一〇  ユー・ガット・メール


 明朝。昨日までの無風で温暖な気候とは裏腹に、どんよりとした上空では雪がちらついた。目が覚めたジンは部屋を整頓し、出立の挨拶をしに三人の暮らす家へと向かった。譲二が一人で迎えてくれた。アカネの姿は見えない。聞けば、お店の食材を仕入れるために早朝から外出しているとのことだった。


「ところでジン君。この後はどこまで行く気だい?」


「今日はこの後、松島へ行きます。その後は財布と作戦会議をしようかと思いますが、明後日には東京に帰ろうかと思っています」


「そうか……なら近くの駅まで送るよ――」


 乗っている車の景色から昨日の土手と階段が見えた。段数は昨日よりも多く、日の光が届かない、雲より下の世界は色を失っていた。譲二がアクセルを踏めば景色が変わる。土手沿いを散歩している人々の背中はバックミラーに消えていく。一つ一つの光景をジンは愛おしそうに、黙って見ていた。

 最寄りの駅に到着すると譲二はジンに一通の手紙を渡した。


「ジン君。そういえば妹から頼まれていてね。これを渡すように」


 クリーム色の優しい色のレターはジンの指先を温めた。別れを惜しむようにジンは譲二に問いかけた。


「譲二さん。またこの町に来て、会いに行ってもいいですか?僕も何か皆さんに恩を返したいと思っています」


「そうだね。是非待っているよ。ゴールデンウィークなんかは、うちの苺園も忙しくなってくるから、その時にでも一緒に手伝ってくれると嬉しいな」


「もちろん……わかりました」


 二人は再会の約束を交わし握手をした。


「そうだ!ジン君。うちの親戚が東京で高校の教員をやっていてね。もし何かの縁で近い未来、君と一緒の職場になったりしたら、そんな愉快な話はないな。とにかく頑張れよ。俺は俺の店や苺園を守っていくから。ジン君は子どもたちの未来を守っていきな。ぼちぼちメールでお互いの近況を教え合おう。またな、先生!」


 二人は背を向けて別々の道を進んだ。


 日本三景の一つである松島は宮城県北東部に位置する。ジンは午前中には松島の地に降り立つことができた。

 多くの島を連ねる松島の壮麗な景色に感動して芭蕉は俳句を作ることができなかったように、ジンもワクワクを抑えることができない様子で周囲を練り歩く。すると松島湾を周回する船があることに気がついたジンは瞬時チケットを購入し、船に乗り込む列の後方に立った。

 遊覧船に乗り込むと席はすでに、ほとんど埋まっていた。ジンはきょろきょろと見渡す。唯一、二人掛けの席に一人で座っている人物を見つけた。


「すみません。お隣、失礼してもいいですか?」


「……いいわよ」


 整えられたネイル。派手なヒールに大きく膨らませた丸い形の特徴がある髪型。隣にいる人は風貌こそ女性だが、こちらに返答したその声色は明らかに男性であった。違和感を覚えたジンをよそに、遊覧船は大きな音を立てて稼働した――。

 船内では松島の小島を紹介するアナウンスが流れる。速度を増した船の揺れで波が白く砕け、飛び散った水しぶきがバチバチとガラスにぶち当たる。松島の幽玄な雰囲気とは遠く、ジンはギャップを覚えた。

 最初こそ新鮮みで溢れていた。が、時間が経過するとともに、全ての景色が同じものに見えてきた。


(松島は遠くから見るのがいいな……)


 ジンはそんなことを思うと気分を変えるため、席を立ち船の甲板へと向かった。

 甲板には誰もいなかった。一月の痛く切り裂くような風が、ジンの体温を一気に奪い去る。ジンは手すりにもたれかかり、上下する海面を見ていると後ろから声をかけられた。


「もし。あなた、今ライターを持っていたら貸してくださらない?」


 ジンが振り返ると先ほど隣に座っていた女装家がいた。ヒールのせいか、ジンよりも遙かに高い身長。そこから感じる圧にジンは急いでポッケをまさぐり、ライターを手渡した。女装家は煙草に火をつけ、三回ほど吸うと携帯灰皿に捨てた。

 女装家はジンに感謝の言葉を告げる。ツカツカと船の揺れをものともせず、その場を後にした。

 ジンは注意を向けて、その後ろ姿を見ていた――

 席に戻ったジンは相変わらず、飽きた様子でガラス越しの景色を見ていた。


「暇そうなそこのあなた。大きな荷物を持ってどこからここに来たのかしら」


 急に話し掛けられた驚きもさることながら、見た目と話し言葉のギャップにジンはつい身構えた。


「と……東京の方からです」


「あら、私東京に関心があってね……」


 その人は自身を「エリス」と名乗った。エリスはジンの大学生という身分に大変な関心をもったよう。一方ではジンはエリスの風貌からでは伺えない人間性に興味をもち始めた。そこから二人の会話は勢いを増していった。

 エリスはとにかくエネルギッシュだった。自身の野望とも言えるようなストレートな話題を語る真っ直ぐな表情にジンはどうしてよいかわからなくなったシーンもあった。興に乗ってきたエリスは立ち上がると全身コーデの紹介を上から下まで満遍なく語り尽くした――。


 館内では伊達政宗が月夜の晩に宴会を催したと言われている小島の紹介アナウンスが流れた。多くの観光客の視線がそちらに向けられる中、反対側の端の席に座していた二人。今、船内にはホットな二つのトピックが錯綜する。


「エリス……さん。その、あなたのこだわりが伝わりました」


「そう?初対面の人はだいたいそう言うことしか言わないの。私も慣れたもんよ」


「その……エリスさんは、席を立った時に体勢を崩さなかったし、それってヒールを履き慣れていないとできないことじゃないのかなって。エリスさんは自分に対して素直に生きているんですね」


 エリスはしばらく沈黙した。「さん付けは野暮ったく聞こえるから……」とつぶやきながら、ゆっくりと席に着いた。


「ジン君、あなたは自分に素直に生きていることが良いと言ったわね。けど本当にそうなのかしら」


 エリスの言葉にジンは固唾を飲んだ。


「ジン君。あなた、フォトグラファーってどんな職業だと思う?」


 唐突な質問にジンは困りながらも頭を振り絞った。


「僕がイメージするのは、人や食べ物なんかを芸術として撮ること……ですかね」


「なるほど。『芸術として撮る』ね。半分正解で半分は不正解よ。そもそも芸術として写真を残す理由ってなんだと思う?」


「理由ですか。……僕は考えたこともなかったです」


「それはそうよね。芸術作品としての写真なんか無くたって、達者で生きていけるもの。じゃあなんでこの世にはフォトグラファーだなんて職業があるのかしら。……よくよく考えると不思議なものよね――」


 エリスは自分を駆り立てるように話しを続けた。


「私はね、光りの当たらない所に光りを与える力があると思っている。天才と呼ばれているフォトグラファーたちは切り取った日常を非日常に変身させる凄味があるの。魂の込められた一枚の写真が人を動かす。それが写真を残す理由でもあって、職業として求められているのだと私は思っている。……私もそんな写真を残せたらと、追い求めていた時があった。けれど、そんな自分を信じられなくなっちゃってね」


 遠くを見ながらエリスは続けた。


「私には師匠がいたの。無理を言って弟子にしてもらって、あの当時は随分と師匠を困らせたわ。師匠は若者を中心に起こる文化や流行を追い求めていた人でね。惹かれる画風を見つけるとそのほとんどが師匠の撮った写真だった。そんな師匠の元で働き始めて半年程経ったくらいに、海外撮影に向かったことがあった。その渡航からかしら。自分の価値観が信じられなくなったのは——」


『引き続き松島の感動する眺めをお楽しみください』


 無機質なアナウンスはホワイトノイズを最後にプツッと途絶えた。船は折り返し地点を迎えた。


「ストーリートチルドレンを訪ねにメキシコまで行ったの。彼らは電車の走る高架下のちっちゃな広場にいた。散乱したゴミをベッドの代わりにしたのが彼らの拠点だった。警戒されて話しもままならないかと思っていたけれど、そんな事はなかった。私たちに興味を示す子もいれば、最初から壁を作って見向きもしない子。色々な子がいてね。その中の一人の子どもが、ストリートでの過ごし方を教えてくれたの」


 エリスは話しながら微笑を浮かべた。慈愛に満ちたかのようなその表情。しかしエリスの瞳は光の届かない深い海底のように色を失っていた。


「ジン君。教育者になるのであれば、知っておいた方がいいかもしれない。まだ十歳前後の子どもたちよ。その当時、彼らの流行は接着剤をビニール袋にいれて吸引すること。そんな子たちの中には決して安価ではないヘロインを使う子もいてね。数日滞在したけれど昼間の繁華街でも、そんな様子の子どもたちは簡単に見られた。ともかく、彼らの前には酒や煙草、合法的なドラッグまで日常に溢れていたの。後日、師匠と再び高架下に撮影をしにいった。私に色々と教えてくれた子の姿は見えなかった。代わりに今度は違う女の子がこちらにきて食べ物をねだったの。私はその子に対応していた。すると近くで大勢の人たちが集まって大きな叫び声やわめき声が飛び交ったの。私は人だかりに駆けつけた。その中心には一人の幼い子がうつぶせで倒れていた。傍目から見ても分かるほど体は痙攣していてね。すると、さっきの女の子がこう私に教えてくれたの。『あいつはヘロインに殺される』って」


「……それって」


「オーバードーズよ。聞いたことはある?」


「ええ。言葉は知っていましたけど……」


「私はとにかく『救急車を呼ばなきゃ』って思った。けれど私の声は師匠には届いてなかった。師匠は一心不乱にシャッターを切っていた。師匠は私に「おい。フラッシュを強くあてろ」と言った。気がついたら私の指は携帯電話のボタンではなく、機材へと向けられていたの。自分でも説明のつかない行動に驚いたわ」


 ジンは相槌を打つことをためらった。「この話しを理解した」というサインをエリスに送ってしまうのかもしれない。挙動の一つ一つが礼を失することになるのではないか、と神経を尖らせた。


「私は泣きながら手に持った機材で辺りを照らした。私はその当『『社会に真実を知ってもら』』ことが使命だと思っていた。けれど、これがフォトグラファーの本質だったのなら、こんなに残酷な事はない。そんな思いに駆られてね。帰国した後、私は師匠のスタジオに行けなくなってしまったの。それから数年経たない内に、その時の作品集を書店で見つけて眺めてね。……それまで私は、美しい写真は美しい心から抽出されると思っていた。けど、あのような現場からでも人の心を動かす写真が出来ることを知ってしまった。その残酷さが私から希望を奪ったわ————」


 船の揺れは次第に収まり港に到着。エリスは足早にその場を離れた。嫌にさっぱりとした別れになった。しかしジンはエリスとの出会いが心に響いた様子であった。ジンは闇雲な思想で行き先を定める。東京に近づく為、福島県まで向かうことを決めた。

 鈍行電車に乗り込むと車内は空いていた。席に着くと、流れる景色に見向きもせずにジンは日記帳を取り出し、何かに取り憑かれたかのようにペンを走らせた。


『平成二十三年一月四日(火)

 誰かの人生といつ、どこで交錯するかなんてわからないものだ。合縁奇縁な東北の旅路は僕に色々な気付きをくれた。仙台で出会った一人の女性と話した。彼女は天真爛漫で、どこかつかみ所のない魅力的な人だ。一人で抱えるには大きく深すぎる傷を、彼女は僕に話してくれた。彼女は気高い人だ。僕はある種の憧れを抱いた。

 松島湾の海上ではエリスと名乗る人の話を聞いた。エリスは本気で夢を追いかけた尊い人だった。これは今の僕にできていないことだ。僕は自分が作った殻に籠もっていることが多い。心の中に避難所を設置して、何かあるたびに引っ込むことが多いような気がする。肝心な時にものが言えない。

 しかし、この旅路は僕にある種の冷静さを取り戻してくれたのかも知れない 。「地金を光らせる尊さ」それを僕は教えてもらったような気がする』


 電車は速度を増して南下していく。考えては車窓に目をやり、数秒経てばハッとしたかのようにノートにペンを落とした。今宵の目的地である「郡山」まで、まだまだかかりそうだった。

 

 ジンは鈍行列車に揺られてようやく福島県郡山の地に降り立った。すでに周囲は暗くなり、駅を出ると街の光りに照らされた雪が福島の冬を演出している。仙台とは打って変わった凍てつく空気の中、ジンはなんとか空いているホテルを見つけると暖を求めて駆け込んだ。

 シャワーを浴びて、リラックスしたかのような状況にもかかわらず、ジンの態度や心は落ち着かなかった。やがて口を尖らせ細い息を吐き出すとリュックサックの中を漁った。落ち着かない原因であるアカネから貰った手紙を広げ、まじまじと見つめた。



ジン君へ

 まずはごめんなさい。昨日は思い返すと私の話ばかりしてしまったと反省しています。多少の後悔もありました。

 私の過去の経験は決して恥ずかしいとは思っていません。ただ、心にひっかかりを感じていました。けど、あの日のジン君の言葉を思い返すと、口元がつい緩む自分がいます。

 『人間の価値』って言葉を使う人初めて会ったよ 笑

 ジン君は本当に自分に正直な人だなって思いました。だからこそ嬉しかったです。ジン君と知り合えてよかったと心の底から思っています。ありがとう。


追伸 

 この手紙は時間が経つと燃える魔法をかけました。だから早くメールをしてください。

                    アカネより



 ジンは目を細めながら眉間に皺を寄せた。二枚目の小さな切れ端にはメールアドレスが記載されていた。左から一文字一文字目でアドレスを追っていくとグッと体温が上がった気がした。

 冷静になろうとジンはその場で途端に起立をし、来ていた上着のチャックを締め上げると部屋の窓を大胆に開けた。駅前に位置するホテルの五階から偉そうに郡山の街を見渡す。雪がチラチラと舞っていた。肺の奥底まで福島の空気を取り入れると力任せに何もない空間に吐き出す。

 ジンは携帯電話を開くとEメールの新規作成欄にアドレスを入力していった。



 To アカネ

 お疲れ様。仁です。ちゃんと暖かくしていますか?雨に濡れることもいとわないあなただから心配していますよ。熱い湯船にも浸かった方がいいですよ。

 そして残念ながら手紙にかけられた魔法は解除しておきました。大分苦労した僕を褒めてほしい。

 今僕は、福島県郡山市にいるよ。仙台と比べるとこっちの方が寒い気がする。

 今朝、譲二さんと別れた後、松島へ行ってみた。松尾芭蕉はここを訪れた時、松島の壮麗な景色に感動して芭蕉は俳句を作ることができなかったらしい。同じように僕もワクワクを抑えることができなかったよ。アカネもあの景色を知っているのかな。

 松島湾を周回する遊覧船がある。僕は乗った。遊覧船に乗ったのはいいものの、一つ一つを近くで見ると、今の僕には全部が一緒に見えてしまい、すぐに飽きちゃった。目の前の非日常的な景色は、ものの数分でありふれたものに変身してしまった。これはよくない。当たり前じゃない自然の風景に感謝を忘れちゃいけないね。

 船の中で不思議な人と知り合えた。その人の影響で僕は写真を撮るということに興味が湧いたよ。宮城県の人たちはアカネたちも含めて、すごくいい人ばかりだね。凄く胸がいっぱいになった。 

 明日には東京に帰ることにした。暖かくなってきたら苺園のお手伝いをさせてください、と譲二さんと約束した。これは本音でもあるし、建前でもある。またアカネと会えたら楽しい時間が過ごせるかと……。笑ってくれてもかまわない。白状すると「会いたい」というのが本音。

 今年のゴールデンウィークだ。五月にまたそっちに行くよ。

 アカネは今も仕事中かな。頑張ってね。

                              From 武田 仁


 (メールを送信する前はどうも居心地が良くない……)


 Eメールの送信中の画面には紙飛行機が飛んでいた。無機質な紙飛行機が左から右へ流れる間、何度か「送信取り消し」のボタンを押そうか迷った。そして画面中央には『送信が完了しました』と表示されると、ジンは二つ折りの携帯電話をパシンと立てて閉じた。

 その後もジンは落ち着かない様子で携帯電話を握り締め「新着問い合わせ」を何度か押した。心の中の期待という風船は膨らみ、その都度ボタンを押す。やがて無反応な携帯電話を事もなげに無造作に投げるとベッドに横になった。天井を見つめているとジンは思い立ったように上体を起こし、投げ捨てた携帯電話を拾った。ジンは無心で本文を入力すると今度は何の迷いもなく送信ボタンを押す。すると、すぐさま電話がかかってきた。


「もしもし。ああ、久しぶり。ごめんね、ずっと連絡返さなくてさ。…んーなにから話せばいいか……。ああそうだね。明日の午前中には東京に着くと思うから詳しい時間が分かったら連絡するよ。……うんそうだね。ああ……わかった。ありがとう。それじゃあまた連絡するよ。ちゃんとはるには話すよ。それじゃあまた」


 





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