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 ある年の瀬の閑静な高級住宅地。

 その一角に建つ家のリビングで、ひとりの女性が息絶えようとしていた。

 カーペットも敷かれていない、フローリングの冷たい床の上。夫が不在の今、この危機を察してくれる人はいない。少し身動きするだけで頭が割れそうに痛む。

 だがまだ目を閉じるわけにはいかない。赤く染まりつつある視界にはテーブルの脚と、無表情な若い男が映っている。その能面のような顔には見覚えがなく、どこかで恨みを買った覚えもなかった。

 どうして、と問いたかった。しかし口から出てきたのは別の言葉だった。

「た、す……け……」

 伸ばした手は宙を掻き、それでも目で必死に訴えた。こんなところで死にたくない。死ぬのは嫌だ。どうか助けを呼んで。

「……す……け、て……」

 意識も思考も途切れてまとまらなくなっていく。ただ時間だけが無情に過ぎていく。目の前の男は微動だにせず、行動を起こす気配はない。

 とうとう女性は力尽き、がくりと腕が落ちた。死に際の涙がひと筋頬を伝った。


 翌日、十二月十五日の早朝。

 利峰署かがみねしょ刑事課に所属する刑事、桜庭さくらばたくみは張り込みの真っ最中だった。後輩の桧野ひの亜須香あすかを覆面パトカーの運転席に座らせ、自分は助手席で前方の飲み屋街を睨んでいる。

「本当に帰らなくていいんですか? 桜庭さん、今日は結婚記念日なんですよね」

「仕事だから仕方ない。記念日にいちいち休みを取ろうと思ったら、民間の会社員、それもかなりの重役にならないと無理だ」

「でも課長が気にしていましたよ。そうならそうと言ってくれたらいいのにって」

 張り込みが長時間に渡るせいか、車内の話題はいつしか個人的なものに移っていた。

「課長まで知っているのか。誰が話したんだ?」

「桜庭さんが自分で言ったんですよ。署の人間は全員知っています」

「う……。そうだったか。自重しないとな」

「顔が怖いのに意外と家庭的だって、いいほうに受け止められているみたいですよ。わたしなんか刑事になってから恋をする暇もなくて、なんて寂しい人生だろうって思っちゃいます」

 張り込みの最中にこんな話をしていられるのも、亜須香が二十代でまだ若く、将来について考える余地があるからだろう。今年、記憶に間違いがなければ四十歳になった桜庭にも、いつかの時点で初々しい時期があったはずだ。

 たとえば警察官になりたてのころ……。いや、交番勤務のころは上司に盾ついたり、県警の方針に噛みついたり、むしろ血気盛んだった。その後、所轄の刑事として血なまぐさい事件を扱ううち、嫌でも面の皮が厚くなって感情をありのままに出すことが減った。今では組織人にふさわしい風体と礼儀、何より強い正義感を持ち合わせている。

 他人の目にどう映るかは別にして、自分ではそういうつもりだった。

「刑事は自分のプライベートを犠牲にしてでも民間人の命と安全を守る。その義務を果たしてこそ、公務員としての立場と警察官としての強い権限に報いることができる。尊敬する先輩が言っていた言葉だ」

「だからって律儀に交代に戻ってくることないと思うんですけど……。千尋さん、怒っていませんでした?」

「もう慣れたって顔をしていたな。さすがに申し訳ないと思って、記念日のプレゼントを先に渡してきた」

「そんなので許してもらえたらいいですけどね。強盗傷害事件の共犯が飲み屋街に潜伏しているなんて、捜査を攪乱させようとして言っているだけなんじゃないですか?」

 ブツブツ文句を言う後輩に、桜庭は呆れるどころか笑ってしまった。

「桧野は愚痴が多いな。真面目を絵に描いたような市ノ瀬とは大違いだ」

「速水さんにも言われました。わたしと組むと耳に栓をしたくなるって」

「それはあいつの言い分が正しい。行動派の刑事がいくら口を動かしたって……」

 そのとき桜庭のポケットでスマートフォンが振動した。画面の表示をひと目見た桜庭はあっと言った。

「噂をすれば速水はやみだ。何か進展があったのかな。――もしもし?」

「桜庭か。俺だ」

「わかっている。どうした?」

 しかし相手の速水が黙り込んでしまい、桜庭は「何事だ?」と訝しげに言った。

「……あのな。課長から連絡をもらって、俺がこうして桜庭に伝えることにしたんだが」

「飲み屋街の情報はガセだったのか?」

 おもわずそう問うと、電話の向こうで軽く笑う声がした。

「昔から思っていたが、骨の髄まで根っからの刑事だな」

「用件は何だ。事件の話じゃないなら切るぞ」

「待て。俺もどう伝えていいか迷っているんだ」

 同僚の珍しく緊迫した声に、桜庭は無意識にスマートフォンを握りしめた。


 現場となった歩道橋の階段下で、速水伸宏のぶひろはやりきれない思いで電話を切った。嫌な役回りだが、それを知らされる相手のほうがもっとつらいはずだ。

 時刻は午前八時過ぎ。日曜の朝ということで人通りは少なく、野次馬の大半が犬の散歩中かジョギング中の近隣住民だった。

 規制線の中に戻ろうと踵を返したとき、自転車で猛スピードで走ってくる男の姿を捉えた。後輩の市ノ瀬いちのせ雅臣まさおみだった。

「張り込みを交代したばかりだろ? 休日返上で出てきたのか」

 ゼーゼー言いながら自転車を降りる後輩に、速水はしげしげと視線を送った。

「のんきに休んでいる場合じゃないでしょう。課長から連絡がなくても駆けつけていましたよ」

 風に打たれて赤い顔をした市ノ瀬は、マフラーを取りながら歩道橋を見やった。階段の降り口には頭を下にして倒れた人の形にテープが敷かれている。地面にぽつぽつと散った血痕のそばに、数人の鑑識課員が屈み込んでいた。

「桜庭さんは?」

「署に向かわせた。何があったか課長が説明するそうだ」

「そうですか。俺、桜庭さんに何て言葉をかければいいか……」

 規制線の中に入ろうとして、市ノ瀬はふと野次馬のほうに目を留めた。ブルーのパーカーを着た茶髪の若い男が顔を伏せ、そそくさと立ち去ろうとしている。速水はその視線を追い、また市ノ瀬に戻した。

「どうした。何か気になることでもあったのか?」

「いえ。この季節にパーカー一枚で寒くないのかなと思っただけです」

 白い息を吐きながら、市ノ瀬は自分のコートの前をかき合わせた。

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