第五章 君が鳴り響く
(1)
空の上から見下ろした雪景色は美しかった。白銀世界に覆って佇む
「緑がない……」
「なにそれ、下手くそ」
「いやいや、上手いって噂もある」
「どこでよ」
「うーん、それは時と場所によるかな」
言って霖は再び背もたれにドサと身体を預けた。
「少なくともその絵心じゃ、北海道の雪は溶かせないかもねぇ〜」
活字の世界へと瞳を落としながら、彼女はさらりと皮肉を忍ばす。捲られたページ数にはまだ厚みがない。最近になって読み始めた本のようだが、その装丁はひどく傷んでいた。同じクラスで生徒会の、
「その本の表紙にいるブサイクな生き物よりは、私のニコちゃんの方が可愛いと思うけど?」
言うと彼女は鼻で
「ブサイクな生き物じゃなくって、これは
「どこで?」
「それは時と場所による」
「それって噂じゃなくない? 証明できないから逃げてるだけみたいだよ?」
「どんな形の喉仏通ったらそんな疑問が吐けるのよ」
「ん?」
なんのことだかさっぱりというように、きょとんとした霖の顔が眉間を刺す。鈴憧はパタリと本を閉じ、
「全世界で噂になってるの! これで良いんでしょ!」
「ええー。そんなの絶対ウソだあー!」
ぽーん。と、軽くその絵について討論する間に機内アナウンスの音が鳴る。機体が着陸態勢に入ったのだ。
「
「あ、ラジャーです!」
通路を挟んだ反対側から、アイマスクにイヤホン状態で眠っている
四人が北海道に来たのには理由がある。それは以前志絢が言っていた大会、
早朝の
親に無理を言って巻き上げてきた金銭をドブに捨てまいと、霖はチケットを渡すたびに係りの人に「行ってきますッ!」と挨拶しながら鼻を膨らませ、しまいには何故だかグミを手渡ししていた。手渡された最後の駅員はしばらくの間礼装用の白手袋にころりと置かれたそれを見つめて困惑していたが、霖の健やかな笑顔に気が緩んでしまったらしく、「ありがとう」と言って舌の上で転がすように味わっていた。
会場最寄り駅であるJR北海道
グミ切れを果たした霖は空になったチャック付きの小袋に鼻先を突っ込み、甘い匂いを楽しんでいる様子だ。少しばかりの達成感に浸っていると言ってもいい。嗅ぎ終わってその嬉しさを共有しようと、鈴憧へスキップ交じりに歩み寄っては何もない袋の中身を見せびらかしている。
「見て見て鈴。コンプリートした!」
「半強制的に渡されて、何人かは迷惑そうだったけど?」
「そんなことないよ。みんな笑顔だったもん」
「それは仕事中なんだし無愛想にしたら差し支えるからでしょ」
「無愛想にしたら差し支えるの? なんで?」
「なんでって、仕事中だからだよ」
「仕事中無愛想にしたらダメなの?」
「ダメっていうか、態度が悪かったら嫌な気分になるでしょ」
「なるの? 誰が?」
「お客さんが」
「なんで?」
「はい?」
鈴憧は菓子袋の口を楕円に保ちながらグニョグニョと開閉する霖を見て、質問の意図するところを怪訝に探ってみた。分からない。私はいま、いったい何を追求されているのだろうか……。
悶々となりながら返答を考えていると、霖は相も変わらずその瞳を輝かせ、登山用のリュックの脇から防寒手袋を取り出そうとしていた。どうやら真面目に質問したわけではなかったらしいが、鈴憧からすればそれはそれで
霖は羽毛手袋を装着した両手をパンと叩く。
「意外と寒くないね! なんか風が気持ちいいし、手袋も必要ないくらいだよ」
「でも、ちゃんとしてたほうがいいよ。酷ければ一日で
「え、そんな寒いって感じしないよ? むしろ想像してたより過ごしやすいくらい。まさか岩手より先に北海道で冬を体験することになるとは……」
「岩手だって充分寒いよ。ってかあんまり変わらないし」
「じゃあ鍛えられたのかも!」
嬉しそうに、その頬が白い吐息に
「おーい二人ともー、ここからホテルまで二十分くらい歩くから、あともうちょい頑張ってー」
「あ、はーい」
およそ五時間半の長距離移動にひと息つく暇もなく、二人は歩き始めた舞に返事を返す。センター分けの波打つボブヘアは、気温低下に伴い被り物を装うようになっていた。
「そういや舞、
その隣で、ダッフルコートを羽織っているのが副部長の
「妙ちゃんならさっき、トイレに行くって言ってたよ。ズボンに柚子茶ぶち撒けてた」
「馬鹿なのか? どんだけ飲み物と相性悪いんだよあの先生は」
「ホテルの場所は分かるから先に行ってて。だってさ」
話しながら、四人はホテルへ向けて足並みを揃える。駅近くや会場から近い施設はどこも空きがなかったため、神社が近いという理由もあり『帯広グランドホテル』を選んだ。帯広中央公園を左手に、真っ直ぐ西3条通りを進むと帯広川に並行した脇道に差し掛かる。そこを進んで再び大通りに出ると到着だ。
チェックインを済ませて客室に入るや否や、舞のスマートフォンに
「いやいや、借りるなら言ってよ。歩く必要なかったじゃん」
「ご丁寧に写真まで送ってきてるし」
舞と志絢は画面に映るミニバンを背にしたドヤ顔ピースの顧問を
そうして小休憩というには
とぼとぼとリンクサイドを歩いていると、先に練習を終えた十三時組の選手の中から、一人の女性が舞と志絢に近付いて来るのが見えた。小麦色の健康的なその肌艶には、驚きと一体化した嬉々とした笑みが浮かんでいる。
「──なになに、マイマイも出るの?」
「そだよー。やっちゃん久しぶりー」
「ハルハルも? もう大丈夫なの?」
「うん、まあ」
「──あ、ちょっとちょっと
上下黒水色のウインドブレーカーを身に纏ったその人が、後ろ側のベンチに腰掛けようとしていた同校の先輩を忙しない様子で手招く。舞は一瞬ビクンと肩を動かし、やって来た他校の先輩に向かい苦く会釈を落とした。
「何、愛宕ちゃんも出るの?」
「え、あー……まあ」
「もしかして
「あ、まあ、うん」
「先輩先輩、志絢は今は甲塚だよ、沢峰じゃないって」
「あ、そうだった。めんご」
「いや、全然」
「膝は? もう良いの」
「まあ……」
「まあってなに。思いっきり走れんの?」
「あー……まあ、おそらくは」
舞と志絢は歯切れの悪い返答を繰り返し、気まずそうではないにしろ気後れを背に貼り付ける。一連のやり取りを真後ろで聞き分けながら、霖はその顔を先輩二人の肩越しからひょっこりと突き出した。
突然間から出てきた少女の顔を凝視し、その人たちは「うわっ!」と盛大に声を上げる。
「なにこの子! どっから湧いたのっ!」
「もうビックリさせないでよ、なんで小学生が居んのっ」
「あー二人とも違う違う、この子は私らの後輩」
「小学校から飛び級で進学して来たんだ」
「は!? まじ!」
志絢の吐いた冗談を鵜呑みに、二人は目を
「よいしょっと。えっと、私、久季霖といいます。今日初めてスピードスケートの大会に来ました。いつでもどうぞ」
「ん、え?」
「なにを?」
不格好な体勢でのっぺりと挨拶され、戸惑いの返事が舞と志絢を覗き見る。私たちも分からない……。そう、アイコンタクトされた二人は片肘を曲げながら小首を傾げて答えていた。
「やっちゃん」と呼ばれていた
コーチに呼ばれてその場を後にしたその人たちを
「志絢先輩、体調悪いんですか?」
「え、なんで?」
「だって、膝がどうとか心配されてたので。いつの間に怪我したんです?」
問われ、ああ、と志絢は理解して目線を少しだけ持ち上げた。そういえば、霖には怪我のことを話してなかった。
開いた両者の隙間からバランスを崩して前方につんのめり、わっとっと、と後輩が
舞がため息交じりに口を開く。
「緋瀬さんも出るのかぁ……。やりづらい」
「舞のこと、やたらライバル視してるもんな、あの人」
う〜ん、と苦笑いを含んで相槌を打つ舞に、霖はときめき色の瞳を寄越した。ライバルという響きが興奮材料になったらしく、その両手が胸元でぎゅっとなっている。
「好敵手ってやつですか! 『俺には勝つ気なんてない。お前に俺を超えていきたいと思わせるだけだ……』みたいな!」
「なにそれ。誰の台詞?」
「私です!」
「お前かよっ!」
低い声を出しながら台詞を口にした霖が、目を細めて渋く顎をさする。呆れたように鼻を啜った舞の背後には、リンクサイドでランニングを開始させた選手たちを眺めながら、ベンチに腰掛けている鈴憧の不安気な姿が映り込んでいた。
着替えのためロッカールームへ向かおうと歩き出した舞と志絢は、ポツンと座り込んでいる鈴憧に声を掛ける。鈴憧が「はい」と立ち上がってそばに来た。その顔は終始自分の足元を見つめている。
「鈴、どおかした?」
「え、ううん。大丈夫」
「眠い?」
「ちょっとね。でも平気」
「ほんと?」
「うん。……行ってくる」
「私、応援してるね!」
平気。それは緊張を和らげるために返ってきた言葉だろうか、霖はいつもと様子の違う彼女の声音に少しだけ違和感を覚えたが、「今日は練習だけなんだから応援は必要ないよ」と
彼女は人が苦手だ。至って自然に会話をするので気付かなかったが、学校で話す人といえば霖か幼馴染である紬か、その他では舞、志絢、妙崎の三人しかいない。授業で先生から指名されても消極的な声しか漏らさず、クラスメイトに話し掛けられてもそのほとんどは「うん」という短い返事に終わる。笑顔で答えるわけではない。嫌そうに答えるわけでも、緊張している風でもない。けれど、鈴憧は教室に独りでいる時はどこか窮屈そうに
自分の荷物は首から提げた水筒とスマホとがま口財布だけだ。彼女が肩に提げているそのリュックの重さを、霖はただ自身の手のひらを握り締めながら見つめていた。
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