〈下〉結実 

 梅野を襲ったのは、彼女にとってほとんど接点のない相手だった。僕はよく見知っていたし、他愛ない話をする間柄でもある。波多野は知っているどころではないだろう。彼女――そう、女子だ――は、女子バスケ部の主将である岸和田さんだった。

 男子以上に強豪である女バスのキャプテンであり、背は高く、体力もあり、腕っ節もまあ強い(僕は本気の腕相撲で負けた経験がある)。ちなみに我が校の女子人気ナンバーワンの人物でもある。

 岸和田さんは梅野を人気ない理科室に呼び出し、話しをして、逆上して梅野をひっぱたき、馬乗りになり、たまたまやってきた痩せぎすの理科教師に取り押さえられ、振り回された腕にぶつかり教師の眼鏡がひしゃげた。

 GW明け、梅野と波多野は別れていた。男子バスケ部は同時期に開催された新人戦で初戦敗退を喫した。吹奏楽部に新人戦はない。

 そこで多くの無関係な人間が無責任な推理を無節操に展開させる。いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのようにしたのか。それゆえに、真実の被害者と加害者は誰なのか。

 これから季節は夏に向かい、受験も本格的になるが、やはり中学最後の夏に思春期たる僕らは妄想――もとい、期待を膨らませる。そのシーズン前に、付き合って下さいと告白したはずの梅系地味女子が、一方的に別れを切り出した。別れを告げられた男子バスケ部長は腑抜けになった。初戦敗退を心配した女子バスケ部長が梅系地味女子を呼び出した。

 現代社会の多く、真実は同情票で決まる。 

 僕としては、まごうことなき真実の被害者は田中先生の眼鏡ただ一つ、という説を押したい。


『梅は食うとも|さね食うな、天神様が寝てござる』

 この言葉が示すとおり、青梅に毒性があるというのは有名な話だ。

 青梅の種の中にわずかにアミグダリン(青酸配糖体)という青酸と糖が結合した物質がある。果肉にはごく微量で、種にはその十~二十倍が含まれる。熟すにつれて分解されて消えるが、幼い青梅はまだ種も柔く割れやすい。食せば下痢や腹痛を起こす恐れがあり、注意しなくてはならない。かつて、僕はこの注意を怠った。

 なんとはなしに植物図鑑のウメの項を眺めながら思い起こす。外は朝から雨降りで、水底に沈んだような世界の中、センチメンタルになっているのかもしれない。

 僕と梅野は一人っ子で、互いの家を行き来したり、隣家の空き地で遊んだりした。よく梅の木の下でままごとをしたものだ。小学生になると体面を気にして外で連れ立つことは無くなったが、反対に家の中で一緒に過ごす時間は増えた。学校の友達には隠している共犯者めいた心地も手伝っていたかもしれない。

 我が家は古いなりに広く、内孫として可愛がられていた僕には立派な辞書やら図鑑が詰まった広い勉強部屋が与えられていた。調べ物学習にはうってつけで、梅野はよく入り浸っていたものだ。

 ところで、空き地の白梅は実が成ったことがない。多分、花粉が少ないか、自家不結実性の品種なのだろう。馴染みの花であるにも関わらず、僕はこの木が梅干しのウメの木と同じだとは長年気付かなかった(もちろん品種は違うだろうが)。小学二年生の時に図鑑を読み、初めてそれを理解した時は衝撃だった。それから実際に梅の実が成っているところを見てみたいと思っていた。といっても機会があれば程度の薄い気持ちで、本当に目の当たりにしたのは小学四年生になってからだ。確か、母方の田舎で梅畑に出くわしたのだった。

 その後、宿題をやりに勉強部屋を訪れていた梅野に梅の実を見たと報告した。前々からその薄い夢を話していたから。今考えれば、梅の実など果実酒や梅干し用に季節になればスーパーに売っている。多分、梅野は知りつつも、生暖かく見守ってくれていたに違いない。テストの点は良いが、ちょいちょい物知らずであるというギャップを面白がっていたのかもしれなかった。

 どんなだった? 母親が子どもに尋ねるような口調で問われ、僕は気分を害されるどころか意気揚々として答えた。梅は意外なほど硬かったと。まだ熟す前だから当然なのだろうが、当時の僕にすれば梅と言えば、我が家の食卓に供される祖母好みのふにゃりとした梅干しで、違いにびっくりしたと。色も黄緑色で産毛が生えていた。で、大きさは・・・・・・そこまで言って、視線で同じくらいの大きさの適当な代物を探した。指や数字センチで表すこともできたのだろうけど、咄嗟。

 あろうことか、僕は小学四年生のふくらみはじめの小さな小さな胸を指差したのだった。


 細い雨が絶え間なく降り続ける。六月の空気は重く、息苦しく、眠気を誘う。せっかくの日曜、雨は引きこもる理由を与えてくれる。

 しばらく待っていると、チャイムが鳴る。ほんの少し開いていたカーテンの隙間を完全に閉じ、学習机の椅子から腰を上げた。今日は、家族は皆出払っている。自分が応対しなくては、相手は待ちぼうけになってしまう。できるはずがない。

 玄関の引き戸を開ければ、尾ひれ背びれ胸びれまでもがひらひらつき今や南光中学〝ビッチクイーン〟の称号を得た幼馴染みが立っていた。無精なのか傘を差しておらず、髪が少し濡れている。初夏とは言え、まだ肌寒いだろうに白いノースリーブのワンピースを着ており、門から玄関までの小道に咲くあじさいの花と緑を背景に一枚絵のようだった。

「国語のプリント、貸してくれない?」

 学校に置いてきちゃって、彼女はうかがうように小首を傾げる。

 プリントだけを渡して玄関で梅野を帰すことは可能だったかもしれない。けれど、彼女の視線は玄関正面の階段の先へと注がれており、彼女がすることで僕が反対できることなんて何もない。なにせ、僕は、彼女に。

「プリンタでコピーしてくるよ」

「上がっていい?」

 微妙に行き違った会話だったが。

 僕は頷き、梅野を誰もいない自宅に上げた。


 胸を指差したことに関していいわけをすれば、その前日、学校で男女の第二次性徴についての授業があったせいだ。

 授業では精神年齢の幼い男子がワードの一つ一つに大はしゃぎするという風物詩もあったが、そういう輩はクラスで一人か二人。僕は珍しく授業にある種の感銘を受け、帰宅して勉強部屋の辞書や図鑑で調べて裏付けをとった。素知らぬ顔をしながら人一倍興味があり、有り体に言えば、ムッツリスケベだったのだ。感銘は未だ冷めやらず、無意識のまま、家族を除いて一番身近な異性のそれへと興味を向けていた。

 指先も引っ込められず硬直し、小四の僕らなりに気まずい空気が流れ、小四の僕には為す術が無かった。小四の幼馴染みはしかし踏み込んできた。

 ――くらべてみる?

 分水嶺。後年、その言葉を知ってからまさにこの時を指すのだと知る。

 当時の僕は、スケベ心よりも興味や探究心が勝っていた気がする。なにせ小四だ。でなければ、誘われて、誘いにのれるはずがない。

 触れた小さな膨らみは想像よりも硬く――想像の胸よりもという意味で青梅よりはずっと柔らかかった――、その印象は青梅とよく似ていた。


 久しぶりに起動させたプリンタは、驚くほどガタン、カタン、ガタタンっと不安気に鳴いた。湿気のせいで調子が悪いのか、再起動させる。息苦しく、くらくら、熱っぽく、調子が悪いのは僕も同様だが、こちらは気軽に再起動とはいかない。

 天候のせいで昼間でも部屋は暗い。そもそもカーテンを閉め切っている。薄暗い密室で二人きり。家族が出払っているのは、駐車スペースに自家用車が無かったことから察しているだろう。自転車があることで僕が引きこもっていたことも。

「なんで波多野と別れたの」

 久しぶりに訪れた勉強部屋の本棚を眺めていた梅野に訊く。本棚をとっくり見られるのは妙に気恥ずかしい。趣味に走った書籍を増やしていなかったか不安になり、つい口火を切ってしまった。梅野は白々しく、受験勉強に差し障るから、と言ってのける。

「告白する前からわかっていたことだろ」

「志望校、変えたの」

 続けて彼女は県下一とは言わないけれどかなりの進学校の名を挙げた。すなわち、僕と同じ志望校を。虚を突かれた思いだった。同時にやっぱり納得しきれず感情が泡立つ。

「・・・・・・いいやつだって言ったじゃないか」

「その前に、反対?って訊いたよ」

 ぐうの音も出ない。そして梅野は駄目押しをする。 

「わかっていて、差し出したんでしょ」

 僕は沈黙で肯定した。理解っていた。梅野はわざわざ僕の目の前で告白して、僕は異を唱えなかった。

 でも梅野だってそれは折り込み済みのはず。僕が、梅野がすることで反対できることなんて何もないと。なぜなら、僕は梅野に対して罪を犯していたから。


 小四だった僕は、好奇心とどまることなく、その後も幾度となく未熟な胸をさわらせてもらっていた。当初は一回一回お願いしていたけれど、そのうちに慣れと面倒臭さが厚顔無恥な顔をのぞかせた。二人きりになると許可無く硬い果実に手を伸ばすようになってしまい、行為は小五の冬まで続いた。

 特別気持ち良かったとか性的衝動が止まらなかったとかよりも、独占欲や支配欲や優越感の意味合いが強かったのだと思う。現に、僕は梅野がちょっと痛いと言いつつ堪えてくれるさまにそそられた変態なのだから。

 中学に入ってから、性犯罪が性欲よりも支配欲によるものだというネット上の記事を読み、戦慄した。自分がその予備軍どころか片足突っ込んでいたことに。

 同時に両足を下ろさずに済んだことに安堵したのだ。絶対にしてはならなかったのに。

 行為の終止符には、高い代償が支払われた。

 年末年始、我が家には大勢の親戚が集まり、下は幼稚園児から上は大学生までの従兄弟同士、大人数でカードゲームやボードゲームに興じる。この年末年始を兄弟のいない僕は「もういくつ寝ると」を地で行くほど楽しみにしており、祖父母に孫同然に可愛がられていた梅野も例年参加し、夜遅くまで遊んでいた。梅野の両親にとっても年中行事として定着しており、子ども同士で遊ばせて、忙しい年の瀬の買い出しや掃除に精を出していた。

 そして宴もたけなわの頃。僕はゲーム途中で梅野――波留ちゃんの不在に気付き、用足しのついでに彼女を探しに行った。トイレ、祖父母の部屋、台所、庭とめぼしい箇所を一巡しても見当たらず、自宅に帰ったのかと訝んでいると、二階に位置する勉強部屋から当時高校生の従兄弟が出てくるのを見掛けた。彼は受験生であり、大晦日の夜から元旦にかけてだけ我が家を訪れていたが、それでも時間が足りないとかで少しだけゲームに参加した後は提供された僕の勉強部屋に閉じこもっていたのだ。周囲も邪魔しては悪いと、勉強部屋にはあまり近付かなかった。

 従兄弟はなにやら乱暴な口調で呟きながら階段を降りていき、階下の廊下脇にいた僕には気付かない。なんとはなしに胸騒ぎがして勉強部屋へと急いだ。中は暗く、寒く、すすり泣くような音がする。照明のスイッチに手を伸ばしたが、つけないでと懇願の声がした。

 連れ込まれたのか、本でも取りに自ら入ったのかはわからない。机の下で泣き続ける彼女の説明は要領を得なかったが、状況が指し示す事は明白だった。「シュウにはさわらせてるくせに」――従兄弟はそう脅したと言う。

 シュウ、つまりは秀哉、僕の愛称だ。

 秀ちゃん、秀ちゃん、秀ちゃん、彼女は泣きじゃくっていたが、混乱した僕は慰めることも、大人に助けを求めることも、従兄弟を糾弾することもできなかった。

 愕然としていたのだ。僕がしていたことが見られていたということに。僕がしていたことにより引き起こされたことに。そして、僕がしていたことが波留ちゃんをこんなにも泣かす行為だったということに。

 小五の僕に、性を孕んだ行為が愛情の有無によって相手に及ぼす影響を変化させるなどわかるはずもない。今だって懐疑的だ。一生、この恐怖はつきまとう。

 かように、僕は被害者である波留ちゃんを差し置き、加害者側であるにも関わらず一人で勝手に傷つき焦りうろたえ、波多野のその何倍もヘタレだったのだ。

 そして、僕は波留ちゃんから距離を置くようになった。彼女の傷を放置したまま。できれば自然治癒してほしい、そして従兄弟の犯罪を――ひいては僕の罪を一生隠し続けてくれますようにと、実に身勝手な希いを胸に抱いて。率直に言って、逃げたのだ。

 それから三年半。

 この勉強部屋は犯行現場だ。

 僕はこの部屋で勉強し、向かいの二階部屋を観察し、自涜に耽った。

 そして梅野は再びこの部屋にやってきた。

 早過ぎる梅は、〝春〟と認識されぬまま散ってしまう。

 十歳の波留ちゃんの誘いが好意を示すものだったか、今更訊けるはずなく、意味もない。

 十五歳の梅野は現在進行形で憎み、恨み、怒り狂っている。親友たる波多野はその生け贄になった。僕は波多野を売った。

「岸和田さんになんて言われた?」

 理科室の事件からは半月経過していて、間の抜けた質問ではあったが興味があった。

「波多野くんを元気づけろって」

「なんて答えた?」

 一体どうすればスポーツマンシップに乗っ取り、公明正大、騎士道精神に溢れる女子部キャプテンを逆上させられるのか。

「私の代わりに波多野くんと寝てあげたらって。今ならつけこめるよって」

 アドバイス、悪びれず歌うように言う。

 室内ではあるが、天を仰ぎたい気分だった。いや、僕の〝天〟は目の前にいる。ノースリーブの肩を粟立たせ、湿気が多いにも関わらず髪をつやつやにブロウし、唇にリップを佩いた。だったら僕は梅野に跪けば良いのか。跪いて、懺悔して、美しさを讃え、それから。

「三崎はどうだった? 私が付き合っていて」

「どうって、」

 カーテンの隙間から見下ろした初々しく微笑ましく仲睦まじいバカップルが思い起こされる。精神衛生上、非常によろしくない光景だった。

 僕が知る限り、梅野は波多野を一度だけ自宅に上げていた。偶然、たまたま、まぐれで見掛けたのだ。その一回きりで思春期の中学生男子の妄想は見事に燃え上がった。

 それから僕は、自身に勉強部屋から向かいの家を覗き見ることを禁じた。彼女が波多野と別れるまで。〝私の代わりに〟――それは実績があると意味しているのか。

 三崎は〝秀ちゃん〟には戻らない。

 梅野は〝波留ちゃん〟には戻らない。

 十一歳で二人の関係は壊れた。十五の今、もう梅野を〝波留ちゃん〟として見られない。

 いっとう寒さが厳しい季節、誰より早く春を告げる花がある。人知れず咲き、人知れずこぼる・・・。爛漫の春を謳歌することなく。

 でも、何のために、どういう意図で、誰のために?

 雨は朝から降っていて、明日も明後日も雨模様だとニュースは告げていた。きっと今も雨は降り続いている。季節は梅雨。この時期に梅の実が実ることから名付けられたという。

 人知れず咲き、人知れずこぼる。もしかしたら、それは誰より早く、誰かのために実を結ぶためだとしたら。

 ――ならば、爛漫の春など要らない。その幼き実に毒があろうと構わない。ほかの男に盗られるぐらいなら、毒があるぐらいがちょうど良い。

 己がその誰かだと過信するには、あまりに材料が乏しく、危険で、分の悪い賭けであり、ついでに頭の悪いハーレム夢想だ。

 毒は飲み続ければ、耐性ができて効果が失われるのか。それとも蓄積されていつか致死量に達するのか。 

 迂闊に手出しできない。梅野が否を唱えれば僕は犯罪者となる。けれど離れることも赦されない。離れられもしない。

 ならば、いっそ一息に呷ってしまおうか。

 プリンタはまだ動かない。カーテンは閉まっている。そして、白く清純な花は密室に浮かび上がり、挑むようにこちらを睨んでいる。

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桜が咲く頃、梅こぼる 坂水 @sakamizu

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