大規模臨地試験

 メディカルルームの前でヒューマノイドと別れた俺は、早速タンクベッドでの環境適応のために必要な準備に取りかかり始めたが、シャワーを浴びて部屋着に着替えたところで妙に目が冴えている自分に気づく。

 

 体は長旅ですっかり疲れ切っているのに、脳が興奮しているのだろう。


 こういうときは無理に寝ようとするよりも、脳に刺激を与えてやった方が良い。俺は部屋のデスクに置いてあったタブレット――シモンが用意したものだろう――を起動して、耳殻端末が認識されるのを待った。


『入力デバイスを認識しました』


 端末が微かに震えるのを知覚するのと同時に「連続ヒューマノイド暴走事件、資料」と呟く。タブレットに次々と表示されていくファイルはどれもニューフロンティアで読んだことがあるものばかりだったが、これはむしろありがたかった。今から新しい資料を読み始めたら、シモンに努力を約束した六時間休眠が難しくなるかも知れない。


 俺は表示されるファイルのタイトルを目で追い、時々はファイルを展開して中身を確認しながら、今自分がいるこの場所に思いを馳せる。


 オープンシティ。再来年に完成を予定している火星十番目の都市。その名の通り、都市全体を覆うドームが存在しない火星唯一の都市――。


 この星の地表は元来、人類の生存が困難な環境である。そのため、他の九つの都市はいずれも、有害宇宙線を遮断し、内部の温度や酸素濃度を一定に保つのに、巨大な

防護ドームが用いられている。


 では防護ドームなきオープンシティは? 広域磁気シールド照射装置によって宇宙線を無害化し、核融合温熱システムとクリュセ平原を埋め尽くす広大な火星サボテ

ン緑地から絶えず熱と酸素を供給することで、人類がで生存できる都市環境を維持しているのだ。


 ドーム都市とは大気成分が異なるため、環境適応の時間を必要とするものの、生存できる条件はほぼ整っていると言って良い。


 にも拘わらず、この都市には今をもって定住する人類が存在しない。


 火星倫理委員会が、前例のない非ドーム型都市への植民を前にして、これまた前例のない大規模な臨地試験の実施を提言したからだ。


 前例のない大規模な臨地試験――それは、自立思考能力を持つ数千体のヒューマノイドを都市に住まわせ、環境が個体に与える心理的負荷をシミュレートするというものだった。


 試験に投入されたヒューマノイドには、人類の行動をロールプレイする思考ルーチンが組み込まれており、(実際にするわけではないが)飲食や睡眠、排便の欲求なども実装されていた。


 ヒューマノイドに擬似的なコミュニティを形成させて、その思考負荷や行動負荷を観測する――小規模なコミュニティでのストレス分析などでは有用性が認められた手法だが、これほど大規模な実験は地球でもそれほど例がなかったはずだ。


 もちろん火星では初めての試みだった。


 その実験が今、二度目の大きな困難に直面している。オープンシティーで暮らすヒューマノイドが突如暴走する事件が立て続けに発生したのだ。


 いずれの事件においても、事件の直前に、暴走したヒューマノイドの思考回路に強い負荷ストレスがかかっていたことがわかっているが、その原因は特定できていない。


 ヒューマノイドが何を苦に暴走したのか。そしてまた、この街で一体何が起きているのか。それらの謎を究明しない限り、火星倫理委員会はオープンシティへの植民開

始を認めないだろう。


 俺はだから来た。連盟の付託を受けた火産研の研究員として、連続ヒューマノイド暴走事件を解決するために。


「はやるな、ヨウ」


 耳殻端末からタブレットをスリープ状態にしつつ、俺は天井を見上げて呟いた。


「こいつがどれほど厄介な事件だったとしても、ヴァルプルギスナハトのときほどじゃない」

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