僕が恋する夏目な彼女②
あれから、栞は部屋に引きこもっていた。衝立の向こうに話しかけ過ぎないのは暗黙の了解だ。そもそも、読書していて気付かれないことのほうが多い。僕だって同じようなものなので、結果として沈黙でいることが平常だった。
テーブルの部分に衝立はないので、何かするときに顔を合わせれば言葉を交わす。いつの間にかルールができていて、そこから逸脱するほどイレギュラーなことは起こらなかった。
この部屋割りになった日が何よりもイレギュラーだったのだから、それ以上なんて早々起こりえない。そんなものだから、沈黙を破る方法も分からなかった。
栞がどうしているのか。近頃は考えることもなくなったことを、当初のように考えている。逃げ出されたことは地味に尾を引いていた。
といっても、僕が悪いわけではないのだけれど。それでも、どうなったのかと様子が気になって仕方がない。
ぐるぐる考えながらも、壁の一線を越えることはできずに僕は居間へと向かった。これは初日の移動と同じで、逃げ出したも同然だっただろう。
僕はノートを片手に移動して、他のことを考えずに済むようにペンを動かした。正確に言えば、ノートを片手にスマホで執筆をしている。パソコンと同期できるアプリがあるのはありがたい。
僕が本格的に書き始めたのは、透先輩にアドバイスを受けた翌々日からだ。目指すべき読者は、栞になってしまっている。
くすぐったさや気まずさがないわけじゃない。実質、口に出すわけではないので、関係ないことではあるけれど。けれど、栞のことが真ん中にあることには、ムズムズした。
それでも、僕は着々と小説を書き続けている。いくら栞のことがあるとはいえ、書いているときは書いていることしか考えていない。だから、僕は今も書くことができているのだろう。
そうこうしているうちに、羽奈さんが居間へ顔を出した。
「ただいま。蒼汰くん、今日は部屋じゃないの」
「おかえりなさい。まぁ、ちょっと気分転換に」
「やっぱり女の子と一緒なんて緊張するよねぇ」
「まぁ」
羽奈さんのまったりとした口調に、からかいの要素はない。純然たる事実のように言われると、ムキになるのもおかしい気がしてくる。
それに、常々緊張することが減ったとはいえ、今日は同じようなものだから否定することもできなかった。
羽奈さんは緩やかに笑いながら、向かいに腰を下ろす。居間に集合すると、なんとなく会話する雰囲気が流れる。だが、それは揃えばという感じで、一人二人の場合は微妙なラインだ。
栞となら読書していることが多いので、無言一択だが。思えば、部屋だろうと居間だろうと、僕と栞の距離感は変わりがない。
ただ、一緒の部屋になる前は邪魔してはいけないと気負いがあった。それがなくなって、今は自然に無言でいる選択ができている。交流が深まっているのを今更ながら実感した。
羽奈さんを目の前にすると、その実感は深まる。話すべきなのか。作業を続けていいのか。どうしても考えてしまいながら、ノートは閉じた。だが、判断はできかねて、スマホを片手にしたままになる。
羽奈さんは特に考えていないのか、気ままにスマホを弄り始めた。その態度を見てから、僕もようやく執筆作業に戻れる。
しかし、どうにも気が散った。それは何も、羽奈さんが悪いわけじゃない。栞のことが引っかかっていたし、筆が進まない日というのは往々にしてある。そこに羽奈さんが介在しているだけに過ぎない。
そのうちに、羽奈さんがスマホから顔を上げた。視線が合ってしまって、苦笑いをしてしまう。
「どうかした?」
羽奈さんは大らかに話す。緩やかで、慌てないですむのは助かった。透先輩や千佳先輩は、あれはあれでペースを乱されて気は楽ではあるけれど。
「いえ、ちょっとぼーっとしてただけです」
「栞ちゃんと何かあったの?」
「栞は関係ないですよ」
ないわけじゃない。
だが、甘えているだなんだを掘り返すつもりもなかった。しかも、自分が甘えられているのかもしれないなんて、自意識過剰もいいところだ。否定も肯定もされていないことを相談しようとは思わない。
羽奈さんがどれくらい僕らの事情に精通しているのかも分からなかった。生活習慣が違うので、すれ違うことが多い。深く会話をしたこともなかった。言ってはなんだが、羽奈さんとは距離がある。
「透くんと千佳ちゃんがやたらと話してるから、何かあるんだと思ってた」
「……あの先輩たちは」
よそで話さないで欲しいと思うが、先輩たちにしてみれば荘でのことは内々の話であるのかもしれない。何にしても、ガバガバな判断力だ。
ため息を零すと、羽奈さんはくすりと笑いを上げた。
「あの二人だしね」
「前からあんな感じなんですか?」
「んー? 最初のころはもう少し、ぎくしゃくしていたような気がするけど……いつの間にか、あんなことになってたね。透くんが留年したから、千佳ちゃんがもっと砕けたってのもあると思うけど」
「え?」
初出しの情報に目を瞬く。
ともに高校二年生。その情報を疑ったことはなかった。透先輩は確かに軽薄ではあるけれど、そんなことになっていたとは思わない。勉強ができないって感じもなかったはずだ。何をすれば留年になるのか。うまく想像できずに、頭の整理ができなかった。
「あ、聞いてなかった?」
そういう羽奈さんの口調は緩い。少なくとも、重い事情……たとえば、とても荒れていただとか。そういう話ではなさそうだった。だが、そうなるとますます理由が分からない。
頷いた僕に、羽奈さんは苦笑いになった。
「漫画家になるのに留年してるんだよ。締め切りに向かって興が乗っちゃったみたいで、部屋からもあんまり出てこなかったくらい。それであっさりと出席日数足りなくなったって」
「……らしいですね」
そう言えるほど、透先輩を知っているわけではない。
ただ、漫画に魂を売っているのは分かる。漫画家であると知ってから、透先輩が漫画第一であることに気がついた。その何たるかまでは分かった気になったつもりはないが、透先輩なら漫画のために留年したっておかしくはないだろう。
「でも、ビックリだったよ。伸びっぱなしの前髪をちょんまげみたいにしてたし、髭は生えっぱなしだったし、クマもひどかったし、やつれ気味だったし、一体何やってんのかと思ったくらい」
「あの透先輩が?」
金髪がプリンになっているところも見たこともない。身嗜みに気を遣っている。どれだけ具体的にやつれ具合を伝えられても、いまいち想像できない。
「意外でしょ。何やってんのか分からなくて、本当に引きこもるような何かがあったんじゃないかってひやっとしたんだけど、すぐに学校に復活したし、そのうちデビューしてたってわけ」
「透先輩が悪戦苦闘しているのを見てきたんですね」
「それほど見てたって感じじゃないけどね。でも、色々あったんだなってのが分かるくらいには大変だったみたい」
「それで、千佳先輩と同級生になった、と」
「そう。同じクラスでしょ、あの二人。透くんが千佳ちゃんを千佳子って呼んで絡もうとするから、そこから今みたいになったかな? それより前から、荘でもやってたけど、派手になったのはそのときかな。千佳ちゃんが透って呼び出したのも」
「それまでは、透先輩って呼んでたんですか?」
「そうだよ。千佳ちゃんだって少しはしおらしかったの。でも、遊び人同士息が合わないみたい」
「遊び人なのに?」
首を傾げると、羽奈さんの苦笑が深まる。恐らく、その違いや信念の違いは、羽奈さんにも理解できないのだろう。
「千佳ちゃんは本当に誰彼構わずだからね」
「透先輩は違うんですか」
「後腐れないし、揉め事も起こしてる感じないし、そういうとこちゃんとしてるんじゃないかな。遊びにちゃんとも何もないだろうけど」
「止めようという気はないんですか」
「透くんのほうは、多分恋愛ネタとして遊んでるとこあると思う。だから、深入りはしてないんじゃないかな。千佳ちゃんはそういうところガバガバそうだから」
「トラブルになってるんですよね」
「そうそう。透くんに怒られてて、そこからまたバチバチしたところもあるかもしれないね」
「千佳先輩ってやっぱガバガバなんすね」
危機感がないという意味合いで使ったつもりだが、どうにも必要以上に罵倒しているような気がしてしまった。そして、帰り際の勘違いは何か問題を運んでくるのではないか、という杞憂が襲ってくる。
思わず、ため息が零れ落ちてしまった。
「何? なんかあったって千佳ちゃんのことなの?」
「どうもつけられてたみたいで、僕の腕に絡んできました」
「それ、勘違いされてない?」
「栞もいたんで大丈夫だと思いますけど、千佳先輩はちっとも意に介してないみたいでした」
羽奈さんの顔色が渋くなる。それは銭湯で透先輩が見せていたものに限りなく近い。二人揃って、千佳先輩を本当に心配しているのだろう。
僕は今のところ、厄介ごとに巻き込まれるかもしれないという気持ちのほうがずっと強かった。
「気をつけてね」
「はい」
「何かあったらすぐに言うこと。透くんにも話しておくから」
「……また揉めません?」
「でも、そういうのは透くんの独壇場だからね。前のときも結局、透くんが追い出してくれたんだよ」
あの苦味は、その苦労も含んだものだったのだろうか。
透先輩が人でなしだとは思っていない。けれど、いつも言い争っている千佳先輩にそこまで肩入れするとも思っていなかった。いや、放ってもおかないだろうけれど、それほど中心になって対処したとは思わない。
「分かりました。僕からも透先輩に話を通しておこうと思います」
「うん、栞ちゃんにも気をつけてあげて」
「はい」
結局、話は栞に着地してしまう。羽奈さんにそんなつもりはないだろうが、僕としては同じことだった。
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