29

 数日後の午前中。待合室の椅子に座った桜庭はぼんやりとガラス窓を眺めていた。窓の外はしとしと雨が降り、まるで誰かとの別れを惜しむかのようだった。

 田舎から出てきたという千尋の親戚は反対側のテーブルに集まっている。彼らとは最低限の挨拶を交わしただけで、先ほどから距離を置いている。遺骨は田舎に持って帰ると言われたときも、桜庭は反論せず承諾した。

 そこにコツコツと靴音がして、黒いネクタイを締めた速水が桜庭の隣に座った。「飲むか?」と缶コーヒーを差し出す。

「しんみり雨音なんか聞きやがって、そんなキャラじゃないだろうが。それよりあそこでコソコソ話している親戚連中、俺から何か言ってやろうか」

「俺は刑事のくせに家族を守れなかった。責められて然るべきだ」

「やめとけ。おまえは自分の手で犯人を捕まえた。復讐しようと思えばできたのにそうしなかった。それはおまえが刑事だからだろ?」

 そう言ったあとで、速水は何気ない調子で付け加えた。

「今朝早く、県警本部の渡課長と辰巳課長補佐が来て取り調べを交代した。うちの署長と課長はあいつのことを知りすぎている。公正な処罰を下すためらしい」

「そうか。千尋を殺したことについて、あいつは何と言っている?」

 あの事件以降、桜庭は一度も市ノ瀬に会っていない。田所署長が許可しなかったのと、自分でも冷静でいられないだろうと判断したからである。

「資産家のおばあさんが狙われた強盗傷害事件を憶えているか? 犯罪者グループに情報を流したのがあいつ、市ノ瀬だったんだよ」

 飲み屋街の張り込みをするきっかけになった事件である。亜須香が熱心に捜査していたが、結局あれから進展は見せていない。

「近くの飲み屋で知り合って、酒の勢いで全部喋ってしまったらしい。犯罪者グループの一部は例の振り込め詐欺の連中とも繋がっていた。報復も兼ねておばあさんの家に押し入り、そこにあった現金や貴金属を丸ごと奪っていったんだと」

「被害者の住所や資産の情報を流したのが市ノ瀬だったのか……」

 警察官が捜査情報を外部に漏洩する行為は当然ながら守秘義務違反として処罰される。酒が入っていようと関係ない。

「翌日になってあいつは自分が何をやったか自覚した。居酒屋で気のいい若者たちと楽しく酒を飲んで、問われるままに振り込め詐欺事件の話をした。そして帰りに先輩の奥さんとばったり会って挨拶を交わした……」

「たまたま見かけて挨拶しただけだろ。千尋は何も言っていなかった」

「後ろ暗いところがあったからそう割り切れなかったんだよ。飲み屋街の近くにいたことを証言されたら強盗傷害事件と結びつけられてしまうかもしれない。戦々恐々としていた矢先にあの張り込みの日が来た」

 桜庭ははっとした。張り込みの当日、「千尋から気になることを聞かされた」と言ったのは自分だ。それを聞いた市ノ瀬は千尋の口を封じなければと思ったに違いない。

 桜庭が事件の全容を理解したと感じ取ったのだろう。速水はコーヒーを一口飲み、ガラス窓を流れていく水滴を見た。

 そのとき桜庭がドンと自分の膝を叩いた。誰に対する怒りなのかわからなかった。千尋を手にかけた市ノ瀬はもちろん憎い。だが後輩の異変に気付かず、きっかけを与えてしまった自分も同じぐらい憎かった。

「俺が余計なことを言ったせいだ。千尋のこと、財布のこと、何かひとつでも黙っていたらこんなことには……」

「ただの世間話だ。それを悪用したのはあいつが悪い」

「俺は何も気付かなかった。あいつが犯罪者グループに情報を流し、それで悩んでいることも知らなかった。信頼なんてもの、俺とあいつの間には何もなかったんだ」

「罰せられるべきはあいつだ。どんな理由があれ人を殺していいわけがない」

 速水はそう断言して缶コーヒーを飲み干した。その理屈が正しいことはわかる。ただ、受け入れるまでに途方もない時間がかかりそうな気がした。

「こんなことになったのに俺の頭はまだ現実を受け入れていない。あいつが千尋を殺したなんてあり得ない、何かの間違いじゃないかと思っている」

「つい数日前まであいつは優秀な後輩だった。俺も自分の弟のように可愛がっていた。混乱するのも当然だ」

「俺にあいつを責める権利はない。そばにいながら気付かなかった」

「おまえは被害者の夫だろ。おまえが奴を責めなければ誰が責めるんだ。心底憎んでやればいいさ。誰もそれを咎めない」

「千尋も俺と同じで、あいつをこれっぽっちも疑っていなかった。歩道橋の階段に追いつめられたとき、千尋は一体どんな……」

 言葉が続かず桜庭は両手で頭を抱えた。信頼していた夫の後輩に殺されるとわかったとき、千尋がどれだけ絶望したかなど考えても仕方がない。利峰署の鑑識課で見た現場写真の虚ろに見開かれた目が脳裏に蘇った。

「やめろ。どうせろくでもないこと考えてんだろ」

 速水が立ち上がりざまに桜庭の背をバシッと叩いた。失意の底に沈みそうになっていた桜庭は我に返り、涙に潤んだ目を瞬いた。自分らしくないと手の甲で拭う。

「そういえば最近お会いしていないが、瞳子さんは元気か?」

 空き缶をゴミ箱に捨て、桜庭は速水の妻を話題に出した。

「今回の事件のことを話したら我がことのように悲しんでいた。男やもめに何とやらとか言うだろ。蛆が湧いていない証拠を見せに、来週にでも飯を食いにこい。ついでにうちの婆さんの相手してやってくれ」

「ああ、あのパワフルなおばあさんな。コタケさんだったか」

「コウメだ」

 すぐさま速水が訂正し、桜庭は「そうだったか」と頭を掻いた。窓の外を見るといつの間にか雨は上がり、雲の切れ目から太陽が覗いていた。

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