第6話 人魚の涙

 膨らんだ蕾が解けかけている。

 島には閉鎖された空港がある。

 そこに至る丘陵地に桜が咲く。

 私達が中高生で植えた並木道。

 春の兆しを感じる後継であるし、どの樹を植えたのかはもう定かではない。

 風には程よい湿気と、穏やかな温みが含まれている。

 そして海には透明な碧さが蘇ってきた。

 あの厳冬期の鈍色の海とは様相が違う。

 それでも水温はまだまだ低いので、平須などの大物の釣果が期待できる。釣客も増えてきているようで、民宿の窓からは笑い声が溢れている。

 しかし春先は、離島の耳鼻科医師は多忙に尽きる。

 対馬海流を超えてやってくる、大陸からの黄砂とPM2.5でのアレルギーや急性上気道炎の患者が列をなしている。さらに季節変動における補聴器の調整フィッティングにも取り組んでいる。

 ふと気がつくと、その桜並木が満開になっているのを知るのだ。


 桜は春のひと風で吹き散らされてしまう。

 今年こそは、入学式に間に合ったようだ。

 慌ただしく息子の新学期を迎えると、聴覚診断の日を迎えた。

 離島には専門医の常勤がない。外科と内科医を基本として、皮膚科や産科、泌尿器科などは巡回で行われる。眼科および耳鼻咽喉科は数年単位の持ち回りで診療所に勤務している。

 耳鼻科でいうと夏場の中耳炎と内耳炎が症例として、最も多い。子供の海水浴もあるが、鮑漁で素潜りをする漁師が多い。

 ここにも離島ならではの問題があり、聴覚診断が不十分な時期は咽頭系の扁桃腺肥大症が見逃されていることがある。

 そのために私がここにいる。

 

 保健室の外では嬌声が響いている。

 上級生が嗜めては、再び風を巻く。

 微笑ましく思いながら、「次のひと」と声をかけるとパーテーションの向こうから少女が姿を現してきた。

 見たことのない娘だと思ったが、その瞬間に意識を貫くものがあった。

 さっと名簿に目を通したが、見慣れない名前で、中学生の記載がある。息子の語った転校生だとは思ったが、かなり上級生だったようだ。

 長い黒髪を背中でひとつ絞りにして、体操服姿でゆらりと現れた。瞳の虹彩が蒼みを帯びている。桜花を含んでいるような、柔らかな唇がそっと動く。

 私は、この佇まいを識っている。

「じゃあ、ここに座ってね」と促す声に畏れのような震えが混じる。

 彼女はすとんと座り、私の眼を覗き込んでくる。

「問診するね」

 すっと彼女が私の手を取る。

 肌の接触点から想念が音声化して、脳裏に響き渡った。

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