最終楽章

「一体、何があったのかしら……」

 柊二しゅうじの母は戸惑いながらそう呟いた。

 今、自宅のリビングに置いてあるアップライトピアノを弾いているのは、柊二の妹ではなく彼自身だった。やめたいと言って離れていったピアノに、離れてからは一切近づかなかった場所に、彼は自ら戻って行った。

「母さん。これからしばらくの間、リビングのピアノを使わせてくれ。妹のレッスンを中断してくれ」

 そう息子が言ってきたときは自分の耳を疑った。あんなに嫌がったピアノを今になって弾きたがるなどと、想像もしないことだった。ただ、息子の目があまりにも真剣で、冗談で言っているのではないことに驚いただけだった。

 しかし、落ち着くにつれて、柊二の身勝手な振る舞いに苛立ちを覚えるようになった。理由を訊いても、「言えない」「答えられない」と返すばかりで話にならず、それどころか干渉は一切するなと言われる始末だった。柊二がどうしてそんなことをするのか、まったく想像もつかない母がそれに対して怒りを覚えるのは自然なことだった。

「何のつもりか知らないけど、今になっていきなりピアノを独占して、妹のレッスンの邪魔をするなんて……」

「いいの。わたしなら、いいの」

 憤り、身勝手な息子を問い詰めようとした母の手を引いて止めたのは、まだ幼い娘だった。家族の中で、彼女だけが柊二の態度が変わった理由を知っていた。

 あの日――文奈ふみなが柊二を訪ねてきた日、妹は兄の帰りを待つ彼女とたくさん話をしていた。

 柊二が学校でピアノを弾いていること、それがきっかけで出会ったこと、学園祭でライブをやるために必死に練習したこと、音楽祭にゲストで招待されて出演することなど。自分の知らない兄の姿を、文奈はとても嬉しそうに話してくれた。仏頂面ばかりでいつも怒っているような兄しか知らない身には、その話はとても新鮮だった。

 そして、幼くして人の機微に敏感にならざるを得なかった少女は、その話し振りと表情から、目の前にいる変な言葉遣いのお姉ちゃんは兄のことが好きで、兄もこのお姉ちゃんが好きなんだ、ということを感じ取った。まだ恋愛というものがよくわからない年頃でも、それだけはわかった。

 だから今、兄が真剣にリビングのピアノを弾くのはそのお姉ちゃんのためだ、とおぼろげに感じていた。

「お兄ちゃんにとって、今ピアノを弾くのは、とっても『たいせつ』なことなんだと思うから。邪魔しちゃ、ダメ」

 そう言って、とりつかれたように集中してピアノを弾き続ける兄をじっと見つめた。

「……?」

 文奈の存在を知らない母は、娘の言葉を理解できずに困惑するしかなかった。



 一刻の猶予もない。とにかく練習するしかない。

 文奈との約束を守るために、一人で音楽祭に出る。そしての演奏を多くの人に聴いてもらう。二人の想いを乗せた音を、一人でも多くの人に。

 ただ、そのためにはひたすら自身の気持ちを曲に込め、表現できるようにならなければならなかった。

 しかし、現状ではまったくと言っていいほどできていない。技術面も精神面も、両方で。

 まだ、文奈が隣にいないということが心の枷になっていて、想いはうまく旋律に乗らない。文奈にお願いされて吹っ切れて、消え去ったと思っていた別れに対する迷いと困惑が、意識のどこかに残ってしまっている。そんなことではライブで連弾したときよりもずっと、くすんで光らない演奏になってしまうのは明らかだった。

 それを取り去るには、ただひたすらに練習するしかない。文奈が隣にいなくても、曲を通してその存在をはっきりと感じられるようにならなければいけなかった。

 そのためには、放課後の旧音楽室で数時間練習するだけではまったく足りない。とてもではないが間に合わない。

 だから、二度と近づきたくないと思っていた自宅のピアノを使うことを決めた。過去の嫌な記憶になんてこだわっている場合ではなかった。そんなものは、文奈との約束の前では些細でどうでもいいことだった。

 今はただ、文奈の演奏を、彼女の音を、大切な人が紡ぐ旋律を、自分が奏でられるようになることだけを考えて。

 柊二はピアノと向き合い続ける。


          ・


「じゃ、またね」

 そう言って、文奈は街灯から落ちる濡れた光の輪の中で笑った。

 音楽祭でピアノを弾く約束を交わし、彼女を家の近くまで送ったその別れ際のことだった。

 辺りは真っ暗で人通りもなく、しんと静まって冷えた空気が辺りに満ちていた。昼間はあれほど強く降り続いていた雨はすっかり止んで、満天の星空が見えている。誰もがこの夜気と暗さにうつむく中、文奈と柊二は繋いだ互いの手の温かさを感じながら空を見上げていた。住宅街が郊外にあるおかげか、雨が空気を洗い流してくれたおかげか、散らばる星々が鮮明に見えた。

「頑張ってな、音楽祭。遠い空の下で応援してるから。私も頑張るし」

「……ああ」

 文奈のエールが聞こえていないのか、柊二は生返事しただけだった。ぼんやりと天を仰ぐだけで、どこか放心しているようにも見えた。その腑抜けた返事と表情に文奈は眉間にシワを寄せた。

「なんやの、その気合の入らん返事は? やる気あんの?」

「ああ、すまん。ちょっと、自分が情けなくてな……」

「どういうこと?」

 問い詰めるようにずいっと睨んでくる文奈に横顔を向けたまま、柊二はため息をついた。

「結局お前に励まされてやっと立ち直る始末だし、立ち直ったと言っておきながらやっぱり離れるのが辛いと思ってんだよ。気持ちが通じ合ってて、間違いなく繋がってるってわかってるけど、やっぱり文奈が隣にいないってのは寂しいから……どうしてもこの手を離したくないんだ。離せそうにないんだよ。いや、こんなことでどうすんだって自分でも思うけどな……」

 はぁ、と自分の不甲斐なさに再びため息が漏れる。別れ際になってこんなことを言い出すなんて、と自己嫌悪に襲われた。

 そうやね、と文奈はその弱気を肯定した。

「わからんでもないよ、その気持ちは。私も一緒やし。せやから、ちょっとしたおまじないを掛けとこうかなって思ったりするわけで」

「おまじない……? 何だそれ?」

「さて、効果のほどはどうやろうね?」

 と文奈は悪戯っぽく笑って繋いでいた手を振り払うように離し、自由になった華奢な両腕を柊二の首に回して抱きついた。そして少し背伸びし、目を閉じて――

「ん……」

 桜色の小さな唇を、柊二のそれに重ねた。

 唐突なことに意識をぶっ飛ばされた柊二は、その温かく柔らかい感触に抵抗できず、二人を照らす街灯を支える電柱のように硬直し、立ち尽くしていた。ふわりと漂う甘い匂いも、額をくすぐる茶色がかった前髪も、見開いた目に映る長い睫毛や白い顔も、それら全てがスクリーンの向こうの映像になったかのような、ひどく現実感に乏しいものに見えていた。

 ただ一点――彼女と触れ合う一点だけが圧倒的な存在感を持ち、焼けるように熱くなっていた。

「…………これでどう? 気持ちだけやなくて、身体も一つになった気がしたやろ?」

「……え、いや、その」

「ん? 足らんの? もっと、これ以上のことしたいん? 私は別にええんやけど……ここは路上やし旧音楽室みたいに防音やないで? ご近所さんの目もあるし」

「お前……ッ! そういうことを大声で……!」

 とんでもない発言に焦り、柊二は慌てて周囲を見回した。幸い誰もおらず、聞かれていないらしいと安堵する。その様子を見ていた文奈はこらえきれずに笑い声を上げた。

「あははは。で、やっぱり足りへん?」

「十分です! バッチリです!」

「そっか、よかった。おまじないの効果、あったみたいやね」

 長いような短いような時を刻み、街灯の明かりでもはっきりわかるくらいに赤面しながら笑う文奈。同じく顔を真っ赤にしながらうつむく柊二。ぽりぽりと所在なげな柊二の右手が後頭部を掻く音が妙に大きく響き渡っているような気がした。

 しばし柊二は沈黙し、小さく息を吸って顔を上げた。十分と言ったわりにはその表情に不満げな色が浮かんでいた。

「ただな……こういうのは俺のほうからすべきなんじゃないかと……」

「ええやん、どっちからでも」

「よくない。こういうのは男の役目だと思うんだよ。それに、俺からしないと確かなものが残せない気がする」

 ぶつぶつと文句を垂れる柊二カレシをジト目で見て、文奈カノジョは盛大に呆れながら頭を掻いた。

「あー、もう、男って面倒やね……。もう一回キスしたいって直球で言うたらええのに……」

「男はロマンチストなんだよ。あと、お前はもう少し恥じらいってものをだな」

「わかったわかった。じゃあ、ほら、ちゃんとエスコートして。私は待ってるだけにするから」

 と、文奈は一歩離れて目を閉じた。しかしその様子にしおらしさはまったく感じられず、仁王立ちで両手を腰に当てて胸を反らすという、いろいろとぶち壊しな姿だった。もちろんそれは嫌がらせのつもりでわざとやっていて、それをわかっている柊二から思わず苦笑が漏れる。

「ムードの欠片もないな……」

「私はそういう女やもん」

「知ってる」

 くくっと小さく笑って文奈を抱き寄せる。さあ来いと構えているわりにその身体は簡単に腕の中に納まり、少し震えていた。言葉とは裏腹に緊張しているようだった。

「なんだ、震えてるぞ。されるのは怖いのか」

「そんなんちゃう。寒いからや」

「だったらとびきりアツいやつにしてやる」

「受けて立……んっ……」

 虚勢を最後まで聞かず、柊二は減らず口の多いそれを唇で塞いでやった。



 いつだって、柊二は文奈から強さと勇気を貰っていた。

 連弾を始めるとき。

 練習で詰まったとき。

 ライブの直前。

 別れが決まったとき。

 たくさんの強い気持ちと勇気を、彼女から貰っていた。

 それを今、少しでも返してやろう。

 柊二は、その想いを長い長いキスに込めた。


「じゃ、またね」

「ああ、またな」


 二人は笑顔のまま、光の輪の中で別れた。

 サヨナラは言わなかった。

 その必要がないから。

 ピアノを弾けば、そこにお互いがいると感じられるから。


          ・


 市民音楽祭、当日。

 自分と同じ制服を着た十数人の男女がステージで楽器を演奏しているのを、柊二は緊張しながら舞台袖から見ていた。彼らは芸術科音楽専攻クラスからゲストとして招かれた選りすぐりの演奏者たちで、予想以上に演奏レベルが高かった。そんな連中と同じ舞台に立たなければいけない――そう思うと、今すぐ逃げ出したくなった。

「このプレッシャーは文化祭の比じゃねぇぞ……」

 舞台袖から見る観客席は照明をやや落とし気味にしてあるせいか、後席に十分な明かりが届かず、やたらに奥行きがあって広く見える。事前に聞いたところでは観客の人数は三百人程度だが、暗くて見えない席の奥に何千人もいるような気がしてならなかった。緊張を通り越して恐怖感すら覚える。

 練習は必死にやった。可能な限りの時間を使って練習した。最後の一週間など学校を休んでまで練習した。無人の観客席を前にしたリハーサルも十分にできた。

 だがそれでも不安は消えない。本番独特の雰囲気は、練習では絶対に体験できない何かを秘めている。それに飲まれて失敗したら。途中で叩く鍵盤を忘れたら。楽譜を思い出せなくなったら――そんなことを考えると、ピアノの前に座ることができなくなりそうだった。

 ――こういうとき、文奈だったら何と言うだろう?

「私らはプロやないんやから。失敗してもええねんて。失敗しても。うん、素人なんやから」

 文化祭のとき、彼女が呪文のように呟いていたその言葉を思い出した。そのあまりの緊張ぶりがおかしくて、お互いに笑い合って……気がつくと柊二自身の緊張がほぐれていた。

 しかし――

「今、ここに文奈はいないんだ。だから」

 一人で乗り越えなくてはならない。



 ざぁっ、と激しい雨のような拍手がホールに満ちた。芸術科による演奏が終わり、ついに柊二の出番が間近に迫る。控えた舞台袖から、楽器を携えた生徒が舞台を降りるのを見つめ、そのあとに係員が椅子や譜面台を片付けているのを惰性的に目で追う。耳の奥がぐわんぐわんと鳴って、制服を突き破ってしまうかと思うほどに心臓が強く速く動いていた。強烈な血圧に視界がぐらりと傾いだ気もする。もちろん錯覚とわかっているが、わかったからといって動悸がおさまるわけでもない。

 目を閉じて大きく深呼吸を一回。少し間をおいてもう一度。それを何度か繰り返すと、文化祭ライブの前に文奈と同じことをしたのを思い出して、少しだけ落ち着けた気がした。さらにそのときのことを鮮明に回想しながら、ほぅ……と長い息をつくと、椅子や譜面台を運ぶ係員のがちゃがちゃとした騒音も耳に入って来なくなった。

 怖いのは聴衆ではなく、それを恐れる自分自身の心の弱さ。自らに打ち克つために意識を自身の内側に向け、早鐘のような鼓動を落ち着かせ、恐怖心を削り落としていく。しばしのちに、極限まで緊張していた全身と意識が少しずつ解れ、集中力が高まっていくのが自覚できた。

 片付けが終わり、しん、とホールが静まり返る。続いて柊二の名前が呼ばれ、舞台の真ん中に置かれたピアノにスポットライトが当てられた。旧音楽室に置いてあるものよりも高級なピアノが、黒い宝石のように眩い光を照り返している。

 柊二はゆっくりと舞台袖から中央へ歩き、ピアノの横で一礼した。期待に満ちた拍手を耳に、これから自身の両手が踊るモノクロの舞台と対峙する。

 じゃあいくぞ、文奈。

 心の中で隣に座る大切な人に声をかけ、椅子に腰を下ろし、構えた。

 身体にまだ少しだけくすぶる緊張とともに小さく息を吐き――

「…………」

 演奏を始める直前、柊二はに気づいた。

 その確かな感覚が、どうしても振り払えなかった緊張を全て吹き飛ばした。

 リラックスした身体に落ち着き払った精神が降り立つ。

 力みも気負いも恐怖も消えた。

 いける。

 そう確信した。

 ちらと客席のほうへ目をやり、改めて感じる視線を確かめて。

 構えた手の指先にひんやりと触れる鍵盤を――押す。

 柊二の――文奈の――二人の『ふたつのはんぶん』が、ホールに舞い、踊る。

 原曲よりも未熟で荒削りな、この音楽祭の格には不釣合いなつたない独奏。

 芸術科でもない柊二が、ただ自分たちのためだけに弾くピアノ。

 数百の聴衆にとって、そんな素人の演奏を聴くことにどれほどの意味があるのか。

 それは柊二にはわからない。

 ――わからなくてもよかった。

 有象無象の聴衆など、言葉通り『その他大勢』でしかない。一人でも多くの聴衆に二人の旋律を聴いてもらいたいという文奈の夢を叶えてやるために研鑽を積んできた柊二だが、今やそれは関係なかった。

 ただ一人のために。

 その一人に聴かせるために。

 彼は今、全身全霊で想いを奏でている。



 わずか三分。たったそれだけの演奏。

 それを届けた柊二に、満場から拍手が贈られた。



 舞台袖に戻った柊二は、吹っ飛んだはずの緊張に再び襲われた。膝がガクガクと笑い出し、視界がぐるぐると回り始め、まっすぐ立っていられなくなった。倒れそうになりながらもなんとかパイプ椅子にたどり着き、腰を下ろすと一気に全身の力が抜けた。

 そこへ、ドドドドッとけたたましく駆けつけるのは、ジャージを身に着けた熊……もとい、芸術科嫌いの古典教師だった。

「よくやった、樋崎ひざき! 素晴らしかったぞ!」

「先生、俺は樋川ひがわです」

 何度言えば俺の名前を覚えるんだこの熱血古典マッチョメンは、とげんなりしながら、賞賛の言葉を浴びせ続ける教師を見る。確かにこの暑苦しいテンションは、クールでエリート志向の強い芸術科には合わない気がした。

「実のところ、川代かわしろが急に学校を辞めることになって、ひょっとしたらお前が出場を辞退するんじゃないかと心配していたんだが……本当にありがとうな、樋山ひやま!」

「別に、俺は先生のために弾いたわけじゃないんですけど。それと俺の名前」

「わかってる! わかってるさ! だが、俺の心に強く響いたんだ! それが例えようもなく、この上なく嬉しいんだよ!」

「…………」

 ダメだこいつ。

 手放しで褒めちぎられているのにまったく嬉しくないどころか逆に疲れてしまい、ゾウリムシを見るような目で教師を見つめ、柊二は相手になるのを諦めた。

 熱血古典マッチョメンは、たっぷり二十分ほどかけて言いたいことを全て吐き出してスッキリしたらしく、とにかくお前はすごい、と締めくくってどこかへ去っていった。

「賞賛されてこんなに疲れるって一体……」

 演奏の疲労や観客からのプレッシャー以上に消耗させられ、ぐったりと椅子に伸びる。その様子を見ていたのか、くすくすと笑う人影が一つ、柊二に歩み寄った。

「あの人は特殊なんよ。気に入った生徒はとことん褒めるクセがあるみたいやねん。私のクラスの担当のときからそうやった」

「やっぱりか。だったらお前も苦労したんじゃないのか?」

「せやね。私は芸術科っぽくない生徒やったからね。暑苦しかったわ。でも、ええ先生やで。私が学校を辞めるとなったとき、必死になって親を説得しようとしてくれたし。まあ、なんか必死すぎてドン引きやったけど」

 と彼女は苦笑した。そして小さく手を振り、ちょこんと小首を傾げる。

「やっほ。久しぶりやね、柊二くん」

「ああ。一ヶ月ぶりか。元気そうだな、文奈」

「まぁね。いつまでも落ち込んでられへんし。……あ、再会の涙は必要やったかな?」

 とわざとらしく泣き真似をする文奈。高校の制服でも家にやってきたときの私服でもない、妙に大人びて見えるフォーマルなスーツ姿にもかかわらず、その子供っぽい仕草がまったく以前と変わっておらず、柊二は妙な安堵感を覚えた。

「再会に泣くってキャラじゃないだろ、お前」

ひどッ! その言葉にヘコんで泣くわ」

 言葉とは真逆に肩を震わせながら笑い、べしっと柊二の背中を叩く。

「ところで柊二くん、全然驚いてへんね。私が来てるって知ってたん?」

「いいや、全然。けど、演奏直前にお前が観客席のどこかにいるって気づいた。気配でわかった。そのおかげで緊張が解けたしな」

「ほほう」

 そう言うと、文奈はいやらしい笑みを浮かべ、芝居がかった仕草で大きく天を仰いだ。

「なんと、姿の見えない私の存在に気づいたとな。それはもはや愛の力というべきものなのでは?」

「そうだな。愛の力だ」

「…………」

 きっぱり! と擬音が鳴りそうなくらいに言い切られ、文奈は意表を突かれたように笑みを引きつらせて硬直した。

「……なんやの……? そこは『何を恥ずかしいこと言ってんだ』とかってツッコミを入れるところやろ。そしたら私が『照れなくてもいいじゃない、もう、可愛いんだからぁ』って柊二くんをイジる予定やったのに」

「それが予見できたからそう言わなかったんだよ」

「う……読まれてたんか……。何で?」

 心底ヘコんだというような顔で聞き返す。柊二はさわやかな好青年を彷彿させる笑みで、

「当たり前だ。この一ヶ月、お前の気持ちと一つになることだけを考えてピアノを弾いてたんだからな。それくらい見抜けなくてどうする」

「な……」

 眩しすぎて直視できないほどのまっすぐな言葉に、文奈は絶句して固まった。ん、どうした、と柊二が真顔で覗き込んでくる。その無邪気な視線に頬から耳たぶから全部紅潮し、文奈は思わず顔をそらしてしまった。

「な、何を恥ずかしいことを……」

「照れなくてもいいだろ。もう、可愛いんだから」

「…………ぅう」

 艦長! 左舷機関部に直撃弾です! 装甲が大破し浸水を食い止められません! このままでは艦は沈みます!

 と、文奈の脳内水兵が損害報告し、レッドアラートが鳴り響く艦橋ブリッジで、最早総員退避しかないのか……と脳内川代艦長が苦々しく呟いた。

 それはもう、完璧なる撃沈だった。自分がやろうとしていたネタをぐうの音も出ないほど鮮やかに返され、文奈は心から敗北したことを悟った。

「……柊二くんのアホぉ」

 悔し紛れに悪口の一つも言ってやりたくなったが、いつものように上手く言葉が出ず、それでもなんとか絞り出したのがそれだった。

「言うに事欠いてそれか。まったく……全然変わってないな」

 やれやれとため息をつく彼を、文奈は頬を膨らませて恨みがましく見下ろしていた。椅子に座ったまま見上げてくる彼氏は、以前よりも柔らかな表情で笑っていた。その変化に少し驚き、同時に感心した。

「そっちが変わりすぎやねん。ピアノもメチャクチャ上手くなってるし」

「そうか? とにかく必死だったから自分じゃわからなかったんだが……そうか、レベルアップしてたのか」

 と膝の上で組んだ自身の手を見る。納得のいく演奏には程遠いが、今現在持っているものは全て出し切ったつもりだった。それを他でもない文奈が認めてくれたことが、ただ単純に嬉しかった。

「これはお世辞抜きで言うてる。ホンマに上手くなってた。あれから相当練習したんやね」

「まぁ、な。つまらんミスはしたくなかったからな」

「偉い偉い」

 眩しそうに目を細め、文奈はぐりぐりと柊二の頭を撫でた。ピアノが嫌いだと言って真剣に弾いたことがなかった彼が、かつての自分と同じくらいの演奏をするようになった事実に、少し寂しいような悔しいような気がした。

 しかし、その身に付いた技術は自分のために磨かれたものだと思い直すと、嫉妬よりも嬉しさと温かさで心が満たされ、自然に笑みがこぼれた。

「……何をニヤニヤしてんだ、気持ち悪い」

「嬉しいからニヤけてんの。それより、ほら」

「ん?」

 突然文奈が両手を上に掲げて、何かを期待するように柊二の行動を待った。

 何がしたいんだろうか、と柊二は少し考え、椅子から立ち上がって――

 ――

「え?」

 キョトンとする文奈。

「え?」

 あれ、違うのか、と焦る柊二。

 互いの鼻先が触れるほどの距離で、狐につままれたように驚いた顔を見つめ合う。

「違う違う、ハイタッチハイタッチ」

「ああ、そ、そうか。すまん」

 そういえば文化祭のあともハイタッチしたっけ、と思い出して柊二は慌てて文奈から離れた。両手を挙げたままの格好で、文奈は少し視線を逸らしながら恥ずかしそうに呟く。

「まぁ、柊二くんに抱かれるのも悪くないから、そのままでもええんやけど……」

「いやいやいや、さすがに人目が気になるからそれは勘弁だ。あと言葉のチョイス考えて」

 と自分でやっておきながら拒否して平静を装いつつ、リクエスト通りに掲げられた文奈の華奢な手に自身の手のひらを叩きつけた。

 ぱぁん、と予想以上の音量で鋭く響いた。わぁ……ん……と残響がいつまでも引きずられるようにあちこちを飛び交う。何事かと近くに居た係員が視線を向けてきたが、二人は気にしなかった。

「さすがは市民ホール。旧音楽室よりもリヴァーブの具合がええね」

「まったくだ」

 高く広い天井に目をやって、柊二は笑った。

 文奈も嬉しそうに笑っていた。

「ホンマに柊二くん、ええ演奏するようになったわ。私の心にものすごく響く音やった。もう以前の柊二くんとは別人みたいやね」

「あれだけ練習したんだから、少しは変わってくれないと困る。それに、お前のために弾いてるんだから、響いて当然だろ」

 何をいまさら、と言わんばかりのその物言いに、文奈は自分の顔が瞬間湯沸かし器のように熱くなるのを自覚した。

「……あと、ものすごく恥ずかしいことをサラっと言うようになった。前はそんなこと言わへんかったもん」

「そうか? そんなに変わったか、俺」

「うん。かなり。何やろ、妙にとんがってたのがなくなった感じ」

「その辺は自分じゃあよくわからんけどな」

 呟いてぽりぽりと頭を掻き、椅子に座る。

 そのとき、文奈が何かに気づいたように舞台袖の奥のほうにさっとお辞儀をした。

 なんだ、と柊二がそちらに視線を向けると――

「母さん……」

 ここにいるはずのない彼の母親が立っていた。その傍らには妹もいた。

 もちろん招待などしていないし、音楽祭に参加することも知らせていない。それなのにどうしてここにいるのか、と柊二は怪訝な目つきで眉根を寄せる。

 母親は文奈に軽く会釈すると、ゆっくりした歩みで息子のそばに寄った。

「……どうしてここにいるんだよ」

「彼女に招待されたの。柊二がここでピアノを弾くから、ぜひにと」

「お前が……」

 余計なことを、と不機嫌な顔で文奈を睨む。母親との冷戦状態を知っているはずなのに、なぜこんなことをするんだという苛立ちが隠せない。

 しかし文奈は、にこにこしながらただ黙っているだけだった。

「柊二」

 母親は躊躇うような口調で息子を呼んだ。そうやって話しかけるのが久しぶりだと思わせる、緊張と戸惑いが混じる声だった。これだけでわだかまりの深さが見て取れる。

「何だよ」

 それは柊二も同じだった。久しぶりの会話で何を話していいかわからなかったし、話すこともないと思っていた。

 だから、母親の次の言葉がすんなりと耳に入ってこなかった。

「とてもいい演奏だったわ。頑張ったのね」

 その一言に、「は?」と柊二の喉から声が漏れ、思わず母親の顔を見た。完全に予想外のねぎらいを耳にし、一瞬何を言われたのかが理解できなかった。何だって、と訊き返そうとその口が開くより早く。

「それと……ごめんなさい。柊二の辛い気持ちを汲んであげられず、叱るばかりであなたを傷つけたことを謝りたいの。何を今更と思われても仕方ないのだけれど、ここであなたの演奏を聴いて、やっとそれがわかって……本当にごめんなさい」

「な……」

 柊二は自分の耳を疑った。母親の口から謝罪が出てくるなどと塵一つほども思っていなかったし、ましてや自分を褒めてくれるなんて想像もしていなかった。どれだけ頑張っても叱咤され続けた柊二が、ピアノをやめた数年後に初めて母親から褒められ、一度たりとも言ってもらえなかった「ごめんなさい」を聞くことになったのだ。

 その状態にどう対していいかわからず、柊二は戸惑ってしまった。視線はどこでもない場所を彷徨い、返す言葉が何一つ思い浮かばない。

「柊二……」

 黙りこんでしまった息子を複雑な表情で見つめ、母親は少し悲しそうに笑みを浮かべた。自身に対する柊二の嫌悪感は相当に根深いらしいと改めて知って、しかしそれが自業自得であることを理解している――そんな笑みだった。

「もしよかったらでいいのだけれど……またあなたの演奏を聞かせてちょうだい」

「…………。気が向いたらな」

「ありがとう。楽しみにしてるわね」

 吐き捨てるような柊二の返事にホッとして肩を揺らし、母親は目を細めた。そして文奈に向き合って深々と頭を下げて、舞台袖を去って行った。通路を曲がる間際に妹が嬉しそうに手を振って、文奈がそれに笑顔で応えた。

「はぁ…………」

 母親と妹の姿が見えなくなって少ししてから、柊二は長い長いため息をついた。

「余計なことしやがって」

「と言うわりにはスッキリした顔してるやん。和解できそうでよかったんやないの」

「すぐにってわけにはいかないだろうけどな。そのうちどうにかなるんだろ」

「そっか。よかった。妹ちゃんも一安心やね」

 ふふ、と文奈は頬を緩ませた。柊二の妹からこっそり頼まれた『仲直り』が上手くまとまって安心したこともあって、肩の荷が下りたような気がした。

「ったく、小学生が余計な気を使ってんじゃねぇって」

「それだけママとお兄ちゃんが好きなんやろうね。可愛いやんか。まあ、妹ちゃんに柊二くんは渡さへんけどな! 私を『文奈お義姉ねえちゃん』って呼ばしたるわ!」

「実の妹に対抗意識燃やすなよ……意味わかんねぇ」

 拳を握り締めて力強くライバル宣言した文奈に、呆れを通り越して疲れたツッコミを入れた。世の中には妹萌えというもんがあってやな、それがカノジョの天敵で、と力説するのを適当に聞き流して。

「……あー、なんだ。一応、礼は言ったほうがいいか?」

 柊二はぶっきらぼうな調子で問いかけた。話の腰を折られた文奈は特に気を悪くするでもなく首を横に振る。

「ええって。感謝されたくてやったことやないし。あ、でも、柊二くんがどうしても私にお礼がしたいって言うなら、仕方なしにさせてあげるのもなくはないで?」

「はっはっは。そんな言い方されると意地でも礼なんぞ言えねぇな」

「うん。せやから、言わんでええよ。私は私のワガママで勝手にやっただけやから、柊二くんはなんもせんでええねん」

「そうか。自分勝手で強引でお節介なヤツには言わなくていいか。

 皮肉な態度を一転させて真面目に頭を下げると、文奈はキョトンとしたあとに「押すなよ、みたいなネタ振りのつもりやなかったんやけど」と言いつつ、まんざらでもなさそうにしながらくるりとターンして、柊二の膝の上に腰掛けた。肩まで伸ばした絹糸のような髪がふわりと舞って柊二の顔を撫でる。

「おい、文奈……」

「柊二くん。一つ訊きたいんやけど、ええかな」

 少し顔を上げて天井を仰ぐようにしながら柊二に華奢な背を預け、問いかける。

「ピアノが嫌いやていう理由が解け始めたわけやけど、ピアノは続けるの?」

「…………」

 それに対する答えを、柊二はまだ持っていなかった。

 今日のためだけに必死になって、その先のことなど何一つ考えていなかったからだ。この先のビジョンが何もないというのは、つまり――

「続けない、だろうな。暇つぶし程度に弾くことはあっても、もうこんな大きな舞台で弾くことはないな。機会があっても多分弾かない」

「なんで? 頑張って練習してこんなに上手くなったのに?」

 予想外の返答に、文奈はもたれていた身体を起こし、慌てて顔だけ振り向いた。

 母親との不和を取り除けば、その枷に捕らわれていた柊二は自由にピアノを楽しめるようになると思っていた。だからこそ彼の妹の『お願い』を受けて手を回し、この音楽祭で彼の演奏を母親に聴いてもらったのだ。柊二の気持ちがこれでもかというほど詰まった演奏なら、母親の心を動かせると確信していたから。

 それは思い通りになって、母親と柊二はわずかながらも歩み寄ることができた。今や柊二を縛るピアノに対する負の鎖はなくなった――はず。しかし柊二は弾かないと言う。

 文奈は思いも寄らない展開に戸惑った。

「お母さんとのケンカも収まったんやし、ピアノが嫌いな理由がなくなったんやで?」

「それはそうなんだが……目的がないからな。俺はお前と違って、大勢の前で弾きたいという願いはない。今回はお前の分まで頑張ると約束したから必死になったけど、もともと俺は本気で弾き続けたいとは思ってないんだよ。……本気でなきゃ、文奈を近くに感じられないわけじゃないし」

 と若干恥ずかしいセリフを織り交ぜつつ、柊二は椅子の背に伸びた。

「目的……」

 言われた言葉を反芻し、噛み砕いて、眉間にシワを寄せつつ考え――文奈はふと思い当たってニヤリとした。

「んー? ということは、目的それがあったら本気で弾き続けるのもやぶさかやない、と?」

「あー……そうなるかな。よくわかんねぇけど。……ってお前、何考えてんだ?」

 気のない返事を聞いた膝の上の小悪魔ふみなの肩が小刻みに揺れていることに気づき、柊二は不穏な何かを感じ取った。くっくっく、と含み笑いすら錯覚で聞こえるような底意地の悪い顔が自分を見つめていて、背筋に冷たいものが走る。

「柊二くん、今日この場に私がおるのって、なんでやと思う?」

「俺の演奏を聴きに来た……ってだけじゃなさそうだな、その顔は」

「ふふふ。それはここにいる理由の八十パーセント。残る二十パーセントは……」

 もったいつけながら立ち上がり、二歩進んでくるりと振り返る。

「作曲の勉強をするために、こっちの専門学校……というか個人経営の音楽スクールみたいな感じのトコの入学願書を出しに来たから。一線級の作曲家が講師やから本格的やねんで」

「うん? 確か作曲には全然興味がないとか言ってなかったか? 記憶違いか」

 ピアノが弾けなくなって絶望したときにそうだと言っていたはず、と記憶を掘り起こす。ピアノ以外の専攻は眼中になくどうでもよかった、と。

「言うたよ」

 勘違いじゃない、と文奈はうなずく。

「そのときは確かに演奏以外に興味はなかった。でも、柊二くんに会って、オリジナル曲を聴いて、二人でライブ用にアレンジしたり間奏のソロを付け足したときに、作曲もいいかもって思った。やってみると案外面白かったし」

 柊二が授業を受けているあいだ、文奈は暇に飽かしてソロのメロディラインを考えていた。左手が使えなくても、右手だけで試行錯誤しながら弾いているうちに、それが楽しくなってきたのだ。このフレーズは柊二には難しいかも、でもいい感じだから弾けるようになってもらいたい、それよりまず気に入ってもらえるかな、と心が弾んでいた。

「――けど、そのときは今ほど本気やなかった。お遊び程度にええ加減な曲を作って、二人で弾けたらええかなって。でもそれじゃアカン、真剣に頑張ってみようって考え始めたのは、柊二くんの家に行ったあの夜やね」

「あの夜? ああ……」

 そういえば、と柊二。自身の不甲斐なさに落ち込んでいてそのときは聞き流してしまったが、確かに文奈は「私も頑張る」と言っていた。あれはそういう意味だったのかと今になって気づいた。

「なんというか、柊二くんに頑張れて言うなら、私も泣いてやんと頑張らなアカンなー、て。そう思った。で、なんやかんや言うても音楽が好きやし、どうせなら楽しくやれそうなそっちの道へ行こうって。それで、ちゃんと作曲を勉強しようと決意したわけでして」

「……なるほど」

 わかりやすい説明に柊二は二度うなずく。

 演奏家ピアニストは無理でも、作曲なら傷ついた左手のハンデはそれほど重荷にはならない。最近はコンピューターを使えば複雑な演奏も再現できる環境があり、そうやって作り上げた曲の楽譜を書き、そこに表れないニュアンスは言葉で演奏者に伝えることができる。奏者が文奈の意図を完全に理解できれば、彼女が演奏していると言っても遜色ないものになるだろう。

 確かにいいアイデアだと柊二は思った。文奈はやはり音楽と共にあってこそ輝く。それは半年に満たない時間でも十二分に感じていた。

 ただ、それには解決しなければならない問題が一つあった。

「それはいいとして、文奈の親はスクールに通うことを了承してんのか? お前には前科があるし、許可してもらえるとは思えないんだが」

「ええ。めっちゃ反対されましたが何か?」

「されましたか。そうですか。……ま、当然だな」

 何を当たり前のことを、と言わんばかりに答える文奈。はぅ、と頭を抱えつつため息を漏らす柊二。

「じゃあ、例によって強引に無断でやるつもりか? 二度目はさすがにヤバいだろ、どうなっても知らねぇぞ」

「まさか。私もそこまでアホやないって。ちゃんと親にはキッチリ説明して、真剣に頼み込んだ。本気やってことをわかってもらえるまで誠心誠意、根気よく話した。学費やら生活費も自分で何とかするからって。……それでも渋い顔されたけどね」

 言って文奈は笑う。その表情に悲観的な気配が微塵も感じられず、言葉とは違ってうまく説得できたのだろうと柊二は思った。

「その様子じゃ説得できたんだろ。よかったな」

「うん。さっきの柊二くんの演奏を聴かせて、『ふたつのはんぶん』みたいな弾く人によってそれぞれ違う、いろんな想いがいっぱい詰まった曲を作りたいねんって。そうしたら親も入学を承知してくれた。多分、柊二くんの音に何か感じるものがあったんやろうね。せやから、ある意味決定打は柊二くんってことになるかな」

「ちょっと待て。説得完了はついさっきなのか。……まあ、俺の演奏がお前の役に立ったんならよかったけど」

 文奈のためにと磨きをかけた演奏が、彼女だけでなく両親にも伝わったというのは、嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、少し複雑な気分だった。つまりは文奈を想う強い気持ちを彼女の両親に知られたということに他ならないのだから。

「なあ、ご両親は何か言ってたか?」

 なんとなくそれが気になって、思わず質問を口にしていた。

「ん? 柊二くんのこと? 私の彼氏やねんって紹介したら、お父さんがめっちゃキレとったけど気にせんでええよ」

「マジか……」

 あっけらかんと答えた文奈に絶望的なまなざしを向けて、柊二は暗澹たる気持ちになった。彼女の父が授業をサボって留年確定を隠していた娘を人前で殴り飛ばすような激情家だと印象付けられている柊二にとって、キレ散らかしている様を想像するだけで恐ろしくなる。

(俺の演奏を聴いたってことは会場にいたんだよな。ここに来たりしないだろうな……?)

「あー、大丈夫。お父さんもお母さんも、もう会場におらんから。それに柊二くんのことも話して、ちゃんと認めてもらえるようにするし」

 柊二が急に怯えた子犬のように周囲を警戒し始めたのを見てその心中を察した文奈は、べしべしと肩を叩きながら言って笑った。ほっと安堵のため息が柊二の口から漏れる。

「でも、そうか……。音楽はやめないんだな、文奈。それを聞いて安心した」

「一度は捨てようと思ったけど、そうせずに済んだのは柊二くんのおかげ。やっぱり音楽が好きで、捨てたくないって思い止まらせてくれたのが柊二くんの音やから。改めてお礼を言わせて。ありがとう」

「そうかしこまって礼を言われると照れるな……。まあ、親の許しも出たことだし、作曲の勉強、頑張れよ。応援する」

「もちろん」

 ニッと口の端を吊り上げて笑い、文奈は嬉しそうに芝居がかった仕草で両手を広げてやや上方に目線を上げた。

「頑張って勉強して、いい曲を作って……

「……は?」

 毎度のことながら唐突な宣言に柊二の思考が一瞬停止する。その反応が不服なのか、文奈は半眼ジト目で柊二を睨んだ。

「は? やなくて。私が曲に込めた想いを余さず音色にできるのは柊二くんしかおらんし。せやったら柊二くんが弾くしかないやん?」

「いや、ちょっと待て」

「せやからね? 

「ああ、そこに繋がってくるのか……」

 無茶で強引な展開に表情を強張らせ、柊二はげっそりと呟く。先ほどの「ピアノを続けるのか」という質問の答えが実質一つしかなかったことにようやっと気づいたのだ。他の選択肢を奪い、自分の望む答えに進ませるために周到に計画し行動していた文奈の相変わらずの策士っぷりとワガママっぷりにはため息すら出ない。

 しかし、それを続ける理由や目的にするのは悪くないと柊二は思っていた。彼女の音楽の中に自分がいることを当たり前だと思ってしまうくらいに。

 文奈が作る曲を弾けば、きっと彼女は嬉しそうに笑ってくれる。

 柊二がピアノを弾く理由なんて、後にも先にもそれしかない。

 ただ、彼女の笑顔を見るためだけ。

 ずっと大切な人の笑顔を見ていられるのなら――返事は決まっている。

「やれやれ、だ。連弾を迫ってきたときみたいな強引さは半年経っても健在か。どうせ嫌だって言っても聞かないんだろ?」

「よくご存知で」

 即答。柊二は思わず噴き出してしまった。

「……わかったよ。お前の作る曲は全部俺が弾いてやる」

「柊二くんなら、きっとそう言うてくれると信じてた」

 嬉しそうににぱっと笑って柊二の頭をぐりぐりと撫で回す。お返しとばかりに文奈の頭を撫で返し、柊二は苦笑を漏らした。

「よく言う。俺がうんと言うまでゴネる気だったんだろ。調子のいいこと言いやがって」

「私ってそういう女やもん。ワガママでお調子者で……」

「自分勝手で、言い出したら聞かなくて、俺を振り回して。知ってるよ、それくらい」

「うん」

 柊二の言葉に大きく何度もうなずいて、文奈は純粋無垢な幼い少女のような明るさに満ちた微笑みを見せた。

 それは、今まで柊二が見た中で、最も綺麗で心が温かくなる笑顔だった。



 ――二人の想いは、この先も旋律に乗って奏でられ、紡がれていく。

 そこに、ピアノがある限り。

 そこに、互いに通じる気持ちがある限り。

 二人の半分が一つの心になって、ずっと続いていく――




          終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二つの半分が奏でる音色 南村知深 @tomo_mina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画