九  真っ赤なカラスの行く末


 時刻は過ぎ去り、夕暮れ時の日は辺りを徐々に赤く染めにかかる。

 譲二は離れの整頓をしにいくため、この場を少しの間離れることに。ミリもついて行くと駄々をこね始めた。残されたジンとアカネは時間をつぶすため、苺園の周辺を散歩することにした。

 ビニールハウスを出て、近くを流れる大きな川沿いの土手を二人は歩いた。平地より一段と高く築いた道路は周りの景色を一望できる。

 二人は水中へ続いている階段へ腰をかけた。

 潮の満ち引きで陸だった箇所は水に飲み込まれた。目の前の風景は、常に表情を変える。遠くの方では凧揚げに興じている人たちの愉快なシルエットがゆらゆらと自然の中に響く。


「ここはね、私の地元でもあるんだけど、暖かくなってくると一面に黄色い菜の花が咲く場所なんだ。綺麗で気に入っているの」


 夕焼けに溶けた日の光は燦々と水面に。弾かれた光は、形を変えて流星群の如く二人に降り注ぐ。それらを二人は無言でぼうと眺める。辺りには人はいなく春を待つ花が静かに呼吸をしているかのように、自然が風に揺れて心地よい音をそうする。

 ジンは都会では味わうことのできない東北を存分に楽しんだ。


「君のお兄さんは不思議な人だね。こんな自分の事を『気に入った』って。生まれて初めてかけられた言葉だよ」


「兄は適当に見えるけど、実はしっかり考えているところもあるの。昔から将棋だけはめっぽう強くてさ。小さい頃、私が負けては泣いちゃってよく困らせたよ」


「将棋の強さが今の状況とどう関係してくるのさ」


「色々先を読んでいるんじゃないのかなあって!ただ、無駄なことを嫌う兄だから。ジン君になにかを思ったんじゃないかな。私には分からない事だけれどもね。……君も随分と不思議な人だと思うけどね。学校の先生に強くこだわっているし、どうして国語の先生になろうとしたの?」


「……僕はただ、自己表現の苦手な自分がとても嫌いなんだ。心の中で思い描いた事を何とか表現したいって思っている。それが出来ないのは『もったいないな』ってある時、思ったんだ」


「もったいない?」


「そう。きっと違和感を言語化することは人の事を知ると同時に、自分を見つめるサーチライトになると思っている。……不満や傷を負った人には『共感』が何よりも必要なんだ」


 話しながらジンは虚空を見つめる。気が付くと凧揚げに興じていた人たちはいなくなった。


「だから僕は、まだまだ勉強をしなきゃいけない。人の抱える感情の解像度を上げることは、きっとその人の支えになるだろうし。どんなに強い薬よりも言葉の共感から来る『安心感』は人生を生き抜く力をくれると信じているんだ。そんな思い……かな?」


「ジン君は十分できていると思うよ。だからミリもあんなに懐いているし――。そんな理由だったんだね」


「そう思ってくれて嬉しいな。けど、まだまだ全然だよ。それにこの考えは僕のものじゃなくて恩師のなんだ」


「ジン君の恩師ってどんな人なの?」


「幼い自分に理解ある眼差しをくれた人だった。それに僕は救われた。だから、僕は泣いている子どもがいたら、そばで一緒に泣ける人でありたい。楽しそうに笑っているなら笑い合える人でいたい。そう思わせてくれた人だよ」


「やっぱり君は教師になるべきだよ。私は……中途半端な事ばっかで全部すり抜けていく。……ジン君は、そんなステキな夢をもてて羨ましいな」


「何年経っても必ずなるよ。死ぬまでに必ずね。けど、アカネはお兄さんのお店も手伝っていて、ミリちゃんも育ててさ。到底僕には真似できない。すごいよ。本当に凄いと思う。ただ、僕が言うのも変な感じがするけれど、一人で頑張りすぎなんじゃないかな。……その、旦那さんは?」


 アカネの表情から瞬時、にこやかな笑みが消えた。それをジンは見逃さなかった。


「もうとっくに離婚したんだよね。出会ってあの子が産まれるまで、すごくいい感じだったの。けど、少し経ってから急にDVが激しくなってきてね。どこに行っても、何をしてても、一人でいても、あの人に怒られる気がしちゃってさ。ちゃんとした判断ができなくなっちゃったの。このままじゃだめだ、ミリと二人で生きなきゃって。あの子には本当に申し訳ない事をしたなって今でも思っている……」


 ジンは黙って傾聴した。


「こんな話し聞いてさ……幻滅だよね」


「そんなことはない!ミリちゃんを見れば分かるよ。君がどれだけあの子を大切にしているのかが。あの子は苺狩りの時に一番大きいのをずっと手に持ってて、預かろうとすると『あたし持ってる』って離さないんだ。理由を聞いたら『ママにあげる』って……とにかく頑固だったよ」


 それを聞いて、アカネは何かを隠すようにうつむいた。


「ミリちゃんや譲二さんも親切で、僕はこの町がすごく好きになった。アカネに出会えたお陰で、昨日も今日も心の底から楽しかった。今日が終わって、東京に戻って日常が再開しても、またアカネに会いたい。気温が暖かくなってきて、ここに菜の花がいっぱい咲いているのを見に行きたい。ちょっぴり成長したミリちゃんとまた遊びたい。だから……」


 ジンの本能が思考を極端な方向へと舵を切らせる。むき出しの男は芯のない鉛筆のように頼りない姿とはほど遠いものになった。


「アカネに幻滅する要素なんてどこにも見当たらないよ。苦しい思いをした過去があったとしても人間の価値はそこで決まるとは思っていない。昨日と今日。僕は随分と愉快に過ごすことができた。ある種の幸せを感じとれた。そんな幸せをくれた人に価値がないはずないじゃないか。……だから君は中途半端なんかじゃないよ。ミリちゃんのたった一人の偉大な母親なんだ――」



 未だ沈み切っていない夕陽に向かって真っ赤なカラスが羽ばたいた。名残惜しそうに留まって見える夕日は二人のシルエットを地面に濃く映す。影の中、最も黒い箇所に強い悲しみは沈んだ。

 ジンからの問いかけにアカネは顔をあげた。瑞々みずみずしい瞳が何かを物語るように、二人は目を合わせて微笑んだ。お互いの心の底がわかったような気がした。

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