をつけねばなりませぬな」

 暫しの沈黙を守り、秀忠と半蔵の話を傾聴していた正信が重い口を開いた。この場には三人しかいなかったが、半蔵は決着という言葉から、越後と陸奥で半蔵の遭遇した事実が、所詮は大御所の巧緻な頭脳の想定範囲内であったことを思い知らされた気がした。大坂城に居座る豊臣氏は、やはり大御所の暗殺を切り札にしている。否そればかりか、ひょっとすると大御所の家康だけではなく、この将軍の秀忠さえ標的にしているのかもしれぬ。そして徳川家康の三男で、正統な後継者である秀忠が消えて都合が良いのは、豊臣氏はおろか六男の忠輝とその舅の伊達政宗だ。


「父上はあの政宗を、腹の底では信用しておらぬ。恐らく半蔵を狙ったのは、豊臣ではなく、伊達の間者ではなかろうか。困ったものよ。伊達が豊臣と裏で通じておったら厄介だ」

 秀忠は吐き捨てるようにそう言い放ったが、その言葉尻にはやや感情に左右されている様子が窺えた。伊達政宗への嫌悪感には、弟の忠輝に対するそれも含まれているようであった。半蔵は秀忠を少し気の毒に思った。彼は弟が正式に服部半蔵を名乗り、今の自分が影のような身分ではあっても、弟の幸福を願える余裕を持っていたからだ。

「伊達政宗も真田幸村も、大御所様の読み通り、戦国の夢を未だ捨てきれぬのでしょうな」

 本多正信は徳川秀忠へそのように応えて同調したが、そこには礼節の裏に彼固有の思想信条を隠しているような趣きがあった。そして半蔵は、ここで五助のことをふと思い出した。彼はこの正信を深く尊敬している。命を受けて行動する五助には、強い使命感と同時に責任感があった。それはあいにく、半蔵がかつて率いた鉄砲隊に所属していた頃には見受けられなかったものである。


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