30

 すっかり晴天となった昼過ぎごろ、リクは眞木と一緒にあの歩道橋を訪れた。すでに規制線は解除され、ここで人がひとり死んだことは忘れられつつある。リクは両腕に抱えた花束を供え、そっと手を合わせた。

「ここで千尋さんは亡くなったのかい?」

 後ろに立つ眞木がぽつんと呟いた。何とも形容しがたい表情で上空を見つめている。リクはつられて同じ方向を見た。当然ながらそこには何もない。

「あのとき通報していたら助けられたかもしれません。逃げなきゃよかったと後悔しています」

 遺体が発見されたあと紙片を置いたのはせめてもの罪滅ぼしだった。千尋の旧姓と飯塚英生の名前を並べて書けば警察の目に留まるはずだ。これは悪戯ではない、連続殺人かもしれないという疑いが持ち上がれば捜査の手が入る。あのカラオケ店に行く前に逃げ込んだネットカフェで自分なりに考えたことだった。

 千尋が妊娠していたことはあとから聞いた。あの市ノ瀬という刑事は二人の人間を死に追いやったのであり、リクは二人の人間を見殺しにしたのだ。

「そう思うなら忘れないことだ。君には見えているこの場所で人が死んだこと、自分が行動していれば助けられたかもしれないこと、憶えていられる限り忘れないようにすればいい」

 眞木は虚空を見つめたまま言った。その胸中で何が渦巻いているか他人に知る術はない。リクは眞木の気が済むまで待つことにした。

 実の親から愛情を受けなかった子どもなんて大勢いる。自分もそのひとりであることを言い訳にしたくなくて、それなりに真面目に生きてきたつもりだった。

 生みの母は当時二十歳を出たばかりの世間知らずな女だった。同棲していた男と安アパートで荒んだ生活を送っていたが、妊娠を告げたあくる日に逃げられた。そして母は誰にも知られずアパートの一室で出産した。

 幸運というべきか生まれた赤子は健康体で、劣悪な環境でもすくすく育った。しかし母は自分を置いて逃げた恋人、そもそも素性もよくわからない男を父親とは認めなかった。その決意が我が子のみならず、自分の運命を決めるとも知らずに……。

 リクがいくつのころか忘れたが、母は弁護士の飯塚英生と家を出た。わずかな現金と家財道具を残していったが、学校にも通ったことがない子どもに世間は厳しかった。

 まずアパートの大家に追い出され、路上生活者として何年も過ごした。ボランティアの炊き出しの列に並んだことも数知れない。鍋をかき回す女性からは哀れな視線を向けられ、中堅の路上生活者からはまだ若いのにと皮肉を言われた。

 背が伸び、声変わりをし、いつの間にか大人になって、自分には多くのものが欠けていることを知った。そしてそれを再び得ることは不可能だとわかった。自分にもう少し利口な頭があれば、もっと早く犯罪者に成り下がっていたかもしれない。

 ――ふっ、と眞木が別の方向を見る気配があった。

 物思いから覚め、同じ方向を見たリクはあっと言った。前方から見慣れたスーツ姿の男が歩いてくる。ネクタイはしておらず手に紙袋を提げている。

「桜庭さん……」

 そう声をかけながらふと思った。ここで思いがけず出会うのは二度目だった。


 二人の姿を見つけて手を振りながら、桜庭はリクと同じことを考えていた。

 千尋が転落死したあの日、今と同じ場所でリクを見かけた。歩道橋の柱の根元、誰かが供えた花束のそばに屈み込んでいた。十二月というのに寒そうな恰好で、風に打たれて赤くなった手を合わせていた。

 その姿を見て眞木のところにいる若者だとすぐにわかった。言葉を交わした記憶はそう多くないが、名前と顔は知っている。眞木はいつもリクと呼んでいた。

 桜庭が近付こうとすると若者ははっとこちらを見た。

「君は……」

 二人の目が合った瞬間、リクは反対方向に走り出した。驚いた桜庭はあとを追おうとして立ち止まった。花束に添えられた紙片に気付いたからである。

 何となく気になり、それを手に取って読んだ。そして何度か読み返し、若者が走り去った方角に目をやった。

 これはあの若者、リクが書いたのか。だとすればどういう意味があるのか。そもそもなぜこんなものを妻の転落現場に置いたのか。

 一度に様々な疑問が頭を駆け巡り、収拾がつかなくなった。桜庭はスマートフォンの連絡先に登録してある眞木の自宅を呼び出した。充電がわずかだったので近くの公衆電話ボックスに走り、番号をプッシュする。

 最初にかけたときは留守番電話サービスに繋がった。少し間を置いて二度目をかけてみると、五回ほどのコールで受話器を取り上げる音がした。電話に出たのはレイジで、すぐに眞木に代わってくれた。

 桜庭は右手で受話器を、左手で電話のコードを握り、落ち着いた声で話すよう努めた。まずはリクの不在を確認し、それから歩道橋で妻が亡くなったことを告げた。三年前、結婚の報告に行ったとき二人は顔を合わせている。だからだろう、眞木は千尋の名を憶えていた。

「リクが殺人事件に関わっているんですか? そんな……」

 メモに書かれた三行の文章を読み上げたとき眞木は愕然とした。桜庭もそんな馬鹿なと言いたい気分だった。今のところ千尋の死は事故とも事件とも判断がつかない。管内で起きた誘拐事件に人員を取られ、満足のいく捜査ができない状態である。……ということを、桜庭は知らず知らずのうち口に出していた。

 すると眞木はまほろば公園でミユキがいなくなり、幼い女の子が行方不明になっていることを告げた。まさかこんなところで誘拐事件の話を聞くとは思わなかった。先ほどの電話で速水から詳細を聞いておくべきだった。

 いつどこで起きた誘拐事件なのか、場所や時間の情報さえ得ていない。桜庭は電話ボックスの壁にもたれ、刑事失格だと自分を呪った。

「家で待っていれば帰ってきますよね? ミユキもリクもこれまで黙っていなくなったことはありません。何かよくないことに巻き込まれているんじゃないか、そんな風に考えてしまうのは僕が心配性だからですよね?」

 受話器の向こうから眞木の不安げな声が聞こえる。桜庭としてもその可能性が頭をよぎらなかったわけではない。しかしさすがに口にはできなかった。

「思い過ごしで済めばいいと思う。君たちの生活に警察が介入する事態になったときは、できるだけ俺が現場にいられるようにする。念のため言っておくが、相手が警察だからと何もかも明らかにする必要はない」

「わかっています。桜庭さんは刑事としての仕事をしてください。公平な立場で真実を明らかにしてください。僕はここで二人の帰りを待ちます。それぐらいしかできませんから」

 眞木は短く礼を述べて通話を終えた。桜庭は受話器を戻して公衆電話ボックスから出た。一縷の望みをかけて歩道橋に視線を移したが、リクの姿はどこにもなかった。名も知らない誰かが供えた花束があるだけだった。

 ――そして今、目の前にリクと眞木が並んでいる。足元には真新しい花束があり、おそらく二人が供えてくれたのだろう。声が届く距離まで近付くと、リクは恐縮して目を伏せた。

「家での暮らしはどうだ? 逃げ回っているときより遥かに快適だろう」

 桜庭はあえて明るく言った。全面的に捜査に協力したことと事情が考慮され、リクは不起訴処分となった。飯塚英生は妻に対する日常的な暴力行為を認め、過失致死罪ですでに逮捕されている。

 リクと名乗るこの青年は、驚いたことに前科はおろか戸籍すら存在しなかった。DNA鑑定で親子関係が証明された飯塚夏苗――旧姓を萩尾はぎお夏苗という女性は息子の出生届を出さなかった。そのせいでリクは学校とも病院とも縁がなく、まともな職に就くこともできない人生を送ってきた。

 取調室で本名を尋ねたとき、リクはためらいながら紙に「萩尾理久りく」と書いた。ようやく得体の知れない青年の本当の姿に近付けた気がした。眞木は知っているのかという問いには頷きが返ってきた。ならば自分がとやかく言うこともない。

 目の前に立つリクは、右足と左足に交互に体重を移しかえながら言った。

「あれからいろんなことが変わってしまった。もともと俺たちは変な人間の集まりみたいに思われていて、家宅捜索があったあとは余計ひどくなった。ゴミ出しに行くだけでじろじろ見られるし、ジュンは嫌がらせの手紙がポストに届いたって言っていた」

「僕も肌で感じています。みんな心無い視線を向けられることに黙って耐えています。ミユキやリクがしたことは決して許されることではありませんが、関係のない者まで被害を受けるのは間違っていると思います」

 眞木は疲れたようにため息をついた。いつも実年齢より若く見えるほうだが、今日は年齢相応に見えた。

 ここにいる二人に限らず、人はみな他人に踏み込まれたくない秘密を抱えている。そして刑事は容易にその秘密を暴き立てることができる。有罪であれ無罪であれ、家宅捜索は民間人の生活を根底から破壊する行為である。だからこそ刑事は事件捜査に慎重でなければならない。

 そうわかってはいるが……。桜庭は無意識に紙袋の取っ手を握りしめた。知っておかなければならないことが最後にひとつだけある。だが言いたいことがまとまる前に、眞木が先に口を開いた。

「桜庭さん。こんなところで話すのも何ですから、よければ家に寄っていってください」

「ありがとう。実はちょうど家に行こうと思っていたところだったんだ。眞木くん、君に聞いてほしい話がある」

 警戒させぬよう言ったつもりだが、眞木の顔がふと陰った。もし嫌だと言われたら引き下がるつもりでいた。だが眞木は何かを感じ取りながらも頷いた。

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