上蓋/水木レナ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




上蓋/水木レナ

https://kakuyomu.jp/works/16817330653252758299


フィンディルの解釈では、本作の方角は西北西です。


北側の立場から北と西の違いを述べるのは容易なのですが、西側の立場から北と西の違いを述べるのは(野暮的な意味で)難しくなります。夢の内容を思いだそうとすればするほど夢が記憶から消えていくのと同じように、西を言葉で捉えようとすればするほど西は霞がかって消えていくからです。

ただ「読者を迎え入れる」「読者をもてなす」というとき、両者には明確な違いを設定することが可能です。

「読者を迎え入れる」「読者をもてなす」を北向きで連想するとき、ここには「読者を掴む」「読者の興味を惹く」「読者を離さない」「読者を満足させる」といった言葉が連結します。北向きにとって「読者を迎え入れる」「読者をもてなす」とは、お店でプロがお客様に相対するときに近しい心構えなのだろうと考えます。これは多くのエンタメ小説書きが共感するところだろうと思います。読者様の時間を奪っているのだから、それに見合う読書体験を提供するのが作者の務めであると。

一方「読者を迎え入れる」「読者をもてなす」を西向きで連想するとき、ここには「読者と出会う」「読者と語りあう」「読者と繋がる」「読者と時間を共有する」といった言葉が連結します。西向きにとって「読者を迎え入れる」「読者をもてなす」とは、我が家で私があなたに相対するときに近しい心構えなのだろうと考えます。古くからの知人が訪ねてきた、不思議な縁で出会った人が訪ねてきた、そんな個人が個人を迎え入れる感覚。縁により人と人が出会うとき、“誰かの時間を奪う”という考え方はなく、そこにはお互いの時間のみが流れます。

そういう感覚が生まれるのが、西向きの特徴だろうと考えます。全ての西向きがそうというわけではありませんけどね。


本作からはそういう西向きの印象を受けました。

人が訪ねてきた、もてなしたいな楽しませたいな笑顔にしたいな、どうしようかな、そうだ昔のアルバムを見せよう話の種になるかもしれないや。

そう思ってアルバムを引っ張ってきて「こういうことがあったんですよね」「そうそう、こんなこともあったんですよおかしいでしょ?」と、客人とひと時を過ごす。

本作という存在はそのためのアルバムに過ぎないんですよね。自分という人生に触れてもらって、このひと時を楽しんでもらうためのアルバム。そうして何だか自分の人生も捨てたもんじゃないな、そう思えたらめっけもんだ。そのために創作というツールを使う。

そんな西向きの作品には、一作読むだけで見知らぬ他人を古くからの知人に変えてしまうようなパワーがあります。一晩宿を借りるだけで、そこが第二の実家になってしまうような感覚と似ていますね。

プロとしてお客様をもてなす姿勢を崩さずにショーを楽しませる北向きには、このような古くからの知人に変えるようなパワーはありません。代わりに、多くの人を広く満足させるパワーがあるんですけどね。西向きには(不特定多数に読ませる小説でありながら)縁で繋がったあなたと過ごすことしかできませんから。


ということで本作は西向きです。

どうして西北西なのかというと、大雑把に言ってしまうと水木さんが北を望んでいるからです。もちろん作品にその意思が溶けこんでいるから、ではありますが。

読者を意識して「前置」「後書」で「本題」を挟んでいる構成、

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 このお話は便宜上、フィクションですと書かねばならないが、ご笑覧いただけたら幸いである。

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という“体裁”、「笑いながら見てやってください」という意向、いずれも自分の人生でもって気楽に楽しんでもらおうという意思が見えます。その点において「もてなし」の色が強いので、やや北に振れるのかなと考えます。「あ、お茶飲みますよね用意しますね」みたいな具合とでもいいましょうか。

水木さん的には真北との予想だったとのことなので「あれー?」だとは思いますが、それは真西ではなく西北西というところにきちんと出ていると思います。

正直なところ、こういう創作ができるようになった水木さんはもう別のステージに立っていると思っているのですが、水木さんの意向としては真北の創作をやっていきたいところなのが何ともですね。



西北西の作品として見たときには、

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 同期生の男の人が、授業後エレベーター前でハンカチを握りしめているのを目撃してしまう。

 とっさの判断で知らぬふりをして通り過ぎる。

 どうすれば最適解だったのかいまだに上蓋。

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このあたりからとても良くなってきたと思います。

それまでの“辛い”“重たい”内容にくらべ、このあたりから少しずつ毛色が変わってきたように思います。これは「わたくし」が懸命に生きてきたからだろうと思います。“自分がされた酷いこと”だけでないことも「上蓋」にしまえるようになるほど、「わたくし」が懸命に生きたから。そういう人生の跡のようなものが見えて、非常に素晴らしいと思います。

水木さんが「本題」について「笑ってほしい」と思ってらっしゃるのは、「辛かったですね」「重たいですね」一色ではなく、自分の人生を気楽に広く見てほしい気持ちがあるからではないかと想像します。

アルバムをめくっていって「こういうことがあったんですよね」「へぇ、こういうことがあったんですね」「そうそう、こんなこともあったんですよおかしいでしょ?」「あ、ふふふ、ほんとおかしいですね」みたいな感じで、読者とのひと時を過ごしたいのではないかなと想像します。

そして何よりそんな温度感でこのアルバムを見せられるようになったこと自体に、「わたくし」が人生を歩んできた足跡を感じるじゃありませんか。作品が素晴らしいというのを超えて、「わたくし」が素晴らしいとフィンディルは思います。


そういうことを考えると、まだまだ「上蓋」のなかには読者とのひと時を過ごせるような出来事が探せるんじゃないかなと想像します。

それはもっと“辛い”“重たい”があるはずだ、ということでも、“良い”“楽しい”があるはずだ、ということでもありません。「わたくし」が気づいてないだけで、「これも上蓋にしまっとこ」という出来事はまだまだあるんじゃないかと思います。

そうしてもっともっと積み重ねて、「辛かったですね」「重たいですね」一色にならない『「わたくし」の人生』になってくると、読者の見え方も変わってくるかもしれませんし、もっと素晴らしい作品になるんじゃないかなという予感がしています。

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