マグノリア トワイライト

 ところどころ黒っぽく汚れた雪が、歩道の脇に寄せられ、膝ほどの高さまで積み上げられている。昨日の夜に強く降っていた雪はやみ、穏やかで冷たい空気と除雪された雪の塊だけが、吹雪の余韻を残している。


 エミは、ミキを幼稚園に送った帰り、ポニーテールに結った長い髪を揺らしながら、転ばないように慎重に歩いていた。スキニーデニムのポケットでスマートフォンが振動する。振動の長さからして、着信のようだ。普段こんな時間に電話してくる人なんていない。


 木度きどくんかな? エミは仕事に出たばかりの夫が忘れものでもしたかと思ったけれど、予想に反して電話の相手は職場の上司、山矢やまやだった。


「おはようございます」

「あぁ。エミ、休みの日にすまないが、田橋たばしから何か連絡が行っているか?」


 田橋すみ──エミの働く山矢探偵事務所の後輩で、エミが産休をとっている間に就職してきた若い女性だ。


「え? 田橋ちゃんですか? 昨日事務所で会ったきり、連絡はありませんけど」

「そうか」

「何かあったんですか?」

「今日、時間になっても田橋が出勤しないんだ。電話も繋がらないし、今アパートに来てみたんだが、玄関の鍵はかかっていて、中に人がいる様子はない。エミが何か知っていればと思ったんだが」


 山矢は落ち着いた声で話す。


「いえ、何も聞いていません」

「そうか。朝から悪かったな」

「田橋ちゃん……いなくなっちゃったってことですか」


 このとき、エミと山矢の頭には同じ不安が漂っていた。山矢の天敵、荒草あらくさとの決闘から三年。そう、今年は荒草が蘇ってくる年なのだ。


「とりあえず、俺はもう少し探してみる。手がかりになりそうなものがあるかもしれない」

「わかりました。私も田橋ちゃんのアパートに向かいます」

「ミキは大丈夫なのか」

「はい。今ちょうど幼稚園に送ってきたところです」

「わかった。田橋のアパートで待っている」


 電話を切ってエミは、久しぶりに恐ろしい予感がしていた。荒草はいつも、山矢の見えるところでしか悪さをしない。それは、荒草の目的が、あくまでも山矢を懲らしめることであって、ほかの人間を傷つけることではないからだ。でも、山矢に何の知らせもなしに、田橋だけ消えた。何か、いつもと違うことが起こりそうな予感がしていた。


 エミが田橋のアパートに着くと、山矢がいつもの白いシャツに黒い細いネクタイを締めて、黒いジャケットを着て、立っていた。長身、黒髪、鋭い目つき。煙草を吸っている姿は、とてもじゃないが堅気には見えない。山矢は年中かわらずこの恰好で、エミは、こんな雪の中であの恰好じゃ寒そうで仕方なかったが、山矢は全く寒そうにはしていなかった。


 山矢はエミを見つけると、すっと片手をあげる。


「休みなのに悪いな」

「大丈夫です。それより田橋ちゃんの手がかり、ありましたか?」

「ああ、ちょっと見てほしいものがある」


 そう言うと山矢は携帯灰皿に煙草を捨て、田橋のアパートの玄関のほうへ向かった。


「これ、見てくれ」


 山矢がエミを連れて行ったのは、田橋の部屋の玄関横の、電気メーターなどが入っているメーターボックスの前だった。扉は金属製で、鍵はなし。1センチほど開いている。


「開いていますね」

「そうだ。俺が来たとき、このくらい開いていた」

「中に、隠れられます?」

「いや、見たが、そんなに広くない」 


 そう言って山矢は、メーターボックスの扉を開けた。その瞬間、エミは生ぬるい風が頬を撫でるような、言いようのない不快感を持った。恐怖にも似た、鳥肌が立つような嫌な感覚。


「やっぱり、変な感じするか?」


 山矢に聞かれて、エミは頷いた。


「怖いっていうか、嫌な感じします」


 エミは正直に答える。


「俺もそうだ。不快感しかない。だが、何もない。電気メーターと、水道メーターがあるだけだ」


 そう言いながら、山矢はメーターボックスに顔を突っ込んで覗いた。


「このメーターボックスに何か──」


 エミが話しはじめたとき


「しっ」


 急に山矢が険しい声を出す。


「おい、エミ、何か聞こえないか?」

「え?」


 エミは山矢と入れ替わってメーターボックスに顔を入れた。



 ──ねえ、今度は何して遊ぶ?



「うわあ!」


 エミは慌てて顔をひっこめる。


「聞こえたか?」

「聞こえました! え、田橋ちゃん、メーターボックスに閉じ込められているってこと? でも、田橋ちゃんの声じゃなかったような」

「ああ、田橋の声じゃなかったな」


 しばらく腕を組んで考えていた山矢は「あの話……」とつぶやいた。


「あの話?」

「エミ、田橋が子供の頃に変わった友達がいたって話、聞いたことないか?」

「変わった友達……あ! 歌子うたこちゃん?」

「ああ、そうだ。田橋にしか見えていなかったお友達、歌子ちゃんだ。歌子ちゃんが、当時どこに住んでいたか、覚えているか?」


 エミは少し考えてから、眉間に皺を寄せた。


「田橋ちゃんちの、……」


「そうだ。俺は歌子ちゃんって子が、ずっと田橋を守ってくれている守護霊のような存在だと思っていた。でも、田橋は今、なんらかの方法で閉じ込められているように思える。これはどういうことなのか」


 エミにもよくわからなかった。話を聞いた限り、歌子ちゃんというお友達は、子供の頃によくあるような、子供にだけ見える不思議なお友達だった。田橋は、小学生のときにいつも一緒に遊んでいたと話していた。そして歌子ちゃんの部屋に行くには、メーターボックスの中から入っていくのだと。でも、歌子ちゃんが住んでいたのは、田橋が子供の頃に住んでいた家であって、このアパートではない。大人になるまで。一緒にくっついてきていたのか?


 山矢がまたメーターボックスの中に顔を突っ込んでいる。


「ここ……だな」


 電気メーターの左側、コンクリートの壁を撫でる。


「おそらく、ここが入り口だ。触ってみろ、すげえ嫌な感じだ」


 エミはそっとコンクリートに触れた瞬間、全身が粟立った。


「うぅ……嫌な感じ。歌子ちゃんって、こんなに嫌な存在でしたか?」

「いや、田橋にとって良い存在だと思っていたし、実際今まで田橋は救われてきている。田橋は屋上から落っこちたことがあったんだが、あのとき助かったのは、歌子ちゃんの力だと思っている。あれは、優しい温かい光だった。今まで、こんな邪悪な不快感はなかった」

「じゃ、やっぱり……」

「ああ、そうだな。──荒草だろう」


 山矢は忌まわしそうに名前を口にした。


「でも、どうやって?」

「何か手段があって、利用されているのかもしれないな」


 そう言うと山矢は舌打ちをし、きつく結んであった黒いネクタイの結び目に指をひっかけて、少しゆるめた。


「どうあれ、田橋がこの中に閉じ込められているのは事実だろう。ただ、このままじゃ、手の出しようがない」


 そう言うと、硬いコンクリートの壁を軽く拳で叩いた。


「俺はちょっと、山神村やまがみむらへ相談に行ってくる。エミは、ミキと木度くんと一緒に、安全に過ごしていてくれ。また連絡する」

「わかりました。山矢さんこそ、気を付けて行ってきてくださいね。山神村は、このへんより雪深いでしょうから」


 エミの言葉を聞いて、山矢は無表情にエミを見つめてから、ふっと息を吐いて少しだけ口角をあげた。


「エミからそんなことを言われるようになるとはな」

「どういう意味ですか」

「いや、なんでもないよ」


 山矢は煙草を咥えて火をつけると、事務所のほうへ歩いて去って行った。エミは、メーターボックスの中で聞いた声と、壁を触ったときの不快感を思い出して、寒さだけでない身震いをした。


 山矢から再び連絡があったのは、その日の夕方だった。


「エミ、変わりないか?」

「はい。田橋ちゃんとは連絡とれませんけど、それ以外は、何も起きていません」

「そうか。こっちは、山神村に着いて、村のみんなに話を聞いてもらったところだ。明日、朝一番で住職さんと谷中やなか村長と一緒にそっちに帰る。手を貸してもらえることになった」

「それは良かったです。私も、明日は木度くんが休みなので、ミキを見ていてもらえます」

「そうか。じゃ、今夜はゆっくり休むように。木度くんにもよろしく伝えてくれ」

「わかりました。おやすみなさい」


 電話を切って、エミは遠い山神村に思いを馳せる。高校生の時に初めて行った山神村。不思議な現象が、当たり前のように起こって、怪奇と常識が日常の中に溶け合っているような場所。エミは、あの場所のおかげで自分が自分らしくいられるようになったのだ、と思い出していた。懐かしい気持ちが、胸を満たす。山神村の人たちに手伝ってもらって、早く田橋を助けたいと思うエミだった。



 翌日、エミが約束の十時に田橋のアパート前に行くと、山矢と山神村の住職と谷中村長はもう揃っていた。だいぶ溶けて少なくなった雪の山を前に、大人三人が立っている。


「おはようございます。遅くなってごめんなさい」


 エミが駆け寄りながら声をかけると、三人同時に振り向いた。


「おお、エミちゃん、久しぶりだね。すっかり大人っぽくなったね」


 谷中村長がにこやかに言う。


「そうですか。もうアラサーですから」


 エミは苦笑する。高校生のときから知られていると、なんだか親戚のオジさんのような感覚になるな、と思う。そんなやりとりを、住職が微笑ましく眺めている。山矢は、相変わらず無表情だ。


「住職さん、おはようございます。ご無沙汰しています」

「ああ、エミちゃん。久しぶりだね。元気そうで何よりです」

「はい。おかげさまで」

「今日は、何やら不穏なお仕事のようだ。山矢さんに大まかな話は聞いてね、さっきメーターボックスの中も見せてもらった。ちょっと厄介そうだね」


 住職は、真面目な顔になって言った。エミは、やはり一筋縄ではいかないかもしれないと思った。


「さっそくだが、作戦を立てた。エミも聞いてくれ」

「はい」


 エミは一層気を引き締めた。



「まず、コンクリートの壁の部分が入り口と見て間違いないと思います。山神村のこのナイフで開かなかったらこの作戦は練り直しだが、これで開けるしかないと思います」


 そう言って山矢はナイフを取り出した。それはナイフというより包丁のような大きさで、山神村の石を削って作った物だそうだ。


「入り口が確保できたら、俺が、住職さんに用意してもらったこの縄を腰にしばって入るから、メーターボックスの外で、三人で縄を持っていてください。下手したら引きずり込まれる可能性もありますので、気を付けて下さい。たぶん、あの壁の強度を考えると、五分が限界……それ以上時間が経つと、入り口がふさがってくる可能性が高い。俺は入り口が閉まる前に田橋を見つけられなかったら、縄を伝って一旦外に出る。田橋を見つけられるまで、その繰り返しです」


 そう言って山矢は、エミたちを眺めた。


「よろしいですか」

「はい。山矢さんの作戦を信じますよ」

「ええ。それしかなさそうです」


 住職と谷中村長が同意したところで、エミも頷いた。


 山神村の御神水ごしんすいで湿らせてから編んだという縄を腰に巻き付け、山矢はメーターボックスを開ける。ゆっくりとコンクリートの壁にナイフを刺す。硬い粘土に刃物を入れたときのように、ぬったりとした質感でコンクリートが少しずつ裂ける。


「開けられそうだ」


 山矢はぼそっとつぶやいて、またナイフを当てる。何度か繰り返しているうちに、コンクリートの裂け目から黒い闇が現われた。


「よし。行けそうだ」


 山矢は黒い闇を大きく裂いて、なんとか潜り込めるだけの穴を開けた。そして振り向く。


「いってきます。入り口が閉じてしまう前に、戻ります」

「ああ、気を付けて」


 住職を先頭に、谷中村長、エミと並んで縄を握っている。絶対に引きずり込まれてたまるか。エミは強く思った。


 山矢がコンクリートの裂け目から頭を入れ、洞窟にでも潜るかのように入っていった。


「大丈夫。山矢さんなら、大丈夫ですよ」


 いつの間にか震えていたエミの手を、谷中村長がそっと撫でる。


「はい。信じています」


 そう言ったものの、エミには嫌な予感しかなかった。



 山矢が暗闇の中に入り込むと、立って歩けるほどの高さがあり、細く続く道になっていた。暗いが、背後の入り口からの灯りがまだ届くし、慣れれば見えないこともなさそうだ。山矢は、腰につけた縄を握りながら、一歩ずつ進む。左にゆるやかにカーブしており、その先にほんのりと灯りが見えた。灯りのほうから楽しそうな話し声が小さく聞こえる。山矢は警戒しながら進む。


 カーブを曲がりきると、そこは突き当りで、小部屋のようになっていた。天井の丸い、コンクリートの大きな雪室かまくらのような空間だ。その中心に、田橋と少女が向かい合って座っていた。天井からぼわんと優しい光が満ちていて、真冬なのに温かそうに見えた。山矢はカーブに身をひそめ、田橋と一緒にいる少女を観察する。黒髪のおかっぱ。白い半そでのポロシャツに、赤いプリーツスカート。この子が歌子ちゃんか。間違いなく、この世の人間ではない、と確信した。しかし、不思議と不快感はない。逆に、穏やかな優しい空気だ。さっきまでの不穏さは、どこにいった?


 時間がない。思っていたより中は入り組んでいなかったが、とりあえず田橋が見つかったから、連れて帰るしかない。


「誰?」


 少女が、覗いていた山矢に気付いた。少し怯えた声をしている。


「遊んでいるところ申し訳ない。田橋の上司だ」


 山矢は歩み出た。


「あ! 山矢さん! どうしたんですか!」


 田橋が振り返り、驚いた声を出す。見る限り田橋は、怪我はなさそうだし、元気そうだ。


「どうしたもこうしたもない。田橋は、ここに入ってどのくらい経ったと思っているんだ」

「え?」


 田橋は首をかしげて、向かいの少女を見る。


「まだ、十五分くらいだよね?」

「うん。そのくらい」


 少女の、田橋を見る目は優しい。


「山矢さん、紹介しますね。この子が、私が子供の頃に一緒に遊んでいた歌子ちゃんです」


 田橋は自分の置かれた状況をよく理解していないようだ。


「歌子ちゃん、この人は、私の職場の上司で、山矢さんって人なの。見た目ちょっと怖いけど、良い人だよ」


 田橋が歌子にそう言うと、歌子は山矢に向かってぺこりと頭を下げた。


「歌子です。すみちゃんのこと、いつもありがとうございます」


 やはり、田橋の身の回りを守っていたのはこの子だったのだ、と山矢は思った。それなら、なぜ閉じ込めている?


「田橋、すまないが急いでいる。ここに来て十五分と言っていたが、外の時間では、もう一日以上経っているんだ。その間、何も食べていないし、飲んでいないだろ。悪いが、一回出ないと危ないぞ」

「え? 一日以上って、そんなことありませんよ。ねえ」


 田橋に言われ、歌子もうなずく。


「田橋は、どうやってここに来た?」

「えっと、仕事に行こうと思って、雪が積もっていたので、いつもより早く家を出たんです。そしたら、電気メーターのところが少し開いていて、いつもはきっちり閉まっているから気になって、覗いてみたんです。そしたら、なんか懐かしい気持ちになって、思わず電気メーターをくぐって、子供の頃みたいに奥に進みました。そしたら歌子ちゃんがいたから、びっくりして!」

「私も。引っ越すたびにすみちゃんに着いてきていたんだけど、見守っているだけで良かったの。まさか会いに来てくれると思わなかった」

「ねえ。それで、久しぶりに会えたから、仕事まで少し時間あったし、ちょっとだけ遊んでいこうと思って」


 山矢は腕組みをしながら聞いていた。歌子から不穏さは感じられない。しかし、やはり何かしらの悪意が、田橋をここへ誘い込んだに違いない。そうでなければ、閉じ込めるはずがないのだし、時間の感覚が狂っているのもおかしい。


「おーい。山矢さーん。時間がないぞ。入り口が、閉まり始めている!」


 背後からくぐもった声が響いてくる。入り口から住職が叫んでいるようだ。


「いきさつはわかった。とりあえず、一旦出るぞ、田橋」


 山矢が田橋の腕をつかんで立たせた瞬間、ガチャリと重い音がした。


「え!?」


 田橋がびっくりして見ると、左足首に太い鎖の足枷がはまっている。


「何これ」


 鎖はコンクリートにめり込んで、床に繋がっていた。


「歌子ちゃん……?」


 田橋が歌子を見る。


「私じゃない。私、そんなことしない」


 歌子は首をぶんぶん振って否定する。艶のある黒髪が揺れる。山矢は田橋の腕を放し、足元の鎖を触った。ざらりとした不快感。入り口の壁と同じ感触だ。


「そうか。この壁自体が、奴自身なのか」

「え? どういうことですか? 何の話?」


 田橋は混乱していた。無理はない。歌子と遊んでいただけなのに、急に山矢が現われて、足枷がはめられている。


「山矢さーん。限界だ! 一回戻れ!」


 背後から住職のくぐもった声。しかし、せっかく田橋を見つけたのに、ここで戻ったら別の策を練られる可能性もある。山矢は迷っていた。どうしたら田橋を助けられる。


 そうしている間に、すっと背後の灯りが消えた。どうやら、入り口が閉まってしまったようだ。田橋と歌子と同様、山矢も閉じ込められた。



 山矢はとりあえず床にあぐらをかいた。入り口が閉まってしまった以上、もう急いでも仕方ない。脱出方法を考えなければならない。


「山矢さん……といいましたか。あの、状況がわからないんだけど、何ですみちゃんを迎えにきたのか、教えてください」


 歌子は正座をして山矢に向き合った。田橋も、山矢の隣に座る。


「私も、教えてもらいたいです。何が起こってるんですか?」


 山矢は一つ息を吐いてから、歌子の目を見た。


「確認するが、これは、君の仕業じゃないんだな?」


 そう言って、田橋の足枷を指した。


「絶対に違います。やっていません。すみちゃんと会えたのは嬉しかったけど、私はすみちゃんが外で元気に過ごしているのを知っていたから、こんな風に独り占めしようとなんて思わない」


 それはそうだろう、と山矢は思った。


「私も、これは歌子ちゃんじゃないと思います。こんなことする人じゃない」


 田橋は、自分の足についている重そうな鎖を苦々し気に眺める。


「歌子ちゃんには申し訳ないんだが、おそらく今回は、歌子ちゃんが利用されてしまったんだと思う」


 山矢は自分の想像を話し出す。


「俺には、天敵がいて、荒草というのだが、三年ごとに俺を襲撃にくる変な奴だ。今年が、荒草の現れる年だった。でも、こんな雪の降るような季節になっても奴は現れないから、おかしいと思っていたんだ。そしたら、田橋がいなくなった」

「私がここに入ってきたのは、荒草の作戦……誘導と言うことですか?」


 田橋が眉根を寄せる。


「ああ。でも、荒草は現れていない」

「ということは?」

「ということは、俺は、このコンクリートの壁自体が、荒草なのではないかと思う」

「え! これが?」


 田橋は小部屋を見渡した。


「ああ、そうだ。奴が、いろんな物に姿を変えるのは知っているだろう? おそらく自分の肉体と魂すべてを、この閉鎖空間の強固に使っているのだ」

「もしかして……山矢さんを閉じ込めるため?」

「ああ、その通りだ。俺を閉じ込めて、闘わずして勝とうという魂胆だな。歌子ちゃんを利用して田橋を誘い出し、田橋を探す俺を閉じ込める。その証拠に……」


 山矢は入り口のコンクリートを裂いたナイフで田橋の足枷を切ろうとする。


「ほら、切れねえよ。入り口を裂いたナイフだ。俺を中に入れるために、入り口だけ入りやすくしたんだろ。卑怯な奴のやりそうなことだ」


 山矢は腕組みして考えた。どうしたら田橋を連れて出られるか。


「山矢さん、すみちゃんのその鎖は、アラクサという人のしわざなの?」


 黙って聞いていた歌子が話し出した。


「ああ、だって、ここは君の部屋だが、これは君の力じゃないんだろ?」

「私じゃない」

「それなら、荒草くらいしか思い当らない」

「ねえ、その人って、前にすみちゃんを屋上から落とした人?」

「ああ、そうだ。あのときは助かったよ。俺一人じゃ田橋を救えなかった」

「え! あのときのあったかい光って、歌子ちゃんだったの?」


 田橋が驚く。


「ふふふ。いつもそばにいるんだよ」


 そう言って歌子は笑った。


「山矢さん、私は今、とても怒っています」


 歌子は静かな、強い口調で言った。


「すみちゃんは、私に優しくしてくれたお友達です。すみちゃんに意地悪した人が、またすみちゃんを困らせている。すみちゃんを悲しませる人は、私が許さない……」


 そう言い終わらないうちに、歌子から眩い光が放たれていく。


「驚いたな。全然気付かなかったぜ。おい」


 山矢は立ち上がり、田橋の腕をつかみ、強く引き寄せた。


「田橋、歌子ちゃんの光を直視するな。人間には強すぎる。俺にしっかりつかまってろ」


「え! あ、はい!」


 田橋は状況を飲み込めないまま、山矢に抱きしめられた。歌子に背を向け、山矢の胸に顔を埋める。歌子から発せられる光は強さを増し、歌子の黒髪がふわふわと宙に浮く。


「山矢さん、すみちゃんをよろしくお願いします」

「ああ、まかせておけ。歌子ちゃんこそ、頼んだぜ」

「おまかせください。いきますよ!」


 歌子がそう言った瞬間、周囲は閃光に包まれた。




 田橋が目を開けると、そこは自分のアパートの部屋だった。ベッドに寝かされているようだ。


「お、気が付いたか? 大丈夫か?」


 山矢が覗き込む。


「すまないが、鞄から鍵を探させてもらった。田橋だけじゃなくて、廊下で待機していてくれた彼らも、歌子ちゃんの力にてられて、伸びてしまったからな」


 田橋の狭いワンルーム。ソファにエミが、床に男性が二人横になっていた。


「何があったんですか?」

「歌子ちゃんが押し出してくれたんだよ、閉じ込められた俺たちを。すごいパワーだな。外で待っててくれた彼らが『入り口が閉じてしまってどうしようかと相談していたら、壁から突然光が放たれた。何かと思って身構えていたら、山矢さんが女性を抱えてものすごい勢いで飛び出してきて、みんな吹っ飛ばされた』と言っていたよ」

「吹っ飛ばされた……」

「俺も光を放つまで気が付かなかったんだが、歌子ちゃんは、異形のものの中でも相当位くらいの高い存在だ。神に近いかもしれない。目立ちたくない性格なんだろう。そうじゃなければ、あんなところでひっそりと過ごすような存在じゃない。もっと崇められるような存在だ。ずっと守護霊のような存在だと思っていたが、守護神と言った方が正しいな」


 そう言って山矢は少しだけ笑った。


「守護神……ですか。歌子ちゃんは、大丈夫なんですか?」

「心配ないさ。俺たちを力ずくで脱出させてくれたんだ。今頃、自分の部屋の修復でもしている頃だろう」

「もう……会えないんでしょうか」

「田橋が歌子ちゃんを忘れさえしなければ、これからもいつも、そばで見守ってくれているさ」

「そういうものですか?」

「そういうものさ」

「あ、荒草は、荒草はどうなったんですか!」

「……あんな力で破壊されたら、木端微塵だな」


 そういうと山矢は煙草を咥え「あ、この部屋は禁煙か?」と聞いた。


「いえ、大丈夫です」

「良かった」


 煙草に火をつけて、無表情でゆっくりと煙を吸い込んでいる山矢。


「あれだけの力で散り散りにやられたら、奴はもう再生できないかもしれないな」


 すーっと煙を吐いて、ぼそっと言う。田橋は、この人と一緒にいると、本当に不思議な体験ばかりだと思った。


「そういえば、そこに横たわっている男性たちはどなたですか?」

「あ? ああ、山神村の住職さんと谷中村長さんだ。そうか、会ったことなかったか」

「はい。お話は聞いていましたけれど、まだ行ったことはないので」

「そうだな。今回もずいぶん世話になったし、迷惑もかけてしまったな。荒草のことも終わったし、少し事務所を閉めて、久しぶりに山神村でゆっくり過ごすのもありだな」

「いいですね。行ってみたいです」

「木度くんの休みに合わせて、みんなで行ってもいいな。その前に今日は、みんなで大将のところで寿司だな」


 山矢は煙草を吸って、目を細めた。



 そのとき、玄関のほうから声が聞こえた。何やら外が騒がしいようだ。山矢と田橋は玄関から外へ出る。田橋のアパート前に、人だかりができていた。理由は一目瞭然。街路樹の桜が、満開に咲き誇っているのだ。アパートの前だけ、爛漫と。


「おお、これはこれは、歌子ちゃん」


 山矢はふっと小さく笑った。


「すっごい……きれい」


 田橋はうっとりと眺めた。


「もしかしたら、俺が年をとらないのは、今年で最後かもしれないな」


 山矢がつぶやく。


「え、何か言いました?」

「いいや、何でもない」


 山矢と田橋が眺める桜吹雪のその奥に、公園の白木蓮が閃々せんせんと咲き誇っていた。




【おわり】

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山矢探偵事務所シリーズ 秋谷りんこ @RinkoAkiya

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