薄墨/雨蕗空何(あまぶき・くうか) への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




薄墨/雨蕗空何(あまぶき・くうか)

https://kakuyomu.jp/works/16817330653433606838


フィンディルの解釈では、本作の方角は真西です。

真西と西南西で迷って真西としましたが、このあたりの判断サンプルは少ないので精度は低いだろうと思います。


フィンディルのイメージとして雨蕗さんはコメディあるいはギャグコメディを得意とされているように思います。いずれもおよそ真北です。また日頃の発言もエンタメを前提とされたものだと受けとっています。

そういう創作者が本作のような作品を書くというのはとてもすごいことだと思います。本企画の参加作ということで狙って書いてくださったのでしょうから、本企画および創作への愛を感じます。ありがとうございます。

本企画をきっかけとした創作の視野の広がりが、今後の雨蕗さんの創作のブレではなく冴えに繋がると信じています。


フィンディルが本作前半を読んだあたりでは、西北西と西南西を行ったり来たりする印象でした。

質感により暫定で西、多数派の知覚から外す際の常套手段である色彩描写(≠色覚異常)には若干の南を感じていました。

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 妹。いただろうか。いたかもしれない。

 瞳が虹色だけれど。さっきからずっと、救急車のサイレンの口まねをしているけれど。


 葬儀が終わったらしい。控え室で妹と一緒に待った。

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では南に振れました。妹がいたか定かでないだけなら状況認識が一時的に混乱している人物描写に収まりますが、その次に「妹と一緒に待った」とあることから世界を認識する箍(たが)がおよそ不可逆に外れている感覚表現だと解釈できるからです。

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 色彩に関しては、さっきからずっと世界が薄墨色だから、あてにならないかもしれないけれど。

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では北に振れました。作品コンセプトの指差し確認をしていると判断できるからです。「こういう主人公です」と読者に念押しするために。これはおそらく北向き作家としての雨蕗さんの癖が出たのだろうと思います。


というふうに細かい文章選びで方角を揺らしながら読んでいたのですが、作品を読み終わった現段階では真西と判断しています。

そのように判断した理由は、「僕」の感覚世界のズレが固定されていたからです。「僕」の感覚世界のズレは変化することなく、種類も使われ方も当初と同じトーンで繰りかえされました。

創作の文脈で変化とだけ言うとエンタメ的な「≒発展」の用法が浮かびます。幼虫が蛹になって蝶になるような、ゴールへ向かう変化。しかし変化はそれ以外にも、目的なく彷徨うだけの変化もあります。ムカデの蠢動のような、計画や意志のおよそない変化です。綺麗な言い方をすると、炎の揺らめき、水面の揺れ、木の葉の戦ぎ、ですね。これも変化。本作の感覚世界にはこういった変化がなかったのです。

これによりどうなるのか。飽くまでフィンディルはそうだったというのを強調しておきますが、フィンディルは徐々に作品の焦点が「僕が見るこの感覚世界」から「この感覚世界を見る僕」に移り変わる読書体験を得ました。

当初は虹の瞳やサイレンの口まねや薄墨色や先生の色彩など「僕が見るこの感覚世界」に目を惹かせていたのですが、「僕が見るこの感覚世界」が固定であることを知り目に馴染んでくると、今度は「この感覚世界を見る僕」に興味のカメラが引いていったのです。最初は「僕」とともにこの感覚世界を見ていたのですが、いつしかこの感覚世界越しに「僕」を見るようになったのです。

人は動きのあるものに目が向くものですから、動きのない感覚世界よりも動きのある「僕」に目が向くようになるのは自然なことかもしれません。それでも本作に「僕」がいなければ「僕」が気になることもなかったのですが、「僕」がいたばかりに「僕」が気になってしまうのですね。


そしてそうなると本作は「この感覚世界」のお話ではなく「僕」のお話になります。「この感覚世界」ではなく「僕」を読んでいくようになる。

本作は論理的な解釈を受けつける作品ではないのですが、「もしかして?」を置いたうえで「僕」の心に心を重ねあわせてみることはできるようになります。「こういう感覚世界を見るということは、こういう精神状態なのかもしれないな」と、固定された感覚世界のズレをフックとして信頼できるようになります。


私達が見る多数派の感覚世界を「箍の締められた桶」だとすると、「僕」が見ている感覚世界は「(何らかの要因により)箍が外れてしまった桶」だと思います。最初はその壊れた桶の有様を見るのですが、壊れた桶は同じ壊れ様を維持しつづけるので、いつしか「何らかの要因」に気が向いたり、そんな壊れた桶を見続ける「僕」に気が向いたりするんですよね。

そうなると、抽象的で感覚的な世界に触れる南は鳴りを潜めて、人や人の生き様に触れる西が相応しいのかなと感じます。「こんな感覚世界を有する僕」という人物表現に包含され、真西の懐に収まるのかなという印象がありました。

仮に「僕」が見ている感覚世界が「(何らかの要因により)ムカデに変化した箍に喰らい尽くされていく桶」だったならば、読者は喰らい尽くされていく桶の姿からいつまでも目が離せなくなるんじゃないかなと思います。そうなると感覚世界に触れ続ける南らしさがもっと強まるかもしれないと期待します。あるいはムカデに変化した箍が蠢動しているだけでも読書体験は大きく違っただろうと。

ただ「僕が見るこの感覚世界」を固定させることで「僕」に意識を向けさせていくという読ませ方自体には西なりの確かな価値があると思いますので、それはそれですごく良いことだと思います。いずれの解釈にも確定を与えない塩梅も、上手く表現できていると思います。繰りかえしますが、普段北向き作品を書かれる雨蕗さんが本作を書かれたのはすごいことだと思います。


方角抜きに気になったところとして、本作のジャンルをホラーと宣言してしまうのはあまり良くないように感じました。これは真西でも西南西でも南西であってもです。

ホラー=恐怖ですから、「本作はホラーです」と宣言するのは「本作は恐怖です」と宣言するのとおよそ同義だと思います。本作に感じた言いようの感情は言いようのない感情だからこそ良いのであって、それを「恐怖です」と作品側が決めつけてしまうのはやや踏みこみすぎているように思います。読書体験を狭められてしまう感覚があって、本作には相応しくないと考えます。

エンタメ小説のタグで「感動」とか「泣ける話」とかあったら「それはこっちが決めるわ」と思われないでしょうか。それをもっと繊細にした感じです。

カクヨムはジャンルを選ばないといけないのでそういった事情もあるかもしれませんが、そうであっても慎重な選び方はあっただろうと考えます。

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