ナザレの少年

@mikio8

第1話 オクタヴィアヌス

 夜明け前、夢うつつの中、遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきた。

 誰だろう?

 ・・オクタ・・・オクタヴィ・・・・オクタヴィア・・・・・

 そうだ、私は若い頃そんな名前で呼ばれていた。

 小さすぎて良く聞き取れないが、懐かしい声だ。まさか?

 心臓の鼓動が早くなってきた。期待感で胸が膨らんでくる。

 声の主が近づいてきて、私の全身は感動で打ち震えてしまった。

 オクタヴィアヌス!

 オクタヴィアヌスはおらぬか!

 ああ、やはり間違いない、父上の声だ。張りのある、遠くまで通る声。幾多の戦場を駆け回り、多くの戦士たちを鼓舞した声。この声でローマは統一されたのだ。

 父上! 父上!! 私はここです。

 今すぐに駆けつけますから、そこにいて下さい。幻でありませんように、私は祈った。直ぐに消えてしまうのではないかと言う恐れから、私は息を切らして懐かしい声の元に駆け寄った。

 そこには、眩しい程の光に包まれ荘厳な甲冑を身にまとい、軍神の如く凛とした男が立っていた。

 余りにも神々しい姿に、私は片膝を地に付け頭を下げた。

「父上、懐かしゅうございます。」

 両眼から、止めどもなく涙が流れてくる。

「寝ぼけたことを言うな。今朝会ったばかりではないか。男が人前で涙なぞみせるものではない。相変わらず女々しい奴だ。そんなことだから、俺の後継者としては心もとないと思っていたのだ。そこで、お前には補佐役を付けることにした。」

 いつの間にか、父上の隣には、筋肉質で体格の立派な若い兵士が、厳つい顔にも拘わらず緊張した表情で直立不動の姿勢で立っていた。

「アグリッパ。こいつが俺の後継者のオクタヴィアヌスだ。お前と違い背丈も人並みで体格も弱々しい。だから俺無き後はこいつを補佐してローマを支えて欲しい。」

 アグリッパと呼ばれた若い兵士には、この当時ローマの最高権力者、インペラトール・カエサルの命令に逆らえるはずはなかった。


 アグリッパ! マーカス・アグリッパ、お前と初めて会ったこの時を、良く覚えている。お互い同い年で18歳の頃だったが、場所は・・・、ギリシャのマケドニアの地、パルティアとの戦いに備え、将軍たちが集められていた天幕の中だった。

 父上の意図は明らかだ。同年代ではあるが将来性豊かな兵士の中から、屈強で身体能力に優れた男を選んでくれたのだ。そのお陰で、平時には私の身辺を警護し、いくさとなれば父上の如く軍神と化し連戦連勝、時に友として語り合い、共にローマの未来を憂い、時として私の為に泣いてくれた。

 父上は、まるで大事業を成し遂げたかのように満足した笑みを浮かべながら、まかせたぞアグリッパ、と力強く肩を叩き、何人かの将軍を引き連れて天幕から出て行ったが、後ろ姿がおぼろげになりそれさえも涙で霞んで見えなくなってしまった。


 泣きすぎて、まだ夜明け前なのに夢うつつの状態から目が覚めた。

 枕が涙で濡れていた。

 年老いてもまだ女々しい奴だと、叱責されてしまうだろうな。老人は涙を拭うと、大きなため息をついた。

 父上、亡霊でも構いません。時々私を叱りに現れてきて下さい。今は、ローマ皇帝アウグストゥスなどと、大げさな名で呼ばれてはいますが、未だに父上の足元にも及びません。老人は、血管が浮き出てしわだらけになった両手で顔を覆った。

 もう潮時なのかもしれない。

 アウグストゥスは、野心の火が消え去りつつある己と対峙した。

 今の夢は、ローマ皇帝の立場から降りろ、と言う父上からの戒めなのだろう。 

 この強大で広大な領地はもうお前一人では支えきれない。父上はそれを伝えたかったのだろうか。アグリッパのいないお前は半人前だと。

 それに、父上は自分の未来がどうなるか、予見めいたものがあったのではないか?

 アグリッパを私に与えてから僅か一年後に、ブルータス一味によって暗殺されてしまったのだから。

 父上亡き後のローマは、また内乱状態になってしまった。

 かつてポンペイウスとの内乱があった時、父上はポンペイウス側に付いて戦ったキケロやブルータスやカシウスらを許し、高位さえ与えたにも拘わらず、彼らは結託し陰謀の果てに父上を亡き者にした。

 愚かな者たちめ。稀代の英雄の本質を見ることが出来なかったのだ。

 もっとも、そのお陰で私とアグリッパは彼らを直ぐに滅ぼすことが出来たのだが。

 ただ、ブルータスやカシウスらの背後にいたアントニウスは手強かった。ローマの支配権を巡って長い戦いが始まったが、アグリッパの獅子奮迅の活躍がなかったら、アントニウスに勝つことは出来なかっただろう。その後訪れたローマの平和は軍神カエサルの天才的人物鑑識眼による賜物であったのだ。


 アグリッパさえ、まだ生きていてくれたら、と思わない日はなかった。病弱だった私が長生きしてるのだから皮肉なものだ。アウグストゥスは片手で目頭を押さえたが指の間から涙がこぼれた。

 改めて思う。父上の慧眼には頭が下がる思いだ。

 悲しいことに、私には父上のような人物鑑識眼は無い。

 後継者は、養子のティベリウスに決めているが、心もとない。軍事的能力は優れているのかもしれないがアグリッパには及ばない。政治的能力はやらせてみないと分からないので、私の死後のことまで心配しても仕方がない。

 そうなのだ。この先あとどれほど生きられか分からない年寄りが憂いてもどうにもならないのだが、ローマの行く末が心配だ。

 わが娘ユリアの婿だったから、私の後継者としたティベリウスには、政治的能力を持つ側近を見つけてやることが出来なかったことが悔やまれる。

 いや、それよりも危惧されるのは、統治に難題が多い属州の管理だ。

 その中でも、特に属州ユダヤの管理には、心を砕いてくれるであろうか?

 父上やその弟子として薫陶を受けたアグリッパは属州ユダヤの統治には随分気を付けていたようだ。父上が何故あれほど、ユダヤ人やユダヤ教に理解があったのか、今となっては知る術はない。

 属州ユダヤの州都名がカイザリアなのは、父上が民衆に好かれていたからだろう。

 そうだ、あのユダヤの巫女はどうしているだろう? 私を命の危機から救ってくれた巫女は息災であろうか。私の為とは言え、ローマを救ってくれた恩人なのだ。

 あれからもう10年ほど前になるが、以前までは定期的な報告が届けられていたのにここ数年報告がない。ティベリウスに気づかれたか?私が生きている間は大丈夫なのだろうが、私亡き後のことが心配だ。


 その時、アウグストゥスの身辺を警護している親衛隊の責任者が寝室への入室を求めてきて叫んだ。

「どうかされましたか?アウグストゥス様!警護の者から侵入者ではないかと言う報告があり、駆け付けました。」

 アウグストゥスは寝室からでて、隣室の執務室で、親衛隊長官セイユス・ストラボと対面した。

「いや、心配するな、寝言だ。神君カエサルが私を諫めに来たらしい。50年ぶりに父上の姿を拝見したせいで、興奮したのであろう。思わず叫んでしまったが、そんなに遠くまで聞こえたか?」

 セイユスは「神君カエサル」と言う神々しい響きに反応したのか、改めて直立不動の姿勢になり目を見開きながら答えた。今のローマでは「カエサル」と言う名は神と同列なのである。

「はっ。警護の者が心配するほどに。」

 アウグストゥスは笑いながら応えた。

「分かった。今後、気を付けることにしよう。下がってよいぞ、セイユス。」

 アウグストゥスはセイユスが執務室から退室しようとした時に、何を思ってか、呼び戻して、近くまで寄れ、と言う仕草をした。

 セイユスは緊張した面持ちで、アウグストゥスから秘密の命令を受け取った。


                         第2話「アグリッパ」に続く

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