第五章 君が鳴り響く

(1)





 空の上から見下ろした雪景色は美しかった。白銀世界に覆って佇む白樺しらかば並木の枝のあみが、至る所でその寒冷を際立たせていたのだ。窓ガラスに頬を近付けていると、顔の半分だけがキンと冷たく感じる。しなやかな水色の空と、飾らない深雪。そこにはもちろん、風にそよ吹く禾穂かすいもない。


「緑がない……」


 ながめはそっと独りごちる。収穫時期を終えた稲麦の田畑は静かにそのなりを潜め、それぞれが四角く輪郭付いているだけで雪に埋もれてしまっている。それは大陸一帯を隠す真っ白い緞帳どんちょうのような風景だったが、けれどそれでも美しいのは、きっとけがれなく澄んだ空気がそこにはあるからなのだろう。思いながら、霖は窓に向かって「はあ」と息を吐き、曇るガラスに意味もなくいびつなニコちゃんマークを描いてみる。隣に座って本を読んでいた鈴憧りんどうが不意に、その絵に向かって感想を述べて来た。


「なにそれ、下手くそ」

「いやいや、上手いって噂もある」

「どこでよ」

「うーん、それは時と場所によるかな」


 言って霖は再び背もたれにドサと身体を預けた。


 鹿住かすみ鈴憧。彼女とは、東京から岩手に越してきた今年の春、越喜来おきらい湾の小石浜こいしはま漁港で知り合った、霖の初めての友達の名前だ。身長はスラリと高く色白で、後ろから前へ沿うようにして斜めに切り揃えられた黒髪は、彼女の小顔をより確かなものにしている。読書中に掛けられていたもみあげからは隠れていた可愛らしい耳が姿を現しており、すぐ近くでは長い睫毛がパチリと瞬く。その姿は吸い込まれるほど綺麗で蠱惑こわく的ではあるのだが、彼女はファッションに全くと言って良いほど興味を持たない根っからのスポーツマン。黒いベンチコートを黒いスキニーの膝に被せ、着ている中のTシャツはというと、白無地の安価な物が常だった。


「少なくともその絵心じゃ、北海道の雪は溶かせないかもねぇ〜」


 活字の世界へと瞳を落としながら、彼女はさらりと皮肉を忍ばす。捲られたページ数にはまだ厚みがない。最近になって読み始めた本のようだが、その装丁はひどく傷んでいた。同じクラスで生徒会の、つむぎから借りたものらしい。


「その本の表紙にいるブサイクな生き物よりは、私のニコちゃんの方が可愛いと思うけど?」


 言うと彼女は鼻でわらった。


「ブサイクな生き物じゃなくって、これは山椒魚さんしょううおね。『愛嬌の塊だ』って噂もある」

「どこで?」

「それは時と場所による」

「それって噂じゃなくない? 証明できないから逃げてるだけみたいだよ?」

「どんな形の喉仏通ったらそんな疑問が吐けるのよ」

「ん?」


 なんのことだかさっぱりというように、きょとんとした霖の顔が眉間を刺す。鈴憧はパタリと本を閉じ、すがめ口調に訴えた。


「全世界で噂になってるの! これで良いんでしょ!」

「ええー。そんなの絶対ウソだあー!」


 ぽーん。と、軽くその絵について討論する間に機内アナウンスの音が鳴る。機体が着陸態勢に入ったのだ。


久季ひさきちゃん久季ちゃん、シートベルト」

「あ、ラジャーです!」


 通路を挟んだ反対側から、アイマスクにイヤホン状態で眠っている志絢しはるにシートベルトを取り付けているまいが呼び掛ける。霖は蟀谷こめかみに右手を添えた後、背中とシートの隙間に滑り込ませていた自身のそれをガッシと掴んで引っ張っていた。





 四人が北海道に来たのには理由がある。それは以前志絢が言っていた大会、帯広おびひろの森スピードスケート競技会の開催日(本レース)が明日に迫っているからだ。開催期間は十一月四日〜七日の四日間となっており、四日の今日は公式練習に加えてスタートトライアルというものがある。大会参加費用は一人六○○○円だ。


 早朝の花巻はなまきから新千歳しんちとせまでのフライトと、新千歳から会場のある帯広までの電車移動。全てを空の旅で済ませるにはあまりに高価で、地上の旅に委ねるには時間が掛かるし疲労感がとてつもない。だから間を取って半々に分けてはみたのだが、それでも高校生がポンポン払える額じゃないことだけは確かだった。


 親に無理を言って巻き上げてきた金銭をドブに捨てまいと、霖はチケットを渡すたびに係りの人に「行ってきますッ!」と挨拶しながら鼻を膨らませ、しまいには何故だかグミを手渡ししていた。手渡された最後の駅員はしばらくの間礼装用の白手袋にころりと置かれたそれを見つめて困惑していたが、霖の健やかな笑顔に気が緩んでしまったらしく、「ありがとう」と言って舌の上で転がすように味わっていた。


 会場最寄り駅であるJR北海道根室ねむろ本線西帯広駅を通り過ぎ、ふた駅先の帯広駅で四人は下車した。上空から見下ろしていた限りでは雪道が這うように広がっていたが、駅を北口へ出て見渡してみればそうでもなかった。きっとこれから本格的に積もってくるのだろう、濡れた地面が寒さをいやに目立たせており、駅前に設置された大きな温度計のメモリは7℃の位置で赤ランプを重ね上げていた。


 グミ切れを果たした霖は空になったチャック付きの小袋に鼻先を突っ込み、甘い匂いを楽しんでいる様子だ。少しばかりの達成感に浸っていると言ってもいい。嗅ぎ終わってその嬉しさを共有しようと、鈴憧へスキップ交じりに歩み寄っては何もない袋の中身を見せびらかしている。


「見て見て鈴。コンプリートした!」

「半強制的に渡されて、何人かは迷惑そうだったけど?」

「そんなことないよ。みんな笑顔だったもん」

「それは仕事中なんだし無愛想にしたら差し支えるからでしょ」

「無愛想にしたら差し支えるの? なんで?」

「なんでって、仕事中だからだよ」

「仕事中無愛想にしたらダメなの?」

「ダメっていうか、態度が悪かったら嫌な気分になるでしょ」

「なるの? 誰が?」

「お客さんが」

「なんで?」

「はい?」


 鈴憧は菓子袋の口を楕円に保ちながらグニョグニョと開閉する霖を見て、質問の意図するところを怪訝に探ってみた。分からない。私はいま、いったい何を追求されているのだろうか……。


 悶々となりながら返答を考えていると、霖は相も変わらずその瞳を輝かせ、登山用のリュックの脇から防寒手袋を取り出そうとしていた。どうやら真面目に質問したわけではなかったらしいが、鈴憧からすればそれはそれでもてあそばれている気がしたので小突きたくなる対象には変わりなかった。


 霖は羽毛手袋を装着した両手をパンと叩く。


「意外と寒くないね! なんか風が気持ちいいし、手袋も必要ないくらいだよ」

「でも、ちゃんとしてたほうがいいよ。酷ければ一日であかぎれしちゃう人もいるみたいだから」

「え、そんな寒いって感じしないよ? むしろ想像してたより過ごしやすいくらい。まさか岩手より先に北海道で冬を体験することになるとは……」

「岩手だって充分寒いよ。ってかあんまり変わらないし」

「じゃあ鍛えられたのかも!」


 嬉しそうに、その頬が白い吐息にまぎれて和らぐ。ぐるぐる巻きにしたマフラーの深淵から、ほっ、と唇を空へと向けて突き出す姿は、どこか餌を食べに来る時のこいに似ていた。


「おーい二人ともー、ここからホテルまで二十分くらい歩くから、あともうちょい頑張ってー」

「あ、はーい」


 およそ五時間半の長距離移動にひと息つく暇もなく、二人は歩き始めた舞に返事を返す。センター分けの波打つボブヘアは、気温低下に伴い被り物を装うようになっていた。つば付きのニット帽は周囲に擬態するかのように真っ白で、そのてっぺんにあるボンボンのおかげで少しばかりの身長を手に入れているようだ。トレードマークである黄縁の丸メガネは変わらず幼い顔に子犬のような利発さを貼り付けている。小柄で一番子供染みた容姿をしているが、彼女が綾第りょうだいスピード部の部長である愛宕あたご舞だ。


「そういや舞、たえちゃんは?」


 その隣で、ダッフルコートを羽織っているのが副部長の甲塚こうづか志絢。さらさらの長い黒髪は普段はポニーテールに括られており、炯々けいけいとした双眸そうぼうからはイケメン臭が漂い出ている。トレーニング以外ではなだらかに下ろされているその長髪だが、男口調がゆえに近寄りがたい雰囲気でもある。でもそれがまた、凛々しく見えるから格好良い。


「妙ちゃんならさっき、トイレに行くって言ってたよ。ズボンに柚子茶ぶち撒けてた」

「馬鹿なのか? どんだけ飲み物と相性悪いんだよあの先生は」

「ホテルの場所は分かるから先に行ってて。だってさ」


 話しながら、四人はホテルへ向けて足並みを揃える。駅近くや会場から近い施設はどこも空きがなかったため、神社が近いという理由もあり『帯広グランドホテル』を選んだ。帯広中央公園を左手に、真っ直ぐ西3条通りを進むと帯広川に並行した脇道に差し掛かる。そこを進んで再び大通りに出ると到着だ。


 チェックインを済ませて客室に入るや否や、舞のスマートフォンに妙崎たえざきから連絡が来た。「レンタルしました。今どこ?」と。車だ。彼女は車を手に入れたらしい。


「いやいや、借りるなら言ってよ。歩く必要なかったじゃん」

「ご丁寧に写真まで送ってきてるし」


 舞と志絢は画面に映るミニバンを背にしたドヤ顔ピースの顧問をめ付けると、悪態を吐きながら画面を切った。隣室の後輩二人に伝えると、不満気もなく「へえ」と相槌を打つ美少女と、「おお〜、さすがは先生」と純粋にめそやす霖の笑顔。人として見習わなければ損をするのはこっちだと思った。





 そうして小休憩というにはいささか心もとない休息を挟み、必要な分の荷物だけを持って再出発した。競技会場に到着したのは十四時になろうかという頃だった。練習時間の割り振り等は事前にホームページで確認しており、綾里りょうり第一高校は2クール目の十四時〜十五時二十分に組み込まれていた。間に合ったといえば間に合ったのだが、霖は不慣れなタイトスケジュールに目蓋をとろりと緩ませていた。


 とぼとぼとリンクサイドを歩いていると、先に練習を終えた十三時組の選手の中から、一人の女性が舞と志絢に近付いて来るのが見えた。小麦色の健康的なその肌艶には、驚きと一体化した嬉々とした笑みが浮かんでいる。


「──なになに、マイマイも出るの?」

「そだよー。やっちゃん久しぶりー」

「ハルハルも? もう大丈夫なの?」

「うん、まあ」

「──あ、ちょっとちょっと巫央奈みおな先輩、ほら、志絢と舞だよ!」


 上下黒水色のウインドブレーカーを身に纏ったその人が、後ろ側のベンチに腰掛けようとしていた同校の先輩を忙しない様子で手招く。舞は一瞬ビクンと肩を動かし、やって来た他校の先輩に向かい苦く会釈を落とした。


「何、愛宕ちゃんも出るの?」

「え、あー……まあ」

「もしかして沢峰さわみねも?」

「あ、まあ、うん」

「先輩先輩、志絢は今は甲塚だよ、沢峰じゃないって」

「あ、そうだった。めんご」

「いや、全然」

「膝は? もう良いの」

「まあ……」

「まあってなに。思いっきり走れんの?」

「あー……まあ、おそらくは」


 舞と志絢は歯切れの悪い返答を繰り返し、気まずそうではないにしろ気後れを背に貼り付ける。一連のやり取りを真後ろで聞き分けながら、霖はその顔を先輩二人の肩越しからひょっこりと突き出した。


 突然間から出てきた少女の顔を凝視し、その人たちは「うわっ!」と盛大に声を上げる。


「なにこの子! どっから湧いたのっ!」

「もうビックリさせないでよ、なんで小学生が居んのっ」

「あー二人とも違う違う、この子は私らの後輩」

「小学校から飛び級で進学して来たんだ」

「は!? まじ!」


 志絢の吐いた冗談を鵜呑みに、二人は目をみはって大仰おおぎょうに驚く。霖は二つの身体の隙間からもぞもぞと左手を這い出した。


「よいしょっと。えっと、私、久季霖といいます。今日初めてスピードスケートの大会に来ました。いつでもどうぞ」

「ん、え?」

「なにを?」


 不格好な体勢でのっぺりと挨拶され、戸惑いの返事が舞と志絢を覗き見る。私たちも分からない……。そう、アイコンタクトされた二人は片肘を曲げながら小首を傾げて答えていた。


「やっちゃん」と呼ばれていた汐海しおみ耶知やちと、その先輩である緋瀬ひせ巫央奈の二人は、青森県の八戸はちのへみなと高校から参加した選手だ。舞たちとは小学時代からの旧知で、大会では何度も競い合った仲らしい。赤茶げた髪色に奥二重な巫央奈の左目には小さな泣きぼくろがあり、小麦色の耶知の笑顔は垢抜けたようにくしゃりとしていて、白くキレイな歯並びが随分と眩しかった。

 コーチに呼ばれてその場を後にしたその人たちを一瞥いちべつに、霖は依然不恰好な姿勢を保って志絢に尋ねる。


「志絢先輩、体調悪いんですか?」

「え、なんで?」

「だって、膝がどうとか心配されてたので。いつの間に怪我したんです?」


 問われ、ああ、と志絢は理解して目線を少しだけ持ち上げた。そういえば、霖には怪我のことを話してなかった。


 開いた両者の隙間からバランスを崩して前方につんのめり、わっとっと、と後輩が見得みえなく六方ろっぽうを踏み鳴らす。「セ〜フ」と言いながら楽しそうに立ち止まって振り向いたので、志絢は「なんでもないよ」と柔和な笑みで答えた。


 舞がため息交じりに口を開く。


「緋瀬さんも出るのかぁ……。やりづらい」

「舞のこと、やたらライバル視してるもんな、あの人」


 う〜ん、と苦笑いを含んで相槌を打つ舞に、霖はときめき色の瞳を寄越した。ライバルという響きが興奮材料になったらしく、その両手が胸元でぎゅっとなっている。


「好敵手ってやつですか! 『俺には勝つ気なんてない。お前に俺を超えていきたいと思わせるだけだ……』みたいな!」

「なにそれ。誰の台詞?」

「私です!」

「お前かよっ!」


 低い声を出しながら台詞を口にした霖が、目を細めて渋く顎をさする。呆れたように鼻を啜った舞の背後には、リンクサイドでランニングを開始させた選手たちを眺めながら、ベンチに腰掛けている鈴憧の不安気な姿が映り込んでいた。


 着替えのためロッカールームへ向かおうと歩き出した舞と志絢は、ポツンと座り込んでいる鈴憧に声を掛ける。鈴憧が「はい」と立ち上がってそばに来た。その顔は終始自分の足元を見つめている。


「鈴、どおかした?」

「え、ううん。大丈夫」

「眠い?」

「ちょっとね。でも平気」

「ほんと?」

「うん。……行ってくる」

「私、応援してるね!」


 平気。それは緊張を和らげるために返ってきた言葉だろうか、霖はいつもと様子の違う彼女の声音に少しだけ違和感を覚えたが、「今日は練習だけなんだから応援は必要ないよ」と弓形ゆみなりに綻ぶ口元に安心して、軽く手を振りながら見送った。


 彼女は人が苦手だ。至って自然に会話をするので気付かなかったが、学校で話す人といえば霖か幼馴染である紬か、その他では舞、志絢、妙崎の三人しかいない。授業で先生から指名されても消極的な声しか漏らさず、クラスメイトに話し掛けられてもそのほとんどは「うん」という短い返事に終わる。笑顔で答えるわけではない。嫌そうに答えるわけでも、緊張している風でもない。けれど、鈴憧は教室に独りでいる時はどこか窮屈そうに他所よそを向いている。霖は最近まで人見知りのせいだと思っていたが、そもそも人見知りというほど入学当初から初対面の人は少なく、小中と同じ学校だった同級生や先輩が多いとも聞いていたので、明らかに彼女が他人を避けているとしか思えなかった。


 自分の荷物は首から提げた水筒とスマホとがま口財布だけだ。彼女が肩に提げているそのリュックの重さを、霖はただ自身の手のひらを握り締めながら見つめていた。


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