根津の春

伴美砂都

根津の春

 地下鉄の根津駅から地上へ出ると、乾いた温い風が強く吹いた。鼻がむずむずして一瞬くしゃみが出そうになり、同時に、ぶえっくしょん、と背後から豪快な音が聞こえたのにびっくりして、結局止まってしまった。

 大きなくしゃみの主は後ろからゆっくりと自転車で来たおじいさんで、チリンチリンとベルを鳴らして、狭い歩道をゆっくり行く。見送ってから、歩き出した。


 弥生美術館までは、しばらく坂をのぼって行く。坂は、急な坂というほどでもなく、なだらかというほどでもない。暑い日や寒い日、疲れている日なんかは厳しい坂のように感じられるし、足取りの軽い日は、そう思わない。

 弥生美術館は、住宅街の一角にある小さな美術館だ。植物の鉢がいくつも置かれた小さな石畳の前庭、正面が入り口になっている。ファッションや雑誌、人形などさまざまな文化に関するテーマの企画展が行われるのが弥生美術館で、併設された竹久夢二美術館の展示室とは、二階にある通路でつながっている。三階は隠れ家のような小さな展示室で、夢二とほぼ同時代に活躍した画家、高畠華宵の作品が飾られていることが多い。

 古い建物で、ちょっと迷いそうになる入り組んだ順路も、床に敷かれたじゅうたんの色が少し褪せているところも、階段を歩くときしきしと小さな音が鳴るところもなんとなく愛おしくて、東京に美術館もギャラリーも星の数ほどもあるのに、わたしはここばかりをつい訪れる。いつも長く居てしまうのは夢二美術館のフロアで、わたしはどちらかというと夢二に逢いに、ここに来るのだと思う。


 美術館の横には、みなとやという喫茶店がある。港や、というのはもともと、夢二が恋人のためにつくった雑貨店の名前だ。港屋絵草紙店といっただろうか。

 港やは小さなお店で、食事のメニューはカレーライスとパニーニサンドイッチのふたつ。カプチーノに、美術館の企画展示に合わせたデザインのラテアートを施してくれる。

 階段をのぼって、二階のテーブル席に行く。ちょうど帰って行く家族連れとすれ違った。夫婦らしい男女と、幼稚園ぐらいの女の子。展示を見に来たのか、あるいは、ここは美術館に行かない人でも入れるから、近所に住んでいて、お昼ごはんを食べに来たのかもしれない。サンドイッチおいしかったあ、と女の子がかわいらしい声で言い、お父さんと思しき男性が笑った。

 店内にはほかに二組ほど先客がいるだけで、静かだった。ちょうど美術館の入り口と前庭を見下ろせる席に着く。夢二のカプチーノをたのんで、それから、何人かの人たちが美術館へ入って行ったり、出てきたりするのを見ていた。

 二階のテーブルはほとんど窓に接していて、道を挟んだ向かいには東京大学のキャンパスが見える。構内にある桜が、満開になっている。


「たまき」


 呼ばれて顔を上げると、リチオが向かいの席に居た。少しびっくりして、リチオ、というと、オはどこからきたの、といつものように返される。

 リチオの名前は、本当は理知まさともという。はじめて見たときリチと読んでしまったのと、わたしの好きな「青い車」という映画にリチオという人が出てくるから、そう呼ぶことにした。


「うん、ぼーっとしてた、たぶん、」


 言うとリチオはハッと小さく息を吐くようにして笑う。はじめ出会ったときはなんて感じの悪い男なんだろうと思った。別にバカにしているとかじゃなくていつでもそういう笑い方なんだということはしばらくしてわかった。どちらにしても、あんまり感じはよくないけど。


「桜が満開だよ」

「だろうね」

「大学のところ」

「知ってる」

「うん、知ってるだろうけど、リチオは」


 リチオの座った席からだと大学の桜が見える窓は、ちょうど真後ろになる。わたしが言うとリチオはわざわざ一度身体ごと振り返ってそちらを見て、そして、またハッと息だけで笑ってこちらへ向き直った。

 待ち合わせの約束をしていたわけではない。リチオは東大のここのキャンパスに通っていた。だからといって彼がこの町を好きかといったら、たぶんそうではない。わたしがここを好むから、合わせてくれていただけだろう。人に合わせるなんて言葉が、このひとの辞書にあればだけど。でも、きっと辞書に載らない言葉だって、世の中にはたくさんある。咲いていることを知っている桜のほうをわざわざ振り向いて見たのも、きっとそう。

 リチオは基本的には冷たい人だった。感情的なものごとを嫌い、問題を解決しなければ意味がないとよく言った。冷静で合理的だった。でも、やさしかった。

 2011年、わたしたちはまだ学生だった。リチオは東大の、わたしは名もなき専門学校の。あの春、震災のあった春。被災したわけでもないのに毎日泣いて泣いてぐずぐずになっていたわたしに、リチオはなにも言わず寄り添ってくれた。わたしの涙はだれを救うこともなく、それこそ意味のないことだと彼にはわかっていただろう。それなのに。

 わたしの住むアパートは停電もしなかったけれど、わたしが電気を点けたらそのぶん被災地でだれかが死ぬと思っていたから、こわくてスイッチを入れることができなかった。ブレーカーも落とした真っ暗な部屋の中で、リチオはわたしと一緒にごはんを食べてくれた。部屋の隅で小さくなったまま、食べない、と言ったわたしに、リチオはいつもの平坦なトーンで、電気使ってないから、これ、と言ったのだった。


「火、起こして飯盒で炊いたやつだから」

「……、」

「考古学のやつに聞いて再現したよ、火おこし」


 リチオは無表情のまま両手を擦り合わせるような仕草をした。暗闇に慣れた目でよく見るとリチオの頬は煤で黒く汚れていた。シャツの首もとも黒い。

 むかしマンガで、火うち石や木の棒みたいなものを使って、原始時代の、腰に毛皮を巻いた人たちが火を起こしていたシーンを思い出した。ああいうふうにしてリチオが火をつけようとしているところを想像したら、似合わなさすぎて、わたしは涙でガビガビの顔のまま思わず少しだけ笑ってしまった。

 リチオが火を起こしてごはんを炊いて、着替えもせずその足で来てくれたのだと思ったら胸が詰まった。リチオに、火おこしを教えてくれる考古学専攻の友達がいるんだと思ったら、涙が出た。


「あのさ」

「……、うん」

「このままたまきが死ぬことには本当に意味がない」

「……、」

「死んでもいい命を、人間が決めるなんて傲慢だよ」


 リチオの声は静かだった。どこから持って来たのか、手にアルコールランプを持っていた。オレンジ色の火は小さく揺れ、しばらく見つめたあと視線を移すとリチオの顔に緑がかった黒色の残像が、ぽっかりと空いた穴のように見え、わたしは袖口で涙を拭って、まばたきをした。

 今はもう、小学校の理科の時間にアルコールランプは使わないのだという。わたしが子どものころは実験で使った。何の実験だったかは忘れてしまった。リチオはアルコールランプの小さな光をたよりに、立ち上がれないほど衰弱していたわたしを抱え起こし、お風呂場に連れて行って汚物だらけの身体を洗ってくれた。


 外に出られるようになったときには、いつの間にかもう桜が咲いて、そして散り始めていた。リチオははじめて東大のキャンパスの中へわたしを連れて行った。リチオが授業を受けている間、わたしは校舎の横のベンチにぼうっと座って、四月のおわりの温い風に吹かれた最後の桜の花びらが、そこかしこへ舞い散って行くのをじっと眺めていた。

 そんな日がしばらく続いたあと、わたしはまた自分の学校へ通い始めた。三月の進級課題を出さないまま学校を休み続けていたわたしは留年した。その年は、被災した学生に対しては課題提出を免除する措置が取られていたが、当然、わたしはその範疇にはなかった。三年制の専門学校に四年通い、リチオと同じ年に、卒業した。



 東京に住んで驚いたのは、冬があかるいこと。わたしの故郷では、冬は夜のような朝しかやって来ない。東京の冬は、晴れていない日でもぽっかりと明るく見える。雪は滅多に降らないのに、反射するような白い冬だ。

 ふるさとの富山県を、わたしは十八歳で飛び出した。飛び出した、というのは、わたしの感情的な面も含めたただのイメージで、実際には、地元の高校から進学を機に、実家を出て東京へ引っ越しただけだ。


 神奈川県から富山に嫁いだ母は、富山のことを嫌いだと言い続けていて、方言にもずっと染まらずにいた。今も、きっとそうだろう。わたしも、富山の方言は好きではない。が、ちゃ、け、というような音が語尾につく勢いのいい話し方は、とくに年配の男の人が話すと、怒っているのではないかと思わされる。

 学校の友達も先生も皆、富山弁だったから、わたしも学校では方言をつかった。ただ、一度母になにか問われたのだったか、そうだよ、という意味の、そうやちゃ、という言葉を無意識に答えたときあからさまに嫌な顔をされたから、家ではやめた。母と同じような話し方をしたわたしを祖父母はかわいがってはくれたが、なにの話の文脈でもなく唐突に、奈央子さんの娘やちゃねえ、と何度か言われたのを、おぼえている。


 別の土地から来た人のことを、富山では「たびのもん」という。「旅の人」、つまり「よそもの」という意味だ。方言の強い父方の祖父母と話すときもかたくなに標準語の敬語でとおした母は、わざと「たびのもん」でい続けているのだという気がした。だからと言って、父と別れて土地を離れることもしなかった。

 そんな母のことをわたしは嫌いだった。田舎なのに車ばかり多くて渋滞のひどい富山の市街地も、語尾がガチャガチャして乱暴にきこえる富山弁も、富山に生まれ育ち富山弁を話し土着することを疑問にも思わない父や祖父母も、富山を嫌い、ばかにしたような顔をしながら自分で出て行きもしない母のことも、ずっと嫌いだった。母がそこから出て行けないのはわたしを産んだせいだと思っていたから、わたし自身のことも、ずっと。

 東京の専門学校に進学すると決めたとき、母は賛成も反対もしなかった。引っ越しの日、母はわたしに、あなたは出て行くほうなのね、と言った。そうやちゃ、とわたしは言い、母の顔を見ずに階段をあがった。それが、富山弁を話した最後かなと思う。

 二階のわたしの部屋はもうからっぽだった。窓からは、立山連峰が見えた。三月のうららかな日だったが、遠いとおい山の頂は、真っ白な雪の色をしていた。


 とくに北のほうの日本海側はどこもそうなのかもしれないが、富山では秋の半ばから春のはじめまで、雪の降らない日でも曇りや雨の日が圧倒的に多い。日照時間が少ないから、嫁いできてノイローゼになる人もいるのだと祖父が言っていた。義父母と同居どころか、たまに会うことすらできる限り拒み続けた母に対しての言葉だったのかもしれない。東京に来て、あかるい冬をはじめて見た。乾いた青い空、富山駅北口のなけなしの電飾とは比べものにならない、表参道のイルミネーション。でも、どこも冬は冬だ。

 ときおり東京で雨が降ると、それは富山の雪の日より寒く感じるようにも思う。ふるさとを恋しく思うこともないし、東京という街を、特別に好もしく思うこともない。どこに住んでも、わたしはわたしだった。ひとりで放っておいてくれるぶん、東京のほうが、まだ生きていやすいのかもしれない。



 港やの二階は静かだ。いつの間にか、フロアにはわたしだけしかいなかった。猫舌のわたしはゆっくりとゆっくりとカプチーノを飲む。唇に泡が当たってふつふつと弾ける。夢二の描く椿を模したラテアートが、溶けて混ざっていく。


「リチオ、」


 顔を上げるとリチオはいなかった。目を閉じる。もう何度も同じことを繰り返しているのに、瞼の裏側が熱くなって涙が零れた。しばらく、落ちるがままにする。頬を拭った指先の、赤いマニキュアは少し欠けている。

 リチオがどこにいるのか、知らない。だれも知らない。生きてはいるのだろうと思うけれど、それも、希望的観測でしかないかもしれない。ここでだけわたしはリチオに会える。リチオのまぼろしを、見ることができる。



 専門学校を卒業してわたしは会社員になった。たぶん無理だろうとは自分でも思っていたけど、一年もしないうちに会社へ行けなくなってしまって、辞めた。

 フリーランスでデザインの仕事をすることができるようになったのは奇跡だと思う。フリーで仕事をするということは、当たり前だけどぜんぶ自分でやるということで、作るものを低く見られたり、不当に安い報酬を見積もられてしまうようなこともたくさんあった。それでもいいやと思いそうになったとき、戦えたのはリチオのおかげだった。

 会社を辞めた日、というのは、もう明日来なければクビにすると言われた翌日にどうしても会社のある駅で電車を降りられなくて行ったこともない知らない土地まで行ってだれもいない無人駅のホームでしゃがみ込んだまま立ち上がれなくなっていたときだけれど、そのとき、わたしはリチオにメールをした。リチオ、もうだめかもしれないよ。

 しばらく座っていた。ホームはひとつしかなくフェンスの向こうはすぐ道だった。おばあさんと犬がゆっくりと歩いて行った。おばあさんはこちらを見ず、犬は一度見て、また前を向いて歩いた。

 ほどなくリチオから電話がかかってきた。開口一番、やめちまえよ、と言ったリチオの声が怒っていたから、わたしは叱られると思って一瞬でだくだく泣いた。リチオがわたしに向かってあんなに声を荒げたのは、あとにも先にもあの一度だけだった。しかし怒った声のままリチオは、つぶされんなよ、とわたしに言ったのだった。


「声だけ大きいやつらにつぶされんな」

「……、」

「自分の作るもんを信じろよ」

「リチオ、」

「たまきの作るものに意味も価値もあるよ」

「……」

「買いたたかれんなよ、負けんな、早く逃げろよ、自分の、意味をなくすなよ」


 リチオに、仕事の話はほとんどしたことがなかった。だからリチオは知らないはずだった。わたしが富山の幼稚園や小学校や中学校や高校と同じぐらい、東京の会社にも馴染めなかったということを。お弁当や給食や実家で食べる食事と同じぐらい、同僚とのランチが苦しかったということを。絵を描いたりものを作ったりすることすらできなくなってしまいそうなほど、毎日否定され続けていたことを。

 わたしはSNSもしておらず、愚痴を言い合うような友人もいなかった。数少ない知人にも、仕事のことはほとんど話さなかった。だから、だれも知らないはずだった。でも、リチオは知っていたんだと思った。なんでも見通す目を持って生まれてきてしまったリチオのことを、そしてわたしは何も知らなかった。


「生きるよ」


 そう言うと、それがいいよ、と言って電話は切れた。


 リチオは、どこにも就職しなかった。旅に出るとだけ言っていた。東大を出て就職しないということを、悪く言う人もいた。でも、リチオは顔色ひとつ変えなかった。もっと違うことで悩んでいるように見えた。なにに悩んでいるのか、わたしは尋ねなかった。訊けばよかったと思ったのは、もっとあとになってからだ。たぶん、リチオはいつものように息を吐くようにだけして笑って、問いに答えはしなかっただろうけど。


〈リチオ、どこにいるの?〉


 メールの返事はなかった。既読になったことがわかるようなアプリなど当時はなかったから、それをリチオが見たのかどうかも、わからない。

 それからリチオには一度も会っていない。数少ない共通の知人、もうお互い顔もおぼえていないような人にまで連絡して尋ねたけれど、だれも、リチオがどこへ行ったのか、知っている人はいなかった。



 夢二は恋多き人だった。たまきという名は、夢二の恋人だった人の名だ。きし他万喜たまき。唯一、夢二と結婚した人でもある。夢二の絵をずっと好きだったわりに、わたしがそれを知ったのは最近のことだった。同じ名だよねと言ったのは、リチオだ。いつものように、ここの窓辺の席で。それなら彦乃ひこののほうがよかったなあ、とわたしは言い、リチオはいつものようにハッと笑った。

 リチオはたぶん夢二に、というか、夢二だけじゃなくて、絵にあまり興味はなかったと思う。夢二の恋人の名前のことを言ったのは、あるいは、わたしの興味に心を寄せてくれたのかも。そうではなくて、ただ彼の頭の中にある膨大な知識のうちの一つとして、それをもっていただけなのかもしれないけど。

 彦乃は夢二が他万喜と別れてから恋仲になった人で、ふたりの女性は港屋で会ったこともある。彦乃は二十五歳の若さで、病で亡くなった。道半ばだったろうか、それとも、愛する人に愛されたまま命尽きるのならば幸せだったろうか。遺された夢二は随分長い間悲しみに暮れたという。わたしはもう、彼女の年齢も追い越した。

 夢二はまた、漂泊の人でもあった。だから、美術館や記念館も各地にある。生家のある岡山や、群馬県の伊香保、石川県の湯涌、そしてここ、東京の根津。

 富山にも夢二ゆかりの展示があるのだと、わたしはついこの前知った。高志こしの国文学館という、小さな資料館。夢二は富山では、県出身の翁久允おきなきゅういんというジャーナリストと旅をして一緒にアメリカまで行ったけれど、結局喧嘩わかれしてしまった。翁久允はエキセントリックな人物だったようだが、人気に陰りが出て落ちぶれていた夢二にもう一旗揚げさせようと奔走したのもまた久允だったのだという。

 他万喜も、富山に縁のある人だった。夢二が若かりし日、痴情のもつれから他万喜と刃傷沙汰を起こしたのも富山県西のとまり海岸というところで、どちらにしても夢二にとって富山は、いい思い出のある場所ではないんじゃないかと思うんだけど。でも、わからない。高志の国文学館をわたしが訪れることも、きっとないだろうと思った。



 涙が止まるまでわたしは静かに座っていた。ずいぶん長い時間が経ったように感じられたが、港やの二階にはだれもやって来なかった。

 ときどき、たくさん泣く日がある。感情の反応する速度が、わたしは遅いのだろうと思う。なにかのきっかけがあって涙が出始めてからはじめて、ああ、あのときのあのことも、このまえのあのことも、わたしは嫌だったんだ、とか、悲しかったんだ、と気が付く。きっかけはたとえばテーブルの脚に小指をぶつけてしまって痛かったとか、お気に入りの食器をうっかり落っことして割ってしまったとか、今日みたいに、リチオが今もうここにいないと、気付いてしまうこととか。

 ハンカチを出して涙を拭って、つめたくなってしまったカプチーノの最後の一口を飲み干して、立ち上がった。

 リチオとは恋人同士ではなかった。セックスもしたことがない。ヤッたんでしょう、と言われたことはある。リチオの女友達だったか、わたしの専門学校の同級生だったか。そのことも、きっとわたしは嫌だった。同時に、そうやって後になってしかわからない、自分のことさえよくわからずにまごまごしながら生きているわたしのことを、たくさんの人たちが、嫌だと思ってきただろう。



 一階で会計をして、外に出る。陽はもう傾きはじめていた。昨日、大きな仕事の納期がひとつ終わったから、今日は一応パソコンは持って出てきていたけど、急いでしなければならない作業はなかった。ノートパソコン一台ぶんだけのリュックサックの重さを、背負えるようになったなと思う。ほかの多くの人が持って歩くにしたら、あまりに軽い荷物なのかもしれないけれど。

 パーカーのジップをぜんぶ上げて、わたしは歩いた。言問通りへ出て、角を曲がり、根津神社のほうへ。昼間の明るさはだんだんと陰り、心なしかつめたい風が衿もとを通り抜ける。ずっと長くしていた髪を、このまえ久しぶりに短く切った。風に飛ばされた毛先が首筋に触れるのに、まだ少し慣れない。


 神社には夕方には行かないほうがいいと言っていたのはたしか祖母だった。しかし、この時間になっても根津神社の敷地内にはそこここに人がいた。お参りに来たというよりは、犬の散歩をしている人、立ち話をしている人、ベンチに座っている人、おそらく、近くに住む人たちがそれぞれに過ごしているのだろう。つつじまつり、と書かれた旗が立っている。

 今年は、オリンピックイヤーなのだという。ほんとうは、去年あるはずだったオリンピック。去年も、たくさんの人が死んだ。天災のような大きな病の禍で、その周りの、いろいろなことで。フリーランスで後ろ盾のないわたしが困窮して餓死しなかったことが自分でも不思議だった。まるで富山のシャッター街のようになってしまった東京の街を歩きながら、どうしてわたしが死ななかったのだろう、と何度も思った。そのたび、わたしの中でリチオが、アルコールランプのちいさな灯りに照らされたリチオが、静かに言った。死んでもいい命を、人間が決めるなんて傲慢だよ。そう、いまでも言うのだ。

 死んだ街は、生き返らない。でも、生き残ったひとたちは営みをつづけた。弥生美術館も、また開き、港やでカプチーノを飲めるようにもなった。

 それでも、オリンピックなどというものが本当にあるのかどうか、信じられないような気がする。でも、どちらにしてもわたしがオリンピックの競技を見に行くようなことは、ないだろう。思えばそういう大きなイベントやお祭りのようなことに、わたしはほとんど参加したことがない。

 富山には、わたしが住んでいたころにはもうすでに寂れていた中心市街地の一角に日枝ひえ神社という古い神社があり、毎年六月には、そこで山王祭さんのうまつりというお祭りがある。地元の人たちには“山王さんのさん”とよばれるそのお祭りに、わたしは一度も行ったことがなかった。

 クラスの子たちが、山王さん行くよね、と話しているのは自然と耳に入った。賑やかなお祭りのぼんやりとしたイメージに、憧れの気持ちはあった。カラフルな屋台の美味しそうな匂い、浮足立った特別な夜の空気。そぞろ歩く人たちの楽し気な熱気を、想像してみることもした。けれど、決してそこへは足を運ばなかった。行かないと決めていたわけではない。ただ、行かずにきただけ。だれもわたしを誘わず、わたしも、だれも誘わなかった。

 華やかなお祭りのようなことを苦手だと思うのは、わたしがそこへ上手に溶け込んでいけないからだろう。笑ったり、はしゃいだり、隣にいる人と手を取り合って喜んだりすることが、うまくできないからだろう。オリンピックも、きっと同じ。去年は、山王さんもなかったのかもしれない。今年は、どうだろうか。

 頬と鼻先がつめたく感じて、小さく鼻をすすった。涙はもう出ない。ふと、富山の方言でひとつだけ、好きだった言葉を思い出した。なぁん、という言葉だ。言葉、というのか、音、というのか。意味は、「いいえ」なのだと思う。何か問われたときに、なぁん、ちがうよ、というふうに返すときに使うから。でも、たぶん知らない人が聞いたらちょっと戸惑うほど、「なぁん」の汎用性は高い。「なぁーん」と長く言うときもあれば、「なんなんなん」と短く繰り返す人もいる。なぁん、そうやちゃ、と、否定ではなく肯定する返事のまえに付けているのも聞いたことがある。

 なぁん、なんてこと、ないがよ、と、小さな小さな声で言ってみた。立ち話をしているおばさんが連れていた柴犬がこちらを向いて、わん、ふん、と控えめに吠えた。短く切ったばかりの髪にパーカーのフードをぽこっとかぶって、わたしは立ち上がった。



 神社を出て歩くうち、わたしはまた弥生美術館のほうに戻ってきてしまった。昼に根津駅からのぼってきた坂を、戻るように下って帰ろうと思う。ネオンは少ない町だ。腕時計を見るともう六時近い。美術館は五時で閉館のはずだ。港やも、もう閉まっているだろう。しかし坂を降りるまえに、わたしはもう一度、美術館のほうへ向かう細い道に入った。


 東大の桜が影のように見えてきたところで、もうだれもいないはずの弥生美術館の前の歩道に、ひとりで立っている人が見えた。


「リチオ」


 呼ぶとリチオはゆっくりと振り返った。リチオの顔に髭が生えているところをわたしははじめて見た。痩けた頬に点々と生えた無精髭の黒は、2011年のあのとき、飯盒でご飯を炊いて持って来てくれた日の、頬についた炭の黒色に似ていた。


「オはどこから来たの」

「……、たぶん、遠いところから」


 リチオは声を出さず、一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。わたしのリュックサックの十何倍もあるような、大きなバックパックを背負っている。


「本物だ、」

「どういう意味」

「なぁん」

「なに、それ」

「ううん、……ねえ、リチオ、桜が満開だよ」


 言うとリチオはバックパックを地面に下ろして、伸びた髪の毛をかき上げた。弥生美術館の看板に背を向けて、東大の桜のほうを見上げる。


「ふうん、知らなかったな」

「うん、あのね、リチオ」

「うん」

「生きるのに、意味も価値もいらないかもしれないって、思ったの」


 止まらずに歩いてきたからか身体は温かく感じた。被っていたパーカーのフードを頭の後ろへ外すと、汗ばんだ首筋がひんやりした。

 リチオは桜からわたしのほうへ視線を移し、ハッ、と小さく息を吐くようにして、笑った。

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根津の春 伴美砂都 @misatovan

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