エピローグ

 十二月十四日。午前十一時。

 リビングのテーブルで特売のチラシを眺めていると、目の前を夫が通り過ぎた。寝起きの顔でのそのそと洗面所に入っていく。刑事の夫がこの時間に起きるということは、すなわち翌日の夜まで家に帰ってこないことを意味する。

 明日は三度目の結婚記念日だというのに、仮に憶えていたとしても祝う気はないらしい。千尋は半ば諦めの心地でテーブルの上の冷えた朝食を見つめた。

 やがて身支度を整えた夫がリビングに戻ってきた。ラップをかけたトーストとハムエッグを文句も言わずに頬張る。

「明日の夕方には帰ってこられるはずだから、そのあとどこかで食事をしよう」

 なるほど、きちんと憶えていたことを評価すべきだろうか。千尋はあからさまに大きなため息をついた。

「そう言ってどうせ長引くんでしょ。これじゃレストランの予約もできないわね」

「本当に申し訳ない」

「ま、いいけどね。今に始まったことじゃないし」

 さばさばした口調で言ったとき、回していた洗濯機の終了音がした。立ち上がろうとした千尋を制し、夫が「俺が行く」と言って席を立つ。妊娠中の妻を慮ってか、最近よく家事を手伝ってくれるようになった。

 心の中で夫に感謝しながら、テーブルに積まれた雑誌の一番下、硬い表紙の卒業アルバムに指を触れた。ずっと後回しにしてきたが、そろそろこの話をしなければならない。何も怖いものがなかったころの記憶などできれば掘り返したくなかった。

 だが……。千尋は自分のお腹にそっと手をやった。きっと今言っておかないと後悔する。この手があの人の背を押し、人生を奪ったも同然なのだから。

 今から三年前、桜庭はどうしても結婚の報告に行きたい人がいると言った。警察関係者ではなく昔の友人だという。事情がわからないまま木造一戸建ての住宅に案内され、そこで盲目の男性と出会った。

 旧交を温めるようなやり取りのあと、桜庭が互いを紹介した。

「さて改めて紹介するが、長谷部千尋だ。――千尋、こちらがいつも話している眞木祐矢くんだ」

「はじめまして、長谷部千尋と申します。いつも桜庭がお世話になっています」

 千尋は前に進み出て挨拶をした。何か変なことを言ったつもりはなかったが、今まで快活に話していたその男は突然口をつぐんで黙り込んだ。

「どうしました? 眞木さん?」

 横に立つ若者が不思議そうに顔を覗き込んだ。そっと肩に手を触れると、男性はようやく我に返った。

「すみません、考え事をしてしまって……。ご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます。ご都合がよろしければぜひ式にいらしてください」

 違和感には気付いていたが、千尋はあえて追及しなかった。桜庭もその場では何も言わず、帰り道の途中でようやく話題にした。

「どうしたんだろうな。千尋の名前を聞いた途端、顔色が変わったように見えた」

「誰かと勘違いされたんじゃないかしら。わたしの知り合いにはいないわよ、目が見えない人なんて」

 駅に向かって歩きながら今日の夕飯は何にしようかと考えた。桜庭は解せない顔つきで後ろをついてくる。結局、眞木は二人の結婚式には来なかった。

 それから何事もなく三年が過ぎた。そして今年の秋ごろ、千尋は中学の同窓会に出席した。桜庭は仕事で忙しくしていたから憶えていないだろう。市内のホテルで当時のクラスメイトが集まって昔話に華を咲かせた。

「そういえば卒業式に来なかった男の子のこと憶えてる? 死んだんじゃないかって噂になっていたけど、まだ生きているみたいよ。見た人がいるみたい」

 中学のころ仲良くしていた元クラスメイトはビールを片手に笑った。名前は忘れてしまったが、その人物は目が見えなくなっていて、白状をついて歩いていた……と続けた。

「千尋、あの子のことが気に食わないってずっと言っていたもんね。窓のところまで追いつめて突き落としたんだっけ?」

「やめてよ。みんな面白がっていたくせにわたしひとりのせいにしないで。あれは向こうが勝手に飛び降りたのよ。わたしが押したわけじゃない……」

 そう口に出してから千尋はハッとした。元クラスメイトは「そうよね」と頷き、義母の愚痴をこぼし始めた。だが大半は千尋の耳を素通りした。

 そうだ。あのときのクラスメイトの名前は眞木祐矢。結婚の報告に行ったとき、彼があんな反応を示した理由がわかった。しかも千尋は当時のことを忘れていて、名前を聞いても平然としていた。自分をひどい目に遭わせた同級生を前に冷静でいられるほうがどうかしている。

 このことを夫に話せば幻滅されるかもしれない。真実を打ち明ける勇気が出ず、千尋は長い間悩み続けた。

 ようやく決心がついたのは、お腹に子を宿し、親になる自覚を得てからのことである。喜びを露わにする夫を見てこのままではいけないと思った。きちんと過去の罪を打ち明け、謝罪してからでないと母親になれない気がした。

 適当な理由をつけて実家に戻り、卒業アルバムを持ち帰ってきた。いずれ夫にこれを見せて洗いざらい打ち明けるつもりだった。

 ――今日は三度目の結婚記念日。今なら勇気が出せるかもしれない。

 そう思ったとき、千尋の前にすっと小さな箱が差し出された。顔を上げると、夫が気まずそうな顔をして立っていた。片手に洗濯物の籠を提げている。

「記念日のプレゼント。一日早いけど」

「え……。そうなの?」

 不意を衝かれた千尋は目を丸くした。リボンをほどいて箱を開けると、中には指輪のケースが入っていた。

「本当は明日渡したかったんだけど、急に仕事が入ったから……」

 夫は洗濯物を干しながらブツブツ言い訳している。千尋は「シャツはアイロンをかけるから置いといて」と声をかけながら、指輪をケースから出して手のひらに置いた。

 金色のシンプルなリングに誕生石のルビーが映え、とてもきれいだった。左手の結婚指輪の上につけ、目の高さにかざしてみる。塞いでいた気持ちが晴れやかになり、鼻歌交じりにスタンド式のアイロン台を出した。

「ねぇ、帰ってきたら話したいことがあるんだけど」

 夫のシャツにアイロンをかけながら何気ないふりを装って言った。ネクタイを結びながらテレビを見ていた夫はこちらを見もせず言った。

「うん? 今じゃ駄目なのか」

「大事な話だから、あなたの仕事が終わったあと話したいの」

 それをどう解釈したのだろう、夫は青天の霹靂のように表情を曇らせた。今から仕事に向かう刑事にプライベートの話はご法度だ。こればかりはきちんと腰を据えて話がしたいと思って黙っていた。

 しかし夫は話の続きが気になるようでしつこく聞いてきた。それを振り切ろうと少々子どもっぽい態度をとってしまったかもしれない。

「知りたいなら早く帰ってきてよね」

 最後にそう付け加えた。夫は不服そうな顔で返事もせず、背を向けて靴を履いた。

「――いってらっしゃい」

 扉が閉まる間際、いつもの言葉を投げかけた。夫がひょいと手を上げるのが見え、千尋も手を振り返した。

 玄関の鍵を閉め、扉にもたれて左手の指輪を見つめた。明日はきっと特別な一日になる。疲れて帰ってくるであろう夫に心を込めて「おかえりなさい」と言おう。それから中学のころの話をして、叶うなら眞木にもう一度会いに行こう。

 そうでなければ自分は親になる権利も、この指輪を受け取る資格もないはずだから。

(了)

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利峰署管内 1st File 沢ユエノ @yueno_S

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