十七話

 城下町はひどい有様だったらしい。ほぼ壊滅という状況だったようだ。しかし不幸中の幸いと言うべきか、王宮や王国軍など、国に関する建造物には被害がなく、施政が混乱する事態にまで陥ることはなかった。人的被害も出ず、王国は城下町の復興に集中して尽力することができていた。噂では、その復興に神が力を貸しているという。足りなかった資材が増えていたり、雨でぬかるんでいた土地が綺麗に整地されていたりと、不思議な出来事が頻繁に起きているらしい。神も、城下町の惨状に見て見ぬふりはできなかったのだろう。おかげで復興は順調に進んでいるようだが、それでもまだ道半ばだ。元の姿を取り戻すにはもう少し月日がかかることだろう。


「エゼル、薬草茶だ」


 私は先ほど作った、各種薬草を煎じた茶をコップに入れ、椅子に座るエゼルの口元へ運んだ。わずかに開けた口に茶を流し込むと、喉がごくりと鳴り、しっかりと飲んでくれた。当初は上手く飲むこともできず、こぼしたり吐き出したりしていたが、今は状況に慣れたのか、すんなりと飲めるようになっている。本当に、当初は自分の感情の置きどころがわからず、戸惑うばかりだった……。


 三ヶ月前、城下町が壊滅したという話が、ここアンリスにも届き始めた頃だった。ノーマンは私の娘を抱えるようにして、我が家に現れた。そして、邪神は消え、エゼルの命はもう何にも脅かされないと言った。彼は言ったことを果たし、娘を守ってくれたのだと知り、感謝して喜んだ。だが私はすぐに娘の異変に気付いた。触れても、呼びかけても、エゼルは無反応だった。それにノーマンは、自分が守り切れなかったと謝罪した。話を聞けば、エゼルをこんな状態にしたのは邪神だという。私が考えた方法でエゼルの命は守られ、さらには邪神を消すことまでできたものの、それに気付いた邪神は死の間際、エゼルの命を奪おうとしたらしい。だが邪神はノーマンの攻撃を受け、命を奪い切れなかった。そして命の代わりに、エゼルの感覚を奪ったというのだ。ノーマンが医者に診てもらったところ、目、耳、鼻、舌、皮膚……いわゆる人間の五官を失っていたという。その医者も原因はわからなかったようで、そうなるとやはり、邪神の力によるものとしか考えられなかった。


 娘を完全に救うことはできなかった。しかし、私はそれでも喜んだ。こうして目の前で生きてくれているだけで十分に思えたのだ。謝罪の言葉を繰り返すノーマンをねぎらい、娘の命を守り、こうして連れてきてくれたことに感謝した。だがノーマンはエゼルを助けたいと意気込んだ。その方法が得られるまで待っていてほしいと言い、我が家を後にした。


 そんなことを言われたが、私には期待する気持ちはなかった。別に五官を失おうとも、娘は娘なのだ。生きてさえいてくれれば私は幸せだった。それ以上を望むことはない。これまで自分の気持ちを押し殺し、厳しく接してきた分、これからは正直な気持ちでエゼルと向き合いたかった。親と子、そのごく自然な空気を今やっと感じられることに、私は小さな喜びを覚えながら、同じ屋根の下で久しぶりに生活を共にし始めた。


 しかし、日が経つにつれ、私は気持ちに迷いを生じさせていた。これで本当にいいのだろうかと。


 感覚のないエゼルは立つこともままならず、すべてに私が手を貸した。適度に体を動かしたほうがいいと思い、時折外へ散歩にも行かせた。その際、何かにつまずいては危ないと、家の周りの落ち葉や生い茂った雑草を全部取り除いた。おかげで窓から陽光が入り、部屋の中でも日光浴ができるようになった。エゼルは景色も明るさもわからないだろうが、日の当たる窓辺で椅子に座り、私が移動させるまでそこにいることが日課のようになっていった。


 ただ座っているだけでも、喉は渇くし腹は減る。エゼルはそういう要求は伝えてきてくれた。だが鼻と舌の感覚がないと、どんな好物を口に入れても無味無臭だ。おいしくもないものを食べ続けることは想像以上に苦痛のようだった。私が作った料理の半分も食べきれず、エゼルは少しずつ痩せていった。私も無理に食べさせることはできず、せめて健康は保たねばと、本に書かれていた薬草茶を毎日飲ませ続けていた。


 エゼルの世話をすることは苦ではない。一方的だが意思も私に伝わっている。何がしたいのか、何が欲しいのか、それに応えてやれるのは、かつてできなかった親の愛情表現を今しているようで、やりがいを感じられた。しかし心の隅で、娘はこれで幸せなのだろうかと、私は思ってしまった。何も感じられない世界で、私に世話をされて生きる毎日。自分で望んだわけでもない。不憫――頭に一瞬、そんな言葉が浮かんでいた。でも私はすぐにその言葉を振り払った。涙を流し、哀れむことが何になる。少量でもエゼルは毎日食べ、私に意思を伝えてきている。それはつまり生きることを諦めていない証だ。娘が諦めていないのに、父親が先に諦めるわけにはいかなかった。


 そんな私の脳裏にはノーマンの姿が浮かんだ。エゼルを助けたいと意気込み、言った言葉。彼もまた諦めてはいない。私はエゼルの感覚は一生戻らないものと無意識に思い込んでいたが、果たしてそうなのか。それは誰にも断言できないはずだ。最初は生きてさえいてくれれば十分に思えたが、今はノーマンに期待する自分がいる。彼の助けで、エゼルが体の自由を取り戻せた姿を夢想してみる。感覚は戻る。諦めなければ、必ず――そう強く信じ、私はノーマンが再び訪れてくれる時をこうして待っていた。


 そして、その時は不意にやってきた。


「アルバートさん! エゼルを治せます!」


 扉も叩かず、いきなり家に入ってきたノーマンは興奮気味にそう叫んだ。私は台所で夕食の調理をしていて、危うく包丁で指を切るところだった。


「……ノーマン、今、何て言った?」


「ですから、エゼルの体を治せるんです! 明日」


 私は包丁を置き、震え始めた手を押さえて聞いた。


「明日? 方法が、見つかったのか」


「はい。神の奇跡で治してもらえるそうです」


「神が? 邪神を信仰していた私達を、助けてくれるというのか」


「そこへ持っていくまで、なかなか苦労しましたよ……」


 ノーマンは苦笑いを見せると、経緯を話してくれた。


 王国内では、邪神を討ったのは神々の力だと思われているらしく、ノーマンはまずそこから話を始めたという。エゼルを逃がした理由、父親の私が考えた計画、そしてそれが邪神を消したという事実……それらを話し、エゼルが果たした功績をわかってもらった上で、神の力を借りて治してもらいたいと請うたという。しかし禁じられた邪神信仰に、監獄棟から逃亡もしており、エゼルは罪人扱いされ、ノーマンも一時は拘束されそうだったという。だが預言師様のお力でどうにか免れ、ノーマンは粘り強く嘆願を続けたそうだ。けれど城下町の復興で王宮内は忙しく、彼の嘆願が後回しにされたことで、今日まで時間がかかってしまったという。一部ではまだエゼルの功績を認めない者もいるようだが、預言師様、そして国王陛下のご判断で、カーラムリアにうかがいを立て、晴れて神の奇跡をいただけることになったということだった。


「明日の朝、王宮から迎えが来ます。俺も付いて行きますから、エゼルと共に明日、行きましょう」


「治るにしても、何年、何十年も先だと思っていた。ノーマン、君には感謝するばかりだ」


「本当に感謝されるべきはアルバートさんですよ。邪神の企みを阻止できたのは、あなたが考え、手を打ってくれたからです」


「それは単なる偶然だ。偶然上手くいっただけだ。エゼルには辛い思いをさせてきてしまった……」


 机の横でじっと椅子に座るエゼルは、何も知らずに無表情でうつむいていた。だがその無表情も、きっと明日には喜びで一変することだろう。


「……礼と言っては何だが、よかったら夕食を食べていってくれ。大した出来ではないが」


「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」


 私とエゼル、ノーマンの三人で、この日は夕食を食べた。自分の手料理ながら、これほど嬉しくて心地よい、おいしい味は、後にも先にもないように思えた。明日、王宮へ行けば、ようやく終わるのだ。邪神との長年の闘いが……。


 翌日の朝、やってきた迎えの馬車にエゼルと共に乗り込み、私達は王宮へと向かった。その途中、窓からは城下町の様子が見えた。まだ仮設の小屋が多く、以前の街並みには程遠かったが、至る所で建物が建てられ、人々は活気に満ち溢れていた。諦めない者には希望が残り、やがて喜びに変わるのだ。それは誰でも同じことなのかもしれない。


 王宮に着くと、私達はノーマンの先導である部屋に案内された。重々しい扉を開けると、そこは円形の部屋で、中にはすでに人影があった。


「ホリオーク様、お連れしました」


 ノーマンが会釈したローブ姿の相手を見て、私は初めてその人が預言師なのだと知った。


「初めまして。私は預言師を務めているホリオークです」


「エゼルの父親の、アルバート・ライトです」


 緊張しながら名乗った私に預言師様は微笑みを見せた。


「あなたがお父上ですか。まずは、あなたの素晴らしい行動に感謝を述べさせてください」


「おやめください。私なんかに礼など……」


「すべて聞いています。スタウト君と、神々から」


「神々……?」


「ええ。あの日、神々はすべてをご覧になられていたそうです。スタウト君の行い……すなわちあなたの意図も、そこで理解したということです。おかげで邪神は新たな体を得ずに消滅しました。あなたはたった一つの知恵で、トラッドリアとカーラムリア、二つの世界の危機を救ってくれたのです」


「私は娘の命を救うことしか考えていませんでした。世界がどうとか、そういったことまでは何も……」


「そこまでの考えがなかったとしても、あなたのしたことは全王国民から感謝されるべきことです」


 自分では他人に喜ばれるようなことをしたつもりはなく、こう褒められると、我ながら不思議で、心がむずがゆかった。


 すると預言師様はふと背後を向くと、そこにあった円い鏡を見つめて言った。


「……神々が、あなたにおっしゃりたいことがあるそうなので、私がそのお言葉を伝えます」


 預言師様は鏡をじっと見つめ、しばらく黙り込むと、それからおもむろに口を開いた。


「……我々はいくつも過ちを犯しました。一つはクロメアを逃がし、トラッドリアへ渡らせてしまったこと。もう一つは、クロメアの気配が付いたあなたの娘を殺すように指示をしたことです」


 え? 娘にそんな指示が――私は衝撃を受けつつ、言葉を聞き続けた。


「あの時はお互いの世界のためにも、そうする他になかったのです。けれど今となってはそれも言い訳に過ぎません。結果も、その判断が間違いだったと出ています。もし指示通りに行われていたら、今もクロメアの脅威が続いていたことでしょう。我々は、あなた方に取り返しのつかないことをしようとしたのです。その過ちを、どうか詫びさせてください」


 伝える預言師様が私を見て、思わず戸惑った。信仰の対象である神に謝られるなんて、人間の私は一体どうしたらいいのか……。


「……詫びなど、必要ありません。確かに、そんな指示があったことには驚きましたが、それは神のご判断であり、娘はこうして生きていますから……過ちとおっしゃってくださった今、私に不満や怒りは微塵もありません」


 預言師様は再び鏡を見つめた。


「……寛容な心と言葉に、我々は救われます。そんなあなた方に、こちらからできることを、どうかやらせてください。これは贖罪でもありますが、我々は義務だと思っています――スタウト君、椅子を」


 預言師様に言われたノーマンは、隅に置かれていた椅子を私の側まで持ってきた。


「さあ、娘さんをそこへ」


 促され、私はエゼルをゆっくりと椅子に座らせた。それを見届けた預言師様は鏡に顔を向ける。


「……我々は本来、人間の怪我や病を治すことはしません。なぜならそれも、その者の運命の一部と考えるからです。ですがその娘に起きたことはそうとは言えません。クロメアが力で介入し、運命をねじ曲げ、起きたことです。我々は同じカーラムリアに住む者として、その責任を取り、彼女の状態を元に戻します……再生の神ニューアが、お力を与えてくださるそうです」


「本当に、本当に娘の感覚は戻るんですね」


「それが神の奇跡というものです。……柔らかく、温かい気配を感じます。しばらく待ちましょう」


 私はエゼルに寄り添い、その様子を見つめ続けた。預言師様は温かな気配を感じるというが、私には何の変化も感じられない。見た目にも、エゼルはうつむいたままで動かず、感覚が戻っているようには見えない。いつ戻るのか……いつ私の目を見てくれるのか……。


「……再生を終えたそうです」


 ほんの一、二分ほどでそう預言師様が言い、私はエゼルを凝視した。顔は無表情で、前と何も変わっていないようだが……。


「感覚を完全に取り戻すには少々時間がかかるかもしれませんが、彼女は間違いなく元に戻るそうです。……ニューア様、そして皆様も、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました」


「……ありがとう、ございます……」


 預言師様につられ、私も見えない神に向けて礼を言ったものの、エゼルに変化が見えない中で言っても、心は追い付いていかなかった。


「大丈夫です。エゼルはじき、感覚を取り戻しますよ」


 ノーマンに言われるが、この目でそれを見ない限り、神のお力と言えども私はまだ安心できなかった。


 預言師様と別れた私達は別の部屋に案内され、そこでエゼルの感覚が戻るのを待つことになった。正午を過ぎ、給仕が昼食を持ってきてくれたが、私はまだ食事をする気にはなれなかった。そんなことより、エゼルの様子ばかりが気になる。


「神の奇跡を疑っているんですか?」


 壁に寄りかかり、腕を組んだ姿勢でノーマンが聞いてきた。


「疑ってはいないが、どうにも不安で……」


「気持ちはわかりますが、焦っても仕方がありません。お茶でも飲んで落ち着いて――」


 その時、エゼルがわずかに身じろぎした。そして、ゆっくりと顔を上げ始めた。


「エゼル、感覚が、戻ったか」


 私は座るエゼルの前に膝を付き、その顔をのぞき込んだ。


「エゼル、俺の声は聞こえるか?」


 ノーマンも隣にやってきて声をかけた。


「う……」


 唇が動き、小さな声が漏れた。


「アルバートさん、手を握って、呼んでみてください」


 言われて私はエゼルの手を強く握り、顔を見ながら呼んだ。


「エゼル、お父さんだ。今手を握っている。わかるか?」


 すると、これまで重そうだったまぶたが見開くように上がった。そこから見えた瞳は、焦点を合わせようと動き、そして私の目を見つけると、しっかりととらえた。


「……あ……あー、あー……聞こえる……それに見えるわ……!」


 これまでは何の力も入っていなかったエゼルの手が、今は私の手を強く握り返していた。


「お父さん……? 随分、痩せたのね」


「よかった、エゼル……!」


 私は娘の体を思い切り抱き締めた。痩せてしまったのはエゼルのほうだ。こんなに細くなってしまって……大変な思いをさせてしまった。


「ちょっと、痛いわ」


「ああ、悪かった。嬉しくてな。つい……」


 身を離すと、エゼルはわずかに笑みを浮かべた。


「お父さんが治してくれたの?」


「私ではないよ。頑張ってくれたのはすべてノーマンだ」


 隣に立つノーマンを見ると、その表情は安堵に満ちていた。


「俺だけじゃない。頑張ったのはアルバートさんとエゼルも同じだ」


「私は真っ暗な静寂の中で、ただお腹が空いたとか、疲れたとか、要望を言っていただけ。頑張るようなことはしていないわ。でも何も感じない中でも、いつも側にいてくれる存在がいることはわかっていたわ。誰なのかはわからなかったけれど」


「じゃあお父さんにしっかり礼を言うんだな。三ヶ月間、付きっきりで世話をしてくれていたんだから」


 これにエゼルの目が丸くなった。


「三ヶ月……あれから、それだけ経っていたんだ。何も感じないと時間もよくわからなくて……」


 私は娘に笑いかけた。


「仕方のないことだ。だがお前はその時間、孤独でいながらもそれに屈せず生きてくれた。私はそれだけで十分だよ」


「………」


 エゼルの表情はなぜかすぐれないものだった。少し疲れさせてしまっただろうか。


「まだ感覚が戻ったばかりだ。慣れるまで休んでいても――」


「違うの。体は大丈夫だけど、気になることが……」


 そう言うとエゼルはノーマンに目を向けた。


「あの後、クロメア様はどうなったの?」


 ノーマンと私は、一瞬顔を見合わせた。エゼルは邪神の結末を知らずに感覚を奪われたのか……。聞かれたノーマンは静かに答えた。


「邪神はもう、お前から離れた。二度と現れることはない」


「二度と? でもクロメア様は私の体を――」


「消えたんだ。消滅したんだ。だから二度と現れない。お前の体が乗っ取られることもない」


 エゼルは首をかしげていた。


「どういうこと? 私はクロメア様と一心同体に生きられると言われたのに……消滅って、一体何が起きたっていうの?」


 隠してきた真実を話す時が、ついに来たようだ――私はエゼルの肩に手を置き、言った。


「いいかエゼル、私の話すことを聞くんだ。すべてを説明する」


 生い立ち、信仰、そして私が長年隠していた意図……それらを順番にエゼルに話して聞かせた。すべてはエゼルの命を守るためであり、そこには私の嘘があったことを、正直に伝えた。二十三年間、私はエゼルを騙してきたのだ。その上で厳しく接し、好きなこともさせず様々なことを強いてきた。それに憤るのは当然の感情だろう。二十三年もの時間、何も知らずに言うことを聞かされ続けてきたのだから。私はその怒りを正面から受け止めるつもりだった。騙しておきながら、言い訳など言えるはずもない。一体どんな顔で私を見るだろうか――覚悟をしつつ、すべてを話して聞かせ終えた時だった。


「……私のせい、だったの?」


 今にも震えそうな弱い声で、エゼルは言った。


「クロメア様は、私が深く信仰してしまったから、だから消滅してしまった……」


「それを言うなら、信仰を強いた私が原因になる。だがもうそんなことを気にする必要はないんだ。邪神はお前を使って何か悪さを――」


「やめてっ! クロメア様はそんなお方じゃないわ!」


 突然の怒鳴り声に、私もノーマンも呆然としてしまった。


「……おいエゼル、邪神はこの世界を乱そうとしたんだ。お前の思うような神じゃない」


「何も感じない間、真っ暗な中で私はクロメア様に祈りを捧げ続けていたの。いつまで続くのかわからない独りの世界で、クロメア様だけが心を支えてくださった。私を正常な場に留めてくださっていたの!」


「エゼル、それは違う。お前を支えていたのはアルバートさんだ。邪神はもういないんだよ。祈りはどこにも届いちゃいない」


「そんなのわからない。消滅なんて、誰かが勝手に決めた嘘よ。……お父さん、クロメア様が素晴らしい女神様だと教えてくれたじゃない。どうして今さら違うだなんて言うの?」


 エゼルは怒りを見せていた。だが、私が想像したものとは違う怒りだ……。


「……お前の信仰する神は、どこにも存在しない。私が創った、かりそめの神なんだ。わかってくれ。私はお前に嘘をつき、騙していたんだ。お前の中のクロメアは、全部幻なんだ」


「違うわ! クロメア様は確かにいた。私の目の前にいたわ! 悪さなんてしていないし、消滅もしていない。そんな話、信じられるわけない!」


 頭をぶんぶんと振り、エゼルは私達の話を受け入れようとしなかった。その後もノーマンが根気強く説明をしたが、エゼルの心を変えることはとうとうできなかった。


 私は娘を守るため、一計を案じた。そしてそれは成功した。だが成功しすぎてしまったのだ。その心はすでにいない邪神にとらわれ、私との間に見えない壁を作り始めていた。これまで同じ神を信仰していたはずが、突然手のひらを返され、裏切られたように感じたのかもしれない。しかし真実を変えることはできないのだ。長年信じていたものが嘘だと言われても、素直に受け入れることは難しいだろう。だがすぐでなくてもいい。時間がかかってもいい。邪神にとらわれた心を、少しずつでも取り戻せれば……。闘いは終わったと思っていたが、まだそうでなかったのだと、私は気付かされた。


 感覚が戻った後もエゼルは私との生活を続けていた。兵士の仕事にはまだ復帰できていなかったが、身の周りの仕事は積極的にこなしてくれていた。しかしその様子にはよそよそしさを感じざるを得なかった。会話こそするが、目は合わさず、話も必要最低限で終わる。家事を終えて一休みしているエゼルは、決まって物思いにふけり、沈んだ表情を浮かべていた。その姿だけで、何を考えているのかが手に取るようにわかった。そして、どうしたいのかも……。


 真夜中、玄関のほうから物音が聞こえ、私はベッドから下りてすぐに向かった。


「行くのか」


 声をかけると、扉を開けて今まさに出ていこうとしていたエゼルが振り返った。


「……お願いだから、止めないで」


 泣いているような、微笑んでいるような、複雑な表情が月明かりに照らされる。


「ああ。止めはしない」


 これにエゼルは驚いたのか、瞠目した。


「お前が最近、荷作りしていたのは知っていた。だからこうなることは薄々予想できていたよ」


 一週間ほど前からだろうか。エゼルの部屋が妙に整頓されていることに気付いた。その片隅には、今エゼルが肩にかけている布のかばんがあり、一日ごとにそれは膨らんでいった。これがエゼルの意志なのだと私は察していた。


「どこへ行って、何をするつもりなんだ」


「何も決めてはいないわ……でも、ここにはいられない。辛すぎて……」


「家を出ても、辛さは変わらないし、真実も変わらない。邪神はもう――」


「わかっている。信じたくなくても、それが現実だってことは私も……。時間が欲しいの。現実を受け入れられるだけの時間が、今は必要なの」


 二十三年間信じてきたものをまっさらにするのだ。嘘を教えてきた者ができることは、その背中を押し出してやることくらいだ。


「私にお前を止める資格はない。思う通りにすればいい。だが、条件がある」


 私は扉の外へ目をやった。


「一人ではなく、二人で行くんだ」


 エゼルが私の視線を追い、外を見た。


「……ノーマン!」


 驚くエゼルにノーマンはわずかに笑って見せた。


「お前のせいで寝不足だ」


「どうして、ここに……」


「頼まれてね。でも半分は俺の意思でもあるが」


 エゼルの荷作りを知ってから、私はそれをノーマンに相談していた。家を出ることを予想していた私は、無理を承知で彼に付き添ってもらうことを頼んだのだ。それを快く引き受けてくれたノーマンは、エゼルがいつ家を出てもいいようにと、宿に泊まりながらここ数日間、行動を見張ってくれていた。


「護衛任務はどうするの? 無断で休んだりしたら――」


「除隊してきた」


「……嘘でしょう? 私なんかのためにやめるなんて……」


「だが認められなかった。光栄なことにホリオーク様から引き止められてね。今はとりあえず休職扱いになっている。でもまあ、そんなことは関係ない。俺は除隊したつもりでお前に付いていく。女の一人旅じゃあまりに危なっかしいからな」


「ホリオーク様じゃなく、私の護衛をするっていうの?」


「俺はそう決めたし、アルバートさんもそれを望んでいる」


 ノーマンの視線がこちらを向き、私は軽くうなずいた。


「お前を守り、救ってくれた彼以上に信用できる者はいない。そうだろう?」


「ええ……その通りよ」


 私は戸惑うエゼルを見つめ、言った。


「現実と自分の心、その二つが合わさるまで、ゆっくり時間をかければいい。だが私は、二度とお前を失いたくはない。この条件だけは譲ることはできない」


「お父さん……」


 エゼルは私とノーマンの顔を交互に見ると、迷いの消えた表情を浮かべた。


「わかったわ……私のわがままなのに、ありがとう」


 そう言うとエゼルは私を抱き締めた。


「すべて私のせいなんだ。恨んでくれても構わない」


「恨まない。絶対に……そういう心を、取り戻してくる」


 離れたエゼルは微笑みを見せた。


「それじゃあ、行くわ」


「ああ。必ず帰ってこい。またその顔を見せてくれ。どれだけ時間がかかろうとも、お父さんはお前をここでずっと待っているぞ」


「うん、また、戻ってくるから……!」


 惜しむように、だが花が咲いたような笑顔を残して、エゼルはノーマンと共に旅立っていった。月夜の道を二つの並んだ影が遠ざかっていく。それを見送る私に不安はなかった。ノーマンの存在も大きいが、何よりもあの笑顔だ。厳しくしてきたせいか、エゼルが心から笑ったところを私は見たことがない。だが最後にエゼルは本物の笑顔を見せてくれた。希望を感じさせる、初めて見る笑顔――見えない邪神との闘いは、そう遠くないうちに終結すると、私は確信して待つことができそうだった。

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エゼルの心 柏木椎菜 @shiina_kswg

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