美術教師(仮)⑤

 それから数日。僕はすっかりスランプに陥って、息抜きをしている時間が増していっている。透先輩がそう言っていたから、というのは励ましと同時に、甘える理由を入手してしまったようなものだった。

 読書に取り組み、天井を見上げて時間を潰す。居間で廊下からの風に吹かれるだけの時間も多い。文章は修羅場から一文字たりとも進んでいなかった。僕のほうが修羅場だ。

 陰鬱としているが、している分一層に進んでいなかった。自分でも雰囲気がよくないのは承知している。だからってわけでもないだろう。それとなく、放られているように感じることがあった。

 とはいえ、これはあくまで僕の体感でしかないし、執筆の邪魔をしないように気を遣われているのだろうと思う。その心遣いを邪険にするつもりはないが、苦々しさはあった。

 自分がどんな雰囲気になっているのか。改善すべきだろう。僕自身、早くここから抜け出したかった。そのためには、休み続けているってわけにはいかない。

 僕はそろそろと執筆に意識を向け始めた。だからって、気の違いだけですんなり進むのなら、スランプとは呼ばない。


「蒼くん、大丈夫?」


 あまりにも陰鬱としているものだから、栞にも心配されている。

 大丈夫だとは答えたが、大丈夫なら困っていないといつ口からまろびでるかもしれないと恐れた。八つ当たりであるし、ましてや栞にそんなことを言い放ちたくはない。それを飲み込んでいるから、会話がやけにつっかかる。そんなものだから、会話は弾まないし、萎んでしまった。

 とはいえ、栞がすぐに読書へ戻るのはいつも通りなので、それほど気にすることではないのだろう。恐らく、栞は考えてもいない。いつも通りにのほほんと読書に戻っていた。

 居間で対面しながら、それぞれの作業に没頭する。それは、衝立一枚を隔てていたころとそう変わりはない。

 それに、またぞろ気まずさを覚えるようになるとは思わなかった。この気まずさには、完成品を読ませると約束したことがあるのかもしれない。

 苦しいとは思わないし、栞は僕を急かしたりはしなかった。なるように、という感じで、栞にはそこまで重要案件ではないのかもしれない。僕だって、重要視しているつもりはなかった。

 だが、こうして考えてみると、自分で自分の首を絞めている原因はそこにあるのかもしれない。今更の自覚に苦笑を飲み込みながら、僕はスマホに視線を落とした。

 一文字たりとも進んでいなかった続きは、どうするつもりだったのか迷子になりかけている。息を吐き出して、少し前の展開から読み直していった。

 そういえば、と次を思いつく。僕は意を決して、文字を打ち込み始めた。進み具合は悪い。それでも、一単語一単語を積み上げていく。全体図は茫洋としているが、今は手を動かすことしかできなかった。

 いくらだって直しが必要だろう。分かっていても、物語に決着をつけないわけにはいかない。終わらせずに放り投げるつもりはなかった。

 自分にそんなポリシーがあったなんて知らなかったが、どうにもそれは受け入れがたいのだ。ひとまずでも、俺戦エンドでも、なんでもいいから最後まで締めてやりたかった。

 だからって、淡泊に書き進めるのも腑に落ちないから、懊悩しているのだけれど。そうこうして格闘している時間はそれなりにあったはずだ。

 その間、栞は読書に没入しきっていて、一度だって浮上してこなかった。その集中力が羨ましい。

 僕はその間、何度も手を止め、スマホを放り投げ、天井を見上げ、栞の様子を盗み見、トイレという名の逃亡に何度か立ち、喉が渇いたとばかりに台所と往復していた。

 そうこうしているうちに日は暮れ始め、食事の時間になる。先輩たちは、今日の夕飯はいらないと言っていたはずだ。ナツさんは台所で料理を開始していた。いい匂いがしているが、煮物系だということ以外は分からない。

 今日の夕飯はなんだろう、と思考がまたよそに流れた。まったくもって、集中力に欠けている。


「あれ? 今日は二人だけ?」


 ぼんやりしているところに声が滑り込んできて驚いた。

 はっと廊下側を見ると、羽奈さんが顔を出している。ボブの髪が風に揺れていて、それを耳にかけていた。柔らかい姿で向かいに座る。栞の隣ではあるが、栞は壁に背を預けてしまっているので、微妙に距離があった。

 そして、栞はただの声かけだけでは、本から顔を上げることはない。公道であれば多少正されたが、荘は自宅だ。リラックスできる空間では、使い物にならない。

 今日もまた、その癖は存分に発揮されていた。羽奈さんも気にすることはない。


「みたいです。先輩たちはいらないって」

「二人とも遊び?」

「でしょうね」


 二人が夜にいない理由なんてほとんどそれだ。もしかすると、透先輩は出版社とどうこうなんてこともあるのかもしれない。だが、そういうのをいちいち自己申告していくタイプではないし、遊び人として振る舞っている。


「相変わらずだよね。千佳ちゃんはこの間、大変だったんでしょ?」

「まぁ……透先輩が退けてくれましたけど」

「何だかんだ頼りになるんだよねぇ」


 何だかんだ、は本当に結果としてだとか、日頃とは違ってだとかが含まれているのだろう。苦笑いになるのも頷けた。


「透先輩ってずっとあんな感じなんですか」

「そうだよ。いざとなったら頼りになるって感じ。私が入ったときはまだ男性もいたけど、それから一年くらいは誰もいなかったから、入ってきてくれたときはほっとしたくらいには頼り甲斐あったよ」

「やっぱり、女性ばっかりだと不安なものですか」

「ナツさんだって若くないしね。家のことに対しても、男の子がいてくれると全然違うよ。蛍光灯の交換とか」

「めっちゃ物理」


 心理的な安堵かと思ったが、男手があると楽だという所帯じみた理由だった。だとしても、頼りにしていることには変わりがない。羽奈さんの表情から見ても、馬鹿にしているわけでもなんでもなさそうだった。


「助かることは事実じゃん。それに透くんが千佳ちゃんのことで頼りになるのも本当だしね。解決するところ、見たんでしょ?」

「そのあとすぐ口喧嘩してましたけど」

「それくらいがちょうどいいんじゃない? 千佳ちゃんだって、気を遣わなくて」


 その視点はまったくない。まさか透先輩がそこまで計算尽くであるとは思っていなかった。

 確かに、透先輩には万全なところがある。今までだって、何度だってそう感じる部分があった。だが、あんなハプニングの中でそれをしてしまう透先輩には、何度だって驚かされる。


「透先輩ってすごいですよね」


 言葉にすると、とてもチープだ。

 もう少しいいようがなかったものかと我が事ながら語彙力のなさに脱力したくなる。仮にも小説を書いている身としては、あんまりだった。


「透くんはねぇ。本当に何でもそつなくこなすよねぇ」


 その相槌は深い同意であると同時に含みがある。目を細めて見ると、羽奈さんは苦々しい笑みを浮かべた。やはり、含みがあるらしい。


「自分の分野外のことでもけろっとやれちゃうでしょ」


 分野外、というものがどこを指すのか。それは分からなかったが、隙がないことには抵抗なく頷ける。

 一口に創作といっても、さまざまな形があった。漫画と小説で違いがあるだろう。ストーリーの作り方としては大差ないのかもしれない。だが、それにしたってさらりとアドバイスをしてくる。その感想はまさしく、羽奈さんの感想と合致していた。


「前に絵のことで励まされたりしたんだよね、私も」

「絵のこと?」

「私、美術学校だからね。今はもう、美術教師を目指してるけど、最初は芸術家目指してたし。もっと色々あったよ」


 明言ではない。だが、その挫折を想像することは容易かった。そして、僕が趣味の筆を折るのと、将来の道を分けるものとでは、そこには大きな差があるだろう。

 渋くなった僕に、羽奈さんは緩く笑った。垂れ目垂れ眉の表情は、そうすることで随分柔らかく見える。羽奈さんには、人を安心させるところがあった。それは、高校生と大学生という違いもあるだろう。


「まぁ、諦めてても課題はあるしね」

「それで、透先輩が?」


 僕のときはストーリーや進め方に話が傾いていた。

 だが、透先輩は漫画家だ。芸術寄りの羽奈さんへのアドバイスもできてしまうのか、ということに気がついた。そう言われると、透先輩の万能感をより感じさせる。

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