第三章

僕が恋する夏目な彼女①

 部屋が元に戻るらしい。

 工事は隣で行われているので、僕らはその経過をよく知っていた。作業員の人ともいくらか言葉を交わしたくらいだ。そして、中間テストを越えてしばらく。同じ部屋になってから一ヶ月が経とうとしたころに、後一週間という終わりが通達された。

 僕も栞も頷いたっきり、変わらない生活を送っている。いくら部屋を出るといっても、同じ荘に居続けるし、元に戻るだけだ。惜しい気はしているが、だからって何かをするほどのことはなくて、カウントダウンは進んでいた。

 残り日数は三日になっている。僕らは普段通りに、図書館に寄り道して帰路へ着いていた。栞の悪癖は、相変わらず続いている。僕のせいであるとは言えないだろうけど、僕が許しているということはあるような気がしていた。

 これは放っておいていいのだろうか。部屋が戻ればこの習慣もなくなるとは言えない。帰る場所が同じなのは一緒なのだから、これからも続くだろう。

 だが、この機を目処に、いい加減忠言すべきなのかもしれない。そんなことを考えながら、栞の隣を歩く。

 今日の栞は、お仕事ミステリを読んでいた。つい先日まで僕が読んでいたものだ。面白かったと伝えたそれを能動的に読んでくれるのは嬉しい。僕には無関係だけれど、手柄であるような気さえする。


「蒼汰」


 栞を横目に考えていたところで、声をかけられてビクッとした。

 呼びかけられるのはいつだって突然だろうが、図書館から荘への帰り道で千佳先輩に会うとは思わない。今日まで一度だって千佳先輩と遭遇したことはなかった。

 荘付近になれば話は別だが、道中は珍しい。そのうえ、声のほうを振り返ったころには、駆け寄ってきて腕を取られた。僕の衝撃を知らずか。そのまま腕を絡め取られる。


「なに、どうしたんですか」


 千佳先輩はそう距離感がある人ではないけれど、かといってスキンシップ過多なわけでもない。今までこんな接触をされたこともなかった。

 しかし、千佳先輩は僕の腕をぐいぐいと引っ張るように歩き出して困惑する。


「ちょっと、待ってください。栞が」

「……あんた、透の言う通りよね」


 透先輩が千佳先輩に僕のことをどう言ってるのかは知らない。しかし、栞のことを意識している。そのことを示していることは分かって、僕は唇を引き結んだ。

 それもあるだろう。だが、読書しながら公道を歩く栞を置いていくことはできない。それは、意識云々よりも安全性を考慮した結果だ。ルームメイトの危険を看過はできない。

 口では反論するかのようなことを言ってはいるが、千佳先輩も栞の状態に気がついて僕が気にする理由を察したようだ。歩調を緩めてくれる。ほっとして、栞の隣に戻った。腕に千佳先輩がくっついてくるのも変わりない。


「ていうか、本当にどうしたんですか? 離してください」


 意味がある行動だろうとは思うが、そのままにしておく理由はなかった。

 僕はどうにか腕を引き抜こうとする。しかし、千佳先輩は力の限りぶら下がってきた。ほとんど背丈が一緒なので、なかなか撥ね除けられない。そのくせ、理由を口にしないので、ほとほと参ってしまった。

 牽制し合うかのような沈黙が横たわること数分。僕は千佳先輩を力尽くで撥ね除けるのを断念した。本気で押し退ければ、突き飛ばせないわけではない。だが、腕だけを引き抜くのは難しいし、女性の先輩を弾き飛ばす趣味はなかった。

 赤の他人なら、恐ろしくて力にものを言わせたかもしれない。だが、ルームメイトの先輩に暴力で訴えかけたりはしない。そうして諦めていると、もう一方の腕にも違和感が走った。

 そちらを見下ろせば、栞が僕のシャツの袖を引いている。自主的に本を手放すだなんてどうしたのか。千佳先輩と比べると、ほんのちょっとの接触でしかないとはいえ、僕の衝撃と言ったら類を見なかった。


「栞……?」


 千佳先輩の行動も大概分からないが、栞のほうが常軌を逸している。

 この一ヶ月間。一度としてこんなことをしたことはなかった。どういう風の吹き回しなのか。読書から離れた異質さも相俟って、千佳先輩よりもずっともっと当惑する。


「……」


 栞は答えのひとつも寄越さない。そして、じっと僕を見上げてくる。物言いたげなのは分かるが、その内容を察することはできない。


「どうした? 何かあったか?」


 千佳先輩に言うよりも親身になってしまったのは、露骨な贔屓だっただろう。

 それは千佳先輩にも察知されているようで、横からからかう気配がした。無駄に透先輩に揶揄されてきたがゆえに、雰囲気を感じ取ることができるようになっている。僕の気のせいかもしれないけれど。


「……千佳先輩、どうしたんですか?」


 栞は僕の問いに答えずに、袖を引いたまま僕の身体を挟んで千佳先輩に首を傾げる。どういう心境なのか。どういう事態なのか。間に挟まれていながらも、僕は置いてけぼりを食らっていた。千佳先輩も栞と同じように、腕越しに栞へ目を向ける。


「ちょっとね」

「ちょっと?」


 誤魔化すにしても拙劣でしかない。僕だって疑問は抱いたが、栞は寸秒の躊躇もなく復唱した。促すような語尾に、千佳先輩が苦笑いをする。


「ちょっと絡まれた的な?」

「……透先輩に諫言食らってませんでした?」

「透のことはいいじゃん」

「じゃ、それはいいですけど、それで俺は何で腕を取られているんですか」

「もういないけど、さっきまで後ろに来てたから」

「はぁ!?」


 制御できずに声が跳ね上がった。栞も目をかっぴらいている。

 思わず歩を止めた僕を窘めるように、千佳先輩は足を進め続けようと腕を引いた。たたらを踏む形で、それにならう。連なっているも同じなので、栞も同じようになっていた。


「ちょっと、これもしかして、僕勘違いされたんじゃありません?」

「うん、ごめんね」


 けろっとした口調で舌を出されても、何も可愛げがない。厄介なことに巻き込んでくれたことに血の気が引くくらいだ。悪魔にしか見えない。

 ついぞ、力いっぱい腕を引き抜いた。千佳先輩も、もういないと分かっているからか。僕に執着することはなかった。悪質である。


「なんてことしてくれたんですか。前はどういうことになったんです?」

「前は前じゃん。勘違いはしたかもしれないけど、追ってこないわけだし、大丈夫。大丈夫」

「楽観的!」


 そりゃ、透先輩があんなにも苦い顔をするわけだ。

 遊ぶのは千佳先輩の自由だろう。僕には被害がなかったから、透先輩の話も他人事のように聞いていた。そもそも、他人事だが。

 それでも、自分たちの周囲のこととしても、どこか遠かったのだ。それが一息で当事者にさせられて、透先輩の心労を理解した。口は悪いが、過去を語ったときの銭湯での顔を思い出せば、心配が本物だったことは分かる。

 頭が痛かった。


「気をつけないとダメですよ、千佳先輩」

「大丈夫だって! いざとなったらちゃんと処理するし」

「処理ってなんすか。怖い。僕は手伝いませんからね。これ以上、勘違いはいりませんよ」

「栞にも勘違いされちゃ嫌だもんね?」

「聞いてんだから、栞は勘違いしないでしょうが。大体これ、どういう勘違いになったんですか? 栞まで巻き込んでませんよね?」

「巻き込んだっていうか、栞が関わってきちゃったから……どうだろ?」

「勘弁してくださいよ」


 額に手を当てて、吐息を零す。栞は未だに僕の袖を引いたままだ。それがあるからか。千佳先輩は眉を顰めて、僕と栞を見る。


「その状態で言われても? ていうか、あんたたち、そういう関係だったんだね」

「いや」

「違いますよ!」


 僕が首を振って、栞がはっきりと声を上げた。まったくもってその通りではあったが、放言されると心がスカスカする。


「じゃあ、どうしたの? 栞は」


 千佳先輩は僕らの否定を真っ向から否定することはない。その代わり、栞の行動原理を問う。それは僕も知りたくて、千佳先輩から栞に視線を戻した。

 栞はぱちくりと目を瞬いてから、ふいと視線を逸らす。顔まで俯いてしまったので、表情が見えなくなった。それから、袖から指先が離れていく。ほっとしつつも、惜しくもあった。

 一緒の部屋にいたって、こんなふうに触れ合うことはない。栞は指先を合わせるように手遊びをしながら、地面を見ている。こんなふうに俯いている姿は、読書しながら歩いていることでよく見る光景だった。


「……蒼くんが、急に早く行くから」

「……認識してたんだな」


 ぽろっと零れたのは、文字しか追っていないと思っていたからだ。僕が隣にいることなんて、忘れ去っているのだろうとばかりに。その虚しさから、声をかけないことに意地を張っていたのかもしれない。構ってもらえないことに拗ねる子どもみたいだ。

 栞はこちらを見上げて、ぱちぱちと睫毛を叩いた。


「いつも隣を歩いてくれてるから、安心して歩いてたよ」

「僕の存在だけで安心するのはやめて、読むのをやめてくれよ」


 バツが悪そうに目を逸らされる。

 危険な自覚は十分あったらしい。常習犯でちっとも反省していないと思っていた。だが、自覚をしたうえでそうしているのかと思うと、苦くなる。同時に、僕のことを信頼してくれていると思うとくすぐったくもあった。

 栞と接していると二律背反なことばかりだ。


「だって、蒼くんが甘やかすから」

「人のせいにしないでくれよ」


 むぅと唇を尖らせる。可愛いけれど、それで誤魔化されてなんてやれない。危ないのは栞なのだ。

 しかし、追撃しようとする僕の肩越しに千佳先輩が覗き込んでくる。


「栞は蒼汰にとっても甘えてるんだ?」


 その調子は、透先輩が僕にするのと同じようなからかいだった。所詮は冗談。栞だって、これが透先輩なら取り合わなかったかもしれない。というのは、いくら何でも透先輩を侮り過ぎだろうが。

 しかし、今の栞はその言葉にぼふんと顔を赤くした。薔薇のような煌びやかさに、目元までも潤んでいるように見える。


「な、甘……、そんなこと、ありませんよっ」


 片手に本を抱えたまま、もう一方の手のひらでスカートの裾を握り込んでいた。度外れて慌てふためいて真っ赤になっている。

 そんな動揺を目にすると、こちらまで気恥ずかしくなった。理由も何もなく、首筋から熱が広がっていく。それほどの熱波が巡る顔色を繕えるわけもない。

 僕を見た栞はますます動乱して、目線を泳がした。いっそ目が回っているかのようになっている。可哀想なくらいだと思ったが、僕だってかなり焦っていて気持ちが上滑り、何をどうすればいいのか分からない。

 そうこうしているうちに、栞がぐいっとこちらを見た。あまりの勢いの良さに、思わず背が反る。千佳先輩も驚いたようだ。


「先に帰ってます!」


 恐らく、猛烈にテンパっていた。

 千佳先輩に叫び散らすと、逃げるかのように荘への道を脱兎で去って行く。足は遅かったが、その勢いは止めるに憚られた。

 甘えられている。

 その指摘だけで、狼狽して逃げ出す。その行動さえ甘えられているような気がして、頭がぐらぐらした。頭を抱えてその場に屈み込む。

 あー、と声が出たのは、無意識だった。今は自分の感情を発散する場所がない。部屋に持ち帰っても、栞から解放されることはないと考えると声が出ていた。


「あんた、本当に分かりやすいと思うけど、栞も栞よね」


 髪を引っ掻き回される。千佳先輩を見上げると、おかしそうな呆れているような顔をしていた。


「先輩がからかったんでしょうが」

「だって、甘えてるでしょ。栞ってもっとしっかりしてると思ってた」

「……甘えてるってわけじゃないでしょ」


 栞の生活は規則正しくてしっかりしている。それはよく分かるし、否定するつもりもない。

 だが、気の抜けた面があるのは、何も僕に甘えているからというわけじゃないだろう。元々、栞が持っているものだ。

 僕だから甘えているという論法は正しくない。それを武器に言い返したが、千佳先輩が取り合ってくれる気配はなかった。言葉を重ねることはなくとも、その表情を見ていれば分かる。伊達に透先輩に目の敵にされてはいないのだ。何も誇れることではなかった。


「……大体、先輩は大丈夫なんですか。本当に」

「ふ~ん? 栞のことにぐだぐだ言うかと思ったけど、案外あたしのことも気にしてくれるんだ?」


 巻き込まれていることもある。それに、心配しているのはきっと透先輩だ。だが、そんなことを言えば拗れる。黙っている僕に、千佳先輩はふぅと息を吐いて髪を掻き上げた。


「悪かったよ、巻き込んで。勘違いされたかもしれないけど、まぁ大丈夫でしょ。栞のおかげでよく分かんないことになっただろうし」

「それ、大丈夫なんですか」


 横道に逸れて棚上げされていた話題に戻る。大丈夫というわりには、苦い顔だった。


「栞のことはよく見てあげて。あたしは大丈夫だから」


 そう言われると、途端に不安が膨れる。立ち去っていった方角へと目を向けると、千佳先輩が緩く笑った。不貞腐れながら立ち上がると、千佳先輩を置いて荘への道を辿る。


「拗ねないでよ。いいことじゃん、素直で」

「千佳先輩は適当にその場凌ぎでやり過ごさないほうがいいんじゃないですか。僕だって迷惑だし、栞だって危ないし、千佳先輩だって被害を受けるでしょ」

「気をつけまーす」


 気にしたふうもない。ただ、これが本心からかどうかは分からなかった。透先輩とよく似た千佳先輩のことだ。口調と本心が合致しているとは限らない。

 僕はそれ以上深く追求することはなく、栞の後を追うように荘へと向かった。その足が小走りだったのは、言うまでもないだろう。

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