師走の空

登崎萩子

ある年末のこと

 師走の夕方で、買い物をしている人はどこかせわしない。日が傾き冷たい風も吹く。山口は寒さに身を縮めた。

「よろしくお願いします」

 ティッシュ配りはよくやるが、やはり冬と夏はつらい。立ちっぱなしでただひたすら配る。夏は熱中症が怖いが、冬はただ厚着をしてカイロを貼って耐えるしかない。

 

 広告を打つのは、余裕があるんだろう。キャンペーン中といっても、山口には関係のないものだ。マンションなんてとてもじゃないが買えない。

 駅に向かうスーツの人や、子供連れなど、いかにもな客層に見える人に配る。疲れている夕方は通行人も無表情になって、笑顔はない。朝と夕方、決まった時間に個数を配る。

 

 空いた手に何も考えずに次を持つ。ただ、ぼうっとしていても、手にあるティッシュは見知らぬ人の手に渡っていく。山口が無意識のうちに、タイミングよく差し出している訳ではない。何故か受け取ってもらえるのだった。


 天気が悪いので、人の流れは早かった。視界の端に誰かしゃがみ込むのが映る。山口は急病人かと思い、ちらっと視線をやる。

 若い女がしゃがみ込んでいた。薄いコートを着て、髪は染めていなかった。

 山口が近寄って声をかけようか迷っていると、女が急に泣き始めた。わあーとか、あーと、言葉になっていなかった。周囲はぎょっとして足を止める人もいたが、そのまま歩き去る人がほとんどだった。

 子連れの女が遠巻きに見ていたが、声をかけようと近づく。

「あの、大丈夫ですか」

「大丈夫です」

 女は意外にもしっかりしているようだった。酔っ払いかと思うが、服装は普通で連れもいない。


 片手にティッシュを持ったまま山口は突っ立っていた。ロングのダウンコートを着ているが、冬はそれでも寒い。

 女は座り込んで泣いているが、寒くないのか。親子連れが離れていっても、女は相変わらず山口の数歩先で泣いている。

 しばらくすると、地面に寝そべる。いくらなんでも、それは汚いだろう。酔っ払ってもそこまではしない、というよりも、山口は我を忘れるほど深酒をしたことがなかった。


 先程彼女が断ったせいで、誰も声をかけようというものはいなかった。

 ティッシュを配っている身としては、人が避けるようにして歩いていくので、困ると言えば困る。

「もし良かったら、これ使ってください」

 山口が声をかけると、女は顔を上げた。鼻水と、涙が顔を濡らしていた。それは山口にとって、見慣れたものだ。

 それよりも、彼女の顔に見覚えがあることの方が気になった。黒髪で化粧が薄い。顔立ちは美人とはいえないまでも、不細工ではなかった。

 山口は、必死に思い出そうとするが、どこで会ったかは、思い出せない。

「それいいんですか」

 女が尋ねたので、山口は素直に答えた。

「いいですよ」

 女は受け取ると、すぐに袋から取り出して、鼻をかむ。豪快な音が響く。

「もう一ついりますか」

 山口が段ボールから持ってきたところで、後ろから声をかけられる。

「ちょっといいですか」

 ちょっとというのは大抵よくない時にかけられるものだった。ナンパしかり、職質しかり。

 

 案の定警官だった。山口と同年代と年上の二人組。若い方はやけに背が高い。

「女の人が泣いているって聞いたんだけど、君知り合い?」

 俺はあんたの部下でも何でもないのに君はないだろうと思うが、山口は息を吐いて間を置く。

「全然知りませんよ。別に何もありません。聞いてもらえれば分かります」

 善意でティッシュをあげたのは間違いだったかもしれない。

 年下の背の高い方が、女の脇にしゃがみ込んで事情を聞く。女の方は驚いたように目を見開いてポケットティッシュを広げて鼻にあてていた。

「他に見ていた人はいませんかね」

 疑っているんだろうが、山口は何もしていない。

「さあ、見て見ぬふりして通り過ぎていく人しかいませんでしたよ。それよりも、これ配らないと帰れないんでいいですか」

 山口が平静そのもので、話しぶりにおかしなところがないので、警官が引き下がる。女は相変わらずしゃがみ込んでいた。


 


 どうして、母親が自分の電話番号を探し出すのか、分からなかった。それ以上に、パートの娘にお金の話をする神経が分からない。

 奥田はうつむいて帰宅しようと、駅方面へ歩いていた。頭の中ではぐるぐると一つの考えが渦巻いていた。

 パートで働いていて、貯金は少ない。将来自分は暮らしていけるのだろうか。

世間は、クリスマスや年末の用意をしているのに、自分はただ働いて、家で寝るだけ。頼る家族も友人もなく、単調な毎日を送る。

 もう、空想する夢見がちな年代は終わった。三十路目前だ。

 同じくレジのパートをしているのはおばさんばかりで、若い人も既婚ばかりだ。こんな生活はいつかひどい終わり方をするのではないかと怖かった。


 最近は何を見てもつまらない。美味しいと思うこともない。ただ栄養を取って機械的に働くだけだった。

 コートは新調していない。髪もぼさぼさになっていて、通りは日常を繰り返す。

ティッシュ配りの人は、淡々と配っていた。親子連れは幸せそうに見え、高齢者は自分よりはましに見えた。自分といえば、先の見えない暮らししか浮かばない。

家族から逃げるようにして暮らすだけだった。

 積み重なったものが、ついに限界を超え、行き場を失った。立っているだけでも疲れ、空腹も重なって座り込んだ。

 仕事をした後は、とにかく食べて寝るしかなかった。そうでなければ、どんな人だって前に進めない。


 アスファルトの上は冷え込みが一層ひどく、足が痛いくらいだった。自然と涙が流れる。誰も奥田の様子に気が付かない。胸にたまった苦しさは消えることなく増え続ける。

 胃は痛むし、寒気までする。心細さも加わって、奥田はついに声を上げて泣き始めた。

 自分でも馬鹿げている、こんなことしても何も変わらない、それは分かっていた。が、奥田はやめなかった。たとえ、職場の同僚に見られようとも、どうでもいい。

 子どものように、悲しくて泣くなんて今までやったことはなかった。

 鼻水が流れてくる。嫌な感覚はさらに奥田を落ち込ませた。こんな姿をさらした上、拭くものがない事に気づく。

 通行人の中には心配して声をかけてくれる人もいたが、それは何の慰めにもならなかった。それはあっても一時的なもので、これから生きていく、長い時間では支えにはならない。

「つらい」

 たった一言、小さくこぼす。家があって仕事もあれば充分なのかもしれない。単に周囲と比べるから。より上を望んでいるから辛いのかもしれない。

 誰かと親しくして季節の行事を楽しみ、年を取っていくことを望んで何が悪い。


 子どものように、地面に倒れるように寝転んだ。

「もし良かったら、これ使ってください」

 無料のポケットティッシュを差し出してきた若い男を見て、一瞬で気づく。いつもお店に来る人。

 奥田が働いているスーパーに来る男だった。とはいえ、顔を知っているだけで、名前も何をしているかも知らない。

 

 男はたいてい、もやしや豆腐といった商品を買っていく。きっと独り暮らしだと奥田は思っていた。自分と同じような。

「それいいんですか」

 彼の仕事の邪魔になっていたと気づき、今までとは違った汗が出る。

「いいですよ」

 まるで「箸を一膳下さい」と言うのと同じ口調だった。男は奥田の姿を見ても、何とも思っていないようだった。

「もう一ついりますか」

 男の口調は冷たい訳でも、丁寧な訳でもなく、自然だった。なぜ彼が平然としているのかは分からなかった。男の後ろから、警察官が現れる。

 何でもかんでもクレーム扱いするんだ。

 面倒なことは、企業、役所、警察、誰かにやらせておこうという思いが透けて見えた。

 他人にやらせればいいというやつは、なぜか奥田の中では金持ちの中高年のイメージだった。実際正しいかではなく、奥田はそう思う。


 他人の事なんて放っとけばいいのに。

 誰かに心配されたいという気持ちはあったが、迷惑な酔っ払い程度と言われたようで面白くなかった。酔っ払えればどんなにいいか。

 奥田は酔っ払いもクレーマーも嫌いだった。




 山口が買い物をするのは夕方だった。見切り品を買うためだ。そうでなければ、少ない給料ではやっていけない。ポイントをためること、予算内で買うことは当然だった。

 同じようなものを買って、家に帰りまた働く。同じことの繰り返しで、何かは起きない。

「お待たせしました」

 レジの言葉はマニュアルでしかないが、いつも通っている人に対しては、少し違う時もあった。彼女は確かに昨日道の往来で泣いていた。


 そうか、それでどこかで見たと思ったんだ。

 ようやく謎が解けてすっきりとする。いつものように、商品のバーコードを読み取り、合計金額を伝えてきた。

 クレジット払いは、得かもしれないがカードを持ちたくなかった。チャージした分だけ使える電子マネーは良かった。

「あの、昨日はありがとうございました」

 彼女は小声で話しかけてきた。あんなことがあったのに話しかけてきたので驚く。

「何かあったんですか」

 レジが混んでいないので、つい話しかけてしまう。こんな個人的なことを聞いても答えないだろう。でも、女は泣いていた。

「全然何もなかったんです。でも、何もないから疲れるみたいです」

 営業スマイルの裏には昨日の彼女がいるんだろう。山口は何も言わなかった。


「お酒は飲まないんですか?」

 彼女は引きつった笑顔で尋ねた。

 山口は会計済みの商品が入ったカゴを持ったまま固まる。顔は確かに強張っているので、女が慌てて頭を下げる。

「申し訳ありませんでした。個人的なことをお聞きするなんて失礼ですよね」

 山口が雑にカゴを台におく。両手で顔をなでる様は、悪夢にうなされた人のようだった。

「質問自体は悪くないんで。問題は酒を飲めて当然ってやつ」

 ただ女は言うことをじっと聞いていた。売り場や、他のレジ係が二人の様子を遠目に見ていたが、誰かが近づいてくることはなかった。

「俺は酒が嫌いなんだ」

 言い方は弱かったが、嫌悪感は強い。

 ただの食わず嫌いや「納豆は嫌いだ」などという苦手ともまた違う様子だった。

「申し訳ありませんでした」

「あのさ、なんでそんなこと聞いたの?」

 同じようにただ謝るだけの女とは対照的で、山口は先日に近い態度に戻っていた。

 山口の買っている物は、野菜や豆腐で調理用の食材が多かった。

 嗜好品はほとんど買わない。きっとレジ係なので何を買っているのか、想像がついたのだろう。

「あの、私も全然飲まないんですが、男の方は飲む方が多いので」

「あっそ。じゃあ今度二人で飲みに行こうか」

 山口はふざけているのか、半分笑っていた。


 女はいまだに固まっていた。どう返答すればいいのか考えているようだったが「そうですね」とか「そんな冗談ですよね」と、適当に返せばいいのだ。それが出来ないから、彼女はつらくなるんだろう。

「適当にかわすか、断るもんですよ」

 親が子に説教するような言い方をする。

 山口は、仕事の疲れがさらに増してくる。それでも、いつも同じ店で買い物をするのは便利だった。何も考えず、いつも同じように生活するのは楽である。

「ありがとうございました」

 マニュアル通り送り出した彼女は、またいつものように次の客の商品をレジに通す。




 奥田は何事もなかったかのように手を動かした。年末だろうが連休だろうが、同じペースで自分の仕事をするだけだった。

 時給で働いているのだから、人数は関係ない。背の高いスーツ姿の男が並ぶ。

 カゴの中にはチョコレート菓子が入っている。洋酒入り、アーモンドチョコ。個包装のお徳用のチョコレートは一人で食べる量ではない。食玩付きのチョコレートもあった。

 男はスーツの内ポケットからカードを出して支払う。まるで財布を持っていないように見える。

 

 領収書を切れと言ってくる客は面倒だった。忘れていて、後で領収書をくれというやつが嫌なので一応聞いてみる。

「あの、領収証は」

 男は一拍おいて無表情のまま口にする。

「いえ、必要ありません」

 口調は淡々としていたが、奥田に一瞥をやると話しかけてくる。

「これ、差し上げます」

 猫のキャラクターのおまけが付いたチョコレートだった。

 従業員に物を渡すのは、高齢の人が多い。孫に対するような気持なのだろう。  若い人では皆無だった。いたとしても、不審者扱いされる。

「頂けません。決まりなので」

 店の規則では断ることになっていた。男の考えが全く分からないので、不気味ですらあった。

「少し早いけど、お年玉です」

 つい受け取ってしまう。奥田は同年代であろう異性にお年玉をもらったのは初めてだった。

 頭の片隅に男の顔が記憶されていた。それなのに。どこかで会っているはずなのに思い出せなかった。




 クリスマスの飾りがまぶしい。赤や緑の装飾で、季節を思い出す。もうそんな時期か。 

 スーパーの店頭には干支の置物もあった。島崎は特に自分では買おうとは思わなかった。が、白の張り子に、赤色で耳やひげを書いたネズミは愛らしい。その置物は、小さな瞳で道行く人を眺めていた。


 島崎は無表情で、花屋の前に立つ。女が通りかかると、足を止める。同時に島崎が振り向き視線を合わせた。

「何か用ですか」

 さっき、チョコレートを渡したのは気まぐれだ。女の仕事がこんなに早く終わるのだったら、渡さなかった。

「お花って選ぶの大変ですよね」

 女の言葉は、接客の時とは大違いだった。小さくて聞き取るのに苦労した。

「別に買うつもりはないです」

  本当のことだ。花を買っても、島崎の母は目を覚ますことはない。女が立ち去ろうとする。

「お見舞いには、花以外には何かありませんか」

 聞いたところで何の意味もないはずだった。道端で泣くような女に聞くなんて、どうかしてるとしか言いようがなかった。

「私はお見舞いに行ったことはないんですが、相手の方にもよると思います。食べ物が難しい方もいるって聞きます」

 女は島崎の目を見て言った。寒さのせいか、驚くほど顔が白かった。

「病室から出られない方らしいです」

 島崎はまるで他人のことのように言った。

「旅行に行きたいんですけど、お金がないんです。だから絵かな。きれいな絵か写真が欲しいです」

 女は、髪に触りながら答えた。

「絵もずいぶん高価だと思います」

 島崎には、この女が何を考えているのか全く分からなかった。先日は、道端で泣きわめく。今日は、会計でお菓子をくれた客の質問に真面目に答える。

「本物じゃなくて、ポストカードとかカレンダーについてるのでいいんです」

 思ってもみなかった。そもそも、目を覚ますことのない人の見舞いに、相応しくないだろう。

「行けなくてもいいんです。夢なんですから」

 今度こそ女は立ち去った。島崎は長く白い息を吐いた。

「本屋に売ってるかな」

 そう言って夜の街へ消えた。


 夕暮れの空は暗かった。街灯が少ない地区のせいで、余計に闇が訪れるのは早かった。


 三階建ての木造アパートは山口にとって、確かに城と呼べるものだった。

 薄いドアを叩く音は部屋中に響き渡り、背中に伝わる振動は大きい。が、どこかで冷めた自分もいた。どうせこうなるんだ。どんなことをしても逃げられない。

「おい。いるのは分かってるんだ。出て来いよ」

 これが自分の父親とは思いたくなかった。

「明子はどうした?」


 もう死んだ。その人はとっくの昔に死んだ。

 あの人は、こいつがいない時によく泣いていた。女の涙ほど、嫌いなものはない。

 一枚の板を押さえて、この災難が過ぎるのを待つしかない。金がなくて困っているなら他をあたってくれ。

 もしかしたら「俺が帰ってくるまで」待つつもりか。そもそも、どうして居場所を知られたのか心当たりがなかった。


 酒を飲んでは、妻と息子を殴るしか能がない男にそんなことができるのか。


 母は体が弱ってからは、ほとんど出歩くことはなかった。家のことをやって、時々思い出したように散歩をするくらいだった。山口は家賃が安い所を探して、ようやくここを見つけた。


 家をぶち壊されるのは御免だ。

「お前ら、俺のことを馬鹿にしてんのか」

 怒鳴られる恐怖は、体と心を支配する。体は全くいうことを聞かず、勝手に震えだす。汗も耳鳴りもすべて体が反応していた。ただ思考だけが止まっていた。

もう二十八になったのに、ただ震えるしかない。

「本当にダメな女だ」

 母さんが?

『お母さん、あんたのこと守れなくてごめんね。いつも仕事大変でしょう』

 あの人は、いつも俺のことばかりだった。いつも自分を責めて後悔していた。俺が帰れば「仕事大変でしょう」と言っていた。

 真っ暗な部屋で節約のためだと言って、何も欲しがらなかった人の何がだめなんだ。

「だめなのはどっちだ。人の人生をめちゃくちゃにして働きもしないで、弱いやつに怒鳴り散らすしかないクソ野郎のくせに」

 言い返したのは、初めてだった。あの日以来会うことのないと思っていた。

 母親と二人で暮らしてきて、父親はいないものとして振る舞ってきた。仕返しするなんて時間の無駄だし、くだらないと思っていた。

「てめえのせいで、どんだけあの人が苦しんだと思ってんだ」

 何も考えずにドアから背中を離してうち開きのドアを開ける。

 外に立っていたのは、白髪の老いた男だった。一目で風呂に入っていないと分かる外見で、寒い時期なのに薄っぺらいシャツしか着ていなかった。


 それよりも驚いたのは目だった。怒鳴り散らしていた態度に似つかない怯えた目。

 目が合った瞬間に相手によぎったのは、確かに恐怖だった。

 いまだに動悸がしていたが、笑いがこみあげてきた。


 あれから何年たったと思ってんだ、俺は。

 記憶の中の父親は、母を殴り子供を怒鳴る男だった。

 それは大きくて、とても強そうだったことしか覚えていない。

「金かしてくれ」

 ざらついた声はか細い。それでも、その内容は腹の立つものだった。

「見ず知らずのジジイにやる金なんてねぇよ」

 山口の声は道まで響いた。


 そこでようやく、隣人がドアの隙間から様子をうかがっているのに気づく。

引っ越す金なんてない。今だって働いて生活するだけで精一杯なのに。

「おい、いいから早く金出せ」

 くそ、てめえのせいで高卒ですらないのに、どうやってまともな職につけるんだ。

 山口は先のことを考えていたが、とても見通しは良くないどころか、最大の問題を解決することもできていない。

 十二月の寒さは、足元から這い上がってくる。

「こんにちは。警察署の方から来ました」

 二人の警察官が来たとたん、父親の様子が変わる。いかにも嘘くさい笑みを張り付けた。

「すみません、お騒がせして、なんでもないんですよ。ただの親子喧嘩です」

 またこの繰り返しだ。母を怒鳴って、警察が来ても「家庭内のこと」と言って追い返す。 

 そして家では何も変わらないままだった。どんなに山口が頑張ったところで、男が母親と彼を支配していた。

「そうなんですか?」

 なぜあの時の男だと分かったのか。山口は警察官の声に気づく。あの男だ。若い背の高い男。

 

 レジ係の女を助けたときもそうだった。一度しか会っていなくても、山口には分かった。

「他人ですよ。俺は山口と言います。こんな人見たこともありません」

「そんな見え透いた嘘つくな。俺がお前の父親なのは、お前も分かってるんだろう。山口っていうのは母親の旧姓ですよ」

 家の外では愛想がよく、とても家で暴言を吐いて女を殴るようには見えない。

「すみませんが、何か身分証明書をお持ちでしょうか」

 背中を冷汗が滑り落ちた。今までの繰り返しだ。

「最近免許証が失効したんです、何かあればいいんですけど」

 山口は父親が証明するものを持っていないことに安心する。

「ちょっと別々にお話を伺えますか。寒いから交番にでも行きますか」

 交番と聞いて父親は怒鳴った時のように、険しい顔をする。

「そういえば、息子は引っ越したって言ってたのを忘れてました」

 急に態度を変える。父親は一瞬の隙をついて歩き出す。年上の警察官が、後を追った。

 途中で警察官は大家らしき中年の女に呼び止められた。


 山口は玄関に座り込んでいた。

「何とかなりますよ」

 遙か上から声が降ってくる。上目遣いに警察官を見るが、暗くて顔は良く見えない。

「軽いな」

「深刻に考えようと、何も考えなくても同じですよ。だったら、気楽にしてた方がいいでしょう」

 どこかで夕飯を作っているのか、カレーの匂いがした。

「まあ尻が軽い方がうまくいくだろうな」

「家なんてどうにでもなりますよ。生きてさえいれば」

 軽い口調で、まるで何かのセリフのようだった。山口はその物言いに引っかかる。

「あんたはどっち側だ?」

「自殺に失敗したんでも、身内を亡くしたんでも、なんでもいいですよ。ご想像にお任せします」

 さわやかに笑う警察官は好青年にしか見えない。

「はいはい。また何かあったら頼むよ」

「俺が来るとは限りません」

 師走の空は暗く雪が降りだしそうだった。


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