経立(ふったち)/朝吹 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




経立(ふったち)/朝吹

https://kakuyomu.jp/works/16817330653415820202


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。


奇譚もの、怪奇もの、ホラー、これらを括っていいかは別として、こういったジャンルの作品を真北~北西程度に分けるポイントがあります。

それが「作中で怪奇の全体像が明らかになるか」「その怪奇に何らかの解決がなされるか」の二点ですね。

作中で怪奇の全体像が明らかになる。過去に起きた凄惨な事件の被害者の怨念が怪奇現象の原因であるとか、この妖怪の仕業でこれこれこういう設定で怪奇現象が起きているとか、怪奇が詳らかになるか否か。

その怪奇に何らかの解決がなされる。怪奇を解決して怪奇現象が起きないような状態にするとか、怪奇現象から無事に逃げおおせることができるとか、何かしらのかたちで大団円の空気感が出ているか否か。

もっと細かく分類しようと思えばできるでしょうが、こと方角(面白さの大まかな方向性)を考えるうえでは上記二つを考えれば概ね大丈夫だろうと考えます。

いずれのポイントもYES(明らかになる・解決される)であれば北に寄り、NOであれば西に寄ります。

本作の場合はいずれもNOであると判断します。「わたし」は「邑」の全貌を明らかにするのが目的だったのですが、その目的を達成することも、生きて戻ることもできませんでした。むしろ調査を試みたがゆえに怪奇は深まるという、奇譚らしい手触りとなっています。


ではどうして北北西という解釈なのか。方角を真北~北西に分ける二つのポイントでいずれも西に寄るとの判断なわけですから、北西が妥当に感じられそうなものです。

葛西の存在です。葛西が、終盤にて本作をエンタメに矯正してきているのです。

遺体は台風で流されてきたのだろう、「わたし」は腕時計を持っていた、水没したはずの腕時計は生きていた、みんなで探したけど村は見つからなかった。見事に「おかしなところ」「不思議なところ」を整理しているのです。読者がこれまで読んできた「わたし」視点の内容との矛盾点を(無自覚に)洗いだしているのです。

これにより本作は北北西という判断になりました。葛西の台詞がなければあるいは北西だったかもしれません。


「何が不思議なのかがわかる不思議」と「何が不思議なのかがわからない不思議」は全く別物です。その不思議の質感は大きく異なります。

数学の勉強にたとえるなら「何がわからないのかわかっている生徒」と「何がわからないのかわかっていない生徒」とでは「わからない」は別物です。生徒達が見えている「わからない」の景色は全く違いますし、それに対する教える側のアプローチも変わる。

何が不思議なのかがわかっていると「こういうことかな?」と推測することができます。本作も(葛西の台詞をもとに)推測を試みることが可能です。(実態は別にして)怪奇全体の規模感は何となく掴めて、わからない箇所がモザイクになっている感じ。道理の通らないおかしなことがある恐怖。

何が不思議なのかもわかっていないと「どういうことなの?」から先には進めません。怪奇全体の規模感すら掴めず、むしろ規模感すら掴めないことに恐怖します。とにかく異様な存在に接触している恐怖。

本作は葛西がいなければ後者だったのですが、葛西がいることで前者になっているように感じます。

そして後者だと西に寄り、前者だと北に寄りますので、葛西を加味すると北北西が妥当かなと判断します。


フィンディルは遠野物語を読んでいませんけども、遠野物語で示されている不思議は「何が不思議なのかがわかる不思議」と「何が不思議なのかがわからない不思議」のどちらでしょうか。

不思議を楽しませるのは奇譚ものとしては王道だと思いますが、不思議と一口に言ってもその質感には種類があると思います。本作は終盤の葛西がかなり不思議を加工しにきている印象がありました。

仮に葛西の台詞を全カットしてみたときに、作品として貧弱になる感じがあるか、作品として強固になる感じがあるか。朝吹さんはどちらでしょうか、みなさんはどちらでしょうか。この違いはその人の創作的価値観を分ける良い試金石になるかもしれません。フィンディルはどちらの感覚も理解できますが、あえて本作を書くのであれば後者の感覚に共感を示したいところです。


方角を抜きにすると、「わたし」と「邑」のファーストコンタクトがおよそ省かれているのがとても上手いと思います。あれほど研究野心を燃やしていた「私」なのに、初めて「邑」に接した際の調査文が薄くあっという間に「邑」に馴染んでいる。調査研究をしているように見えて、実は里の人との会話を思い返すことくらいしかしていない。「邑」に足を踏み入れた時点で「わたし」は取りこまれていたのだろう、そう思わせる筆致です。

そして「わたし」が命を落としたあとも、何故か何事もなく「わたし」の語りは継続されています。まるで死してなお一人称視点を継続できる「わたし」は人の理からはみ出てしまった、とでも伝えるかのように。

このあたりの筆致・視点の使い方は非常に巧みだと思います。

だからこそ露骨に「作品に言わされている」感のある葛西の台詞との折りあいが上手くついていないような印象をフィンディルは覚えてしまいます。

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