あかね

主水大也

あかね

 茜色が、寒空に対し慇懃に無礼を重ねる凍雲を染めた。鉛のような重さを湛えるその雲は、明るい色に染められて俄かに軽くなったように思われた。男は、そのような宙を眺め、キャンバスに描かれた魚の切り身を黒で塗りつぶした。作り出した絵が、あまりにも人工的であるのと、まさに今、自身の上に存在する自然的な美に打ちひしがれたためである。この影の下、幻想的に光っているであろう彼自身の瞳を、彼は握りつぶしたくなった。

 彼が小さいころ、空にはクジラが泳いでいた。腹は琴の線のようになっており、歯は丸く、それでいて空色だった。それが口を大きく開けた途端、空には一条の闇が生まれて、重力の特異点が生まれ、いたずらにリングを生み出して、すぐに消えた。そのころ男は、大人になったとき、いつかあのクジラを捕まえなければならないという、脅迫的観念ともいえるほどの決意を骨身に沁み込ませていた。一年、そのまた一年と誕生日を迎えるたびに、彼は空に手をかざして、握りこぶしを作ったり、ピースサインを向けたりをした。ただ、14,5のころ、彼は、あれを捕まえたくないとふと思った。あれを捕まえてしまうと、何ともおかしなことに、自然となってしまうと思ったのである。彼は、生まれたときから、都会に身を置いていた。その為、人間とは人工的な場でしか生きることはできず、自然には飲み込まれてしまうと考えていた。そして、自然は醜く汚く、人工は清く一定で、尚且ついつまでもいつでも美しいものであると考えていた。

 時がたって芸術家を志した彼は、あのクジラを絵で描いて、永遠の人工物にしてしまおうと考えた。その為に、暗い青や黄色の油絵の具や、真っ白い純潔なキャンバスを購入した。彼は河川敷のベンチに腰掛け、空を見た。しかしそこには、クジラの一片しか見えなかったのである。あれは尾だ、描かなければ。そう思った。しかし、描いたとて、それは自然でも人工でもなく、価値のない、現象にすら満たない、何か宇宙の端で捨てられてしまっているような、必要のないものだった。その日から、空を見るたび、クジラは自らバラバラになって、そのほとんどが姿を隠した。

 今日、彼は空に魚を見た。彼は、クジラではないことに驚きつつも、それを描こうとした。しかし、どうやっても頭が、背びれが思いつかないのである。見えているのに、キャンバスに目を移した瞬間、それは白昼夢のように淡く消え去った。彼は仕方なく、丁寧に血抜きされた切り身を描いた。

 何度も目を移していると、そこに、等身大のクジラが現れた。彼は身を強張らせた。今描かなければ死ぬと思ったのである。彼はそれを見失わないよう、懸命にクジラを見続けた。すると、それはそれに浮かぶ同朋を音もなく食べた。彼は、ぎょっとして目を見張った。そのあと、彼が死ぬまで眼に見せつけられる光景が広がった。クジラが、大量に喀血したのである。噴き出した鮮血は太陽に照り付けられて、赤くぬらぬらと輝いている。落ち葉のような香りが、しとしとと落ちた。波はあっという間に大空へと広がっていき、そして太陽を隠した後、一気に明るい色となった。茜色である。誠に、美しい空が、彼の心を蝕んだ。

「奴は、自然になってしまった」

 そう言って彼は、手にもつ筆を、青臭い地面に突き落とした。

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あかね 主水大也 @diamond0830

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