砕いたハートを溶かすまで

羽間慧

砕いたハートを溶かすまで

瑞穂みずほ。二月はほぼ春休みなんでしょう? 正月はバイトで帰省していないんだから、実家に帰ってもいいじゃない」

「ごめん。もうシフト入れちゃった」

「勝手に予定を決めるんじゃないわよ。この親不孝者が! 入学式から十ヶ月も会えていないって言うのに!」


 耳をつんざく怒声に、僕はスピーカーの音量を下げる。ビデオ通話ではないことが救いだ。話を受け流しながら着替えていることがバレれば、僕の命の保証はない。

 三日に一回はメールを送っているのだから、心配しなくてもいいのに。いや、それでも生存が心配になるものなのかもしれない。

 僕は数分前の自分を恨んだ。スマホのアラームを止めたとき、母さんからの着信ボタンも押してしまった。


「お父さんも瑞穂に会いたがっていたわよ。仕送りを増やすから、バイトばかりしないでほしいって。大学で初めて一人暮らしするんだから、一年目で無理しちゃ駄目よ。缶詰めは足りてる?」

「しばらく送らなくていいよ。ちゃんと食べてる」


 僕が三分ほど力説すると、母さんは安堵の息をついた。


「よかった。冷凍とか惣菜を活用しているんなら、炭ばかりの食事じゃないのね」


 料理下手すぎるヒロインかな。僕は箱入り娘じゃないんだけど。食材が生だったり、おぞましいクリーチャーを生み出したりすることはないよ。

 母さんの不満を解く前に、話題は更新されていた。


「そうそう、うちの周りで不審者が多発しているの。瑞穂も気をつけなさいよ。男の子でも被害に遭うときはあるんだから。帰省するときは前もって教えてくれる? 彼女と一緒に帰ってもいいんだからね?」

「分かった。そろそろ電話切るね。また連絡するよ」


 僕は電話を切り、大きな溜息をつく。今日もタイミングを逃してしまった。


「やっぱ言えないよ。ゲイじゃないけど、初恋の相手が男なんて。今もすばるのことが好きだって」


 本郷昴。同じ中学校に通うはずだった、小学生のときのクラスメイトだ。卒業して間もなく、昴は県外に引っ越した。互いに携帯電話を持っていれば、あるいは年賀状を送っていればよかったと何度も悔やんだ。僕から連絡ができなくても、昴は何かしら動いてくるはずだった。調理実習も宿泊学習も修学旅行も、班で活動するときは何かと昴と一緒に過ごした。


 昴は自分から積極的に話すタイプではなく、ひっそりと過ごすタイプだった。勉強もスポーツも優秀なのに、ひけらかすことはせず輪の中に溶け込んでいた。本音を押し殺すように、大きい体を縮こませて。そんな昴のことを、僕の目はずっと追いかけ続けていた。昴を放ってなんかおけなかった。だけど、じっと見ていることを昴や他の奴に知られたくはなかった。僕の性格上、世話焼きが似合わないとかそういう理由じゃない。からかいのネタにされるのが嫌なだけだ。


「今日のパトロールも不発か」


 SNSで上がってくる男子大学生の自撮りや呟きに、昴を思わせるものはなかった。昴がアスリートを目指していたら、腰のほくろで特定することが可能だった。水泳の授業で「エッ……!」と心の声が出そうになったぐらい、ほくろの位置は鮮明に覚えている。

 どこにいる? 本郷昴。



 🍫🍫🍫



 バレンタインデーが近いせいか、講義室は浮き足立っていた。女子はどんなチョコを贈るか相談し合い、男子は取らぬ狸の皮算用をしているらしい。


 大事なのは、チョコの数じゃなくて思いの深さじゃないかな。かつての自分の声が脳裏に響く。声変わり前の弾んだ声に、僕は目を曇らせた。


 机の引き出しにチョコを入れてくれる子が好きだと、話していた。朝早く登校して密かに入れる子は、どことなく昴と似ていると思っていた。だから、バレンタインデーに理想的なチョコの渡され方をされたことは嬉しかった。

 中身が見えるクリア袋に、ハート型のチョコが七つ入っていた。無地のリボンには「Love」「for you」などの言葉が刺繍されていなかった。真子ちゃんと栞ちゃん、他クラスからもらったチョコは全てデコレーションやラッピングが凝っていた。料理下手な子が作ったものと思いきや、中のブルーベリージャムの配分は絶妙だった。チョコの甘さが加わっても、喉がひりつく乾きは感じなかった。


 あのチョコは、あまりにも僕の理想の形をしていた。苺よりブルーベリー派、アラザンは不要。ラッピングは華美じゃなくていい。そして何より、男子だけにしか話していない条件を、クリアしていることにゾッとさせられた。

 人の友達を捕まえて、僕の好みを探らせるなんて。そこまでして好きになってもらいたいのは、ストーカー予備軍だって母さんが話していた。それを思い出した瞬間、口に含んだ三つ目のチョコから美味しさが抜けた。


「ずるいよな美東。俺らにも分けてくれよ」


 友チョコを嘆く集団に、僕は投げて渡した。

 昴以外からもらいたくないんだ。気持ちだけ受け取るのは申し訳なくて、一粒ずつ味わってみたけどさ。甘くないんだよ。僕の味覚がおかしいのかな。そんなことは一言も漏らさず、微笑みを浮かべて昴の姿を探した。赤くなった目元に、怒りが腹の中で煮えたぎる。誰だよ、昴を泣かせた奴は。


 僕は知らなかった。いらないと放り投げたチョコの贈り主が、昴だったことを。

 だから大学の購買で昴と再会したとき、あいつがどれほど苦しんでいたのか想像することができなかった。


「す、昴だよね? 同じ小学校だった、本郷昴くん」


 上ずった僕の声に、昴と思しき肩がぴくりと揺れた。列に並んでいた昴の袖を、僕は引っ張った。急に引っ越した後ろめたさなんかに、再会を邪魔されたくなかった。


「僕の連絡先。空メールでいいから、後で送って」


 行列に回れ右をして自販機のコーンスープを買った僕は、昴をもう一度見つけて立ち尽くす。渡したばかりの連絡先の紙が破られていた。


「いい加減、初恋を忘れさせてくれよ。瑞穂」


 絞り出された声に涙が混じっていた。僕は喉の震えを抑えながら、あの日できなかった答え合わせをした。自分以外誰も知らないチョコの中身を、昴は知っているのかどうか。愛を込めて贈ってくれたものを貶した自分のことを、まだ好きでいてくれるかどうか。


「……最悪のバレンタインデーにされたけど、一生嫌いになれねぇわ。お前のこと」


 赤くなった目尻に、七年前は見せなかった笑顔が宿る。ニカっという効果音が聞こえてきそうなほど、福寿草のように眩しかった。


「本命、昴に渡すから」


 十四日の予定を空けてほしいと伝えたとき、昴の三白眼がきらめいた。願い事を叶える流星のように。


 脈アリなのかもしれない。七年前の自分がしたようにもらったチョコを他人に渡すのかもしれない。昴の心が見えたらいいのにと思う。最初から結末が分かっていれば、無駄に人間関係を壊すことはない。ただ、臨床心理士を志望する身としては、人の心が見えないものであってほしい。分からないからこそ理解したいと感じ、恋に落ちていくのだ。


 デートに誘うという、第一関門は突破した。だから、目の前の第二関門もこなせるはずだ。


「試験を始めてください」


 教授の声の後で、裏返しに配られていた紙を捲る。

 ノート持ち込み可の試験ゆえ、ほとんどの学生は余裕で臨んでいる。だが、僕はサークルの先輩から攻略法を伝授してもらっていた。曰く、ノートにふせんを貼れ。ノートで確認する時間が多くなれば、最後の問題まで辿り着けなくなると。

 再試験でバレンタインデーを潰されるのだけは阻止したい。僕は死にものぐるいで解答欄を埋めた。



 🍫🍫🍫



 バレンタインデー当日の昼過ぎ。僕は、掃除機を念入りにかけた部屋に昴を通した。


「散らかっているけど、入って入って」


 定番のセリフを言うと、お家デートの気分になる。ハンガーに昴のダウンジャケットを通すだけで、僕の頬は歪みそうだった。


 デートのメインは映画鑑賞だ。互いにテレビのない一人暮らしの身だが、僕にはポータブルDVDプレイヤーがある。大学受験のときに見られなかった映画を、一緒にどうかと言う訳だ。


「瑞穂」


 カバンに手を入れる昴を見て、僕は冷蔵庫へダッシュした。チョコなら同時に渡したい。


「瑞穂もコーラ用意していたのか?」

「へ?」


 チョコにコーラを合わせるの?

 首を傾げる僕に、昴はポップコーンの袋を二つ見せつけた。Cの文字はあれど、コーンとカカオは似て非なるものだ。


「映画鑑賞と言えば、ポップコーンとコーラだろ。塩かキャラメル、どっち食べたい?」

「塩」

「いいよ。僕も今日は塩の気分」


 昴の買ったコーラを半分こして、事前に話していた映画を再生した。

 ポップコーンを取ろうとした手が当たって、そのままキスする流れになるかと思いきや、他人の恋模様に夢中になった。原作漫画で結末は分かっているのだが、黄色い声を上げずにはいられない。


八束やつかくんってば、タイミング悪すぎるよ。違うの、志保しほちゃん。志保ちゃんの車椅子が邪魔なんじゃなくて、通路を塞ぐ段ボールが邪魔なの! 志保ちゃんが通りづらくないか、八束くんは心配していたんだよ!」

「それな。第三者なら、八束くんの不器用な優しさを知っているのに。志保ちゃんだけに伝わらないやつ! 切なすぎて毛根が死滅しそう」

「大丈夫。昴の毛はまだあるよ」

「よかったぁ。……って、ちょっと待った! 『まだ』とは何だ。『まだ』とは」

「言葉の綾だって。それより、巻き戻した方がいいかな? もう八束くんが志保ちゃんを抱き締めて、キスする数秒前の距離になっているんだけど」

「とりあえず、俺は目をつぶっているから瑞穂が巻き戻せよ」

「オッケー」


 ウェットティッシュで指先を拭き、八束くんが誤解されたシーンまで戻した。


「ぶつかっていけるのは、八束くんのよさだよね」


 ぽつりと呟いた昴に、僕は黙り込んだ。映画に集中したいからではない。七年もすれ違ってしまったことが申し訳なくなる。冷蔵庫のチョコをいつ出せばいいのだろう。エンドロールになっても、最適解は見つからなかった。


「あのさ、そろそろ甘いものが食べたくならないか? チョコレート、とかさ」

「食べたい!」


 昴の問いに僕は頷いた。冷蔵庫へ向かおうとすると、僕の袖が引っ張られていた。


「受け取ってくれるか? 義理でも友チョコでもない。本命チョコを」


 は?

 はああああ?


 僕は勢いよく振り返る。マフィンカップから飛び出たカップシューは、ホイップに猫の顔が描かれていた。アーモンドスライスの耳は、端が少し欠けている。


「八束くんが拾った、ナズナちゃんそっくりじゃん。すごいよ。お菓子作りの腕、上げたんだね」


 馬鹿なの? 今、昴が求めているのはお菓子の感想じゃないはずだ。受け取るか否か。その質問を先に返事してあげなよ。

 いや、そんなことは百も承知なんだけど、八束くん役のアイドル以上に昴の面がよすぎる。目が合うだけで胸が締め付けられて、何も言えなくなる。


「分かってくれて嬉しい。で、返事は?」


 ちょっ。笑いかけないでくれ。余計に好きな気持ちを感じてしまうじゃないか。


「ら」

「ら?」


 昴を屈ませて、耳打ちする。


「来月のホワイトデー、お返しがしたいから一緒に買い物したい? それってもう……」

「言わせないで! デートだよ。本命以外、ありえないでしょ」


 こんなはずじゃなかった。女子みたいに可愛い笑顔で、ありがとうと言いたかったのに。


「知ってる」


 昴のくしゃっとした笑みを見ると、僕が溶かした満足感でまあいっかって思ってしまうんだ。

 でも、僕も準備しているものがある。板チョコで作ったプレゼントボックスの中に、七年分の想いを閉じ込めた。


 母さん。僕らの関係を認めてくれるか分からないけど、僕はこれからの未来を昴と歩んでいくよ。

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