第5楽章

 拍手の余韻がまだ聞こえそうな気配を残した旧音楽室。

 今ここにいるのは、柊二しゅうじ文奈ふみなの二人だけだった。無理に詰め込んだように部屋を陣取っていた大勢の聴衆は、演奏会が終了した今はもういない。しかしライブの最中にあった熱気は夏の暑さのようにまだ室内を満たしていた。

「やったな」

「うん。大成功やったね」

 疲れ半分、達成感半分で互いに見つめ合う。

 そして、どちらが言い出したわけでもなく、二人はおもむろに両手を上げた。

 約束通りのハイタッチ。


 ぱぁんっ!


 と景気のいい音が部屋に響いた。

 叩き合わせた手のひらがじんじんと痺れる。それでも触れる肌の温かさは伝わって、確かな感触に自然と笑みがこぼれた。

 文奈を見つめる柊二の瞳に文奈が映る。

 柊二を見つめる文奈の瞳に柊二が映る。

 そこに見える顔は、最上の笑顔だった。

「よっしゃ! ハイタッチの次は校歌斉唱や! 樋川ひがわくん、伴奏よろしく!」

「弾けるかそんなもん」

「えー……。まあ、私も校歌の歌詞知らんから歌えんけど」

「知らずに歌おうとしてたのか……」

 呆れてがっくりとうなだれ、しかし文奈らしいと苦笑する。

「ところで歌詞と言えば、オリジナルのときは驚いたよ。本気で焦った。練習のときと歌詞が違うんだもんな。もうちょっとで演奏止めるところだった」

 ハイタッチで合わせた手を離し、柊二はピアノの前に座って息をついた。

 文奈はピアノにもたれかかり、ごめんなー、と軽く謝ってからぽりぽりと頬を掻く。

「あれが本当の歌やったから。樋川くんのオリジナル曲を聴いたそのときから、ずっと考え続けて書いた詞やから。大事な人のことを想って綴った、私の気持ちそのもの」

「そうか……やっぱりな」

 その言葉を聞いて、柊二は心の中のもやが一つ消えたのを自覚した。

「お前、顔を合わせるずっと前から俺のピアノを聴いてたんだな。俺が弾いてるとき、いつも机の陰にいたんだろ」

「……ごめん」

 ぽつり、と申し訳なさそうに呟く。

 柊二がそのことに気づいたのは、文奈のある一言からだった。

 練習に詰まって遊びに行ったとき立ち寄った喫茶店で、彼女は言った。

「月光の第一楽章に感情がない」

 と。

 実のところ、柊二は彼女と出会ってから『月光』を。指慣らしのルーティンから『月光』を外して連弾の時間を増やすようにしていたし、ライブを決めてからは『ふたつのはんぶん』とオリジナル曲しか弾いていないのだ。

 それに、『ふたつのはんぶん』を初対面で文奈に弾いてくれと言われたとき、柊二が抱えるミスを彼女が全て聴き分けられるはずがなかったのだ。そのときはテンポを落として気負わず流したおかげで、のだから。

 それなのに文奈が『六カ所』と言い切れたのは、それ以前に何度も柊二のピアノを聴いていたからである。

 文奈はくるりと振り向いて、ピアノに背中を預けて天井を仰いだ。

「……授業サボって、何もやる気がなくて、ずっと旧音楽室ここに籠もって昼寝して。この部屋が使われる時は適当に他の場所で暇つぶしして、放課後にまた来て日が暮れるまで寝て。そんな毎日やった。二年になって普通科に移っても、ずっと同じ事してた」

 いつも寝床にしていた辺りの机を横目で見て、退屈そうに表情を緩める。

「けど、ある日、いつものように机の陰で昼寝してたら、ピアノの音が聞こえて来た。放課後は誰もぇへんはずやし、入口の鍵も閉めてたのに、誰かが来てピアノを弾いてた。先生やったら顔合わせるわけにいかんし、隠れてやり過ごしたらええわて思ったから、そのときはとにかく気づかれんようにじっとしてた。どうせ今日だけやって思ったから。でも、その日だけで終わらんかった。その誰かは、ほとんど毎日ピアノを弾きに旧音楽室に来るようになった。私はその間、ずっと隠れてた」

「それにまったく気づかなかったんだよな……俺」

 自嘲気味に笑って、柊二はかりかりとこめかみを掻いた。私のステルス性能をなめたらアカンで、と文奈がおどけ、二人で笑い合う。

 柊二がエアコンの件で室内を見回りでもしていればすぐに気づいただろうが、誰かが切り忘れただけだろうし、涼しいならそれでいいやと深く考えなかったことで、互いに顔を合わせないまま同じ時間を過ごすことになったのだ。

「まぁ、私も誰かさんが毎日来るってわかったから、その時間だけ別の場所に行けばよかったんやけどね。でも授業中と違って放課後は校内のどこに行っても人がおるし、知った顔に会ったら嫌やったから、ここで誰かさんの演奏を聴くことにした。子守唄にするにはちょっと下手やったから寝られはせんかったけど、少しずつ上手くなっていくさまを聴いてるんは暇つぶしにちょうど良かったし」

「人の必死な練習を暇つぶしとのたまうとは随分な言い草ですな、お嬢さん?」

「何言うてんの。自分も暇つぶしで弾いてるて言うたやん。ミスしても直そうとせぇへんし、必死にやってるようにも見えんかったで」

 う、と反論に言葉を失う柊二。その顔を見て、文奈はたまらず噴き出した。

「でも、あるとき、その人は私の一番好きな曲を弾き出した。『ふたつのはんぶん』。なんでこの人が知ってるんや、ってビックリした」

「それはこっちのセリフだ。あんな超マイナーな曲を知ってるやつがいるなんて思わなかった」

「マイナーでも名曲には違いないやん?」

「それは同意だ」

 うなずいてグッと親指を立てる柊二。文奈もウインクしながら応えた。

「……で、弾き出したはええけど、なんやそれってぶちキレそうなくらい下手やった」

 怒らんといてな、と媚びるように柊二を上目遣いで見る。

「当然だろ。最初は誰でも下手なんだよ」

「そんなレベルやなかったやん。手のひら裏返しで弾いてるんかと思った」

「そこまでか。そこまで酷かったか。……いや、そうかもな」

 散々な言われように反論するが、初めて弾いたときのボロボロっぷりを思い出すと、下手と言われても仕方ない気がした。ド素人ならまだしも、ある程度ピアノを弾ける人間の演奏ではなかったから。

「下手やったけど、それでも毎日続けて練習して、ちょっとずつ弾けるようになっていった。でもそれと同時に、どうしてもうまく行かへん箇所に焦れて、苛立って、気持ち悪い音になっていくのもわかった。……わかるねん。私も左手が思うように動かんで、今まで弾けてた曲が全然弾かれへんようになって苛立って、ちゃんと動いてるはずの右手が気持ち悪い音を鳴らすようになったから」

 白くて小さな右手を握ったり開いたりしながら、ふっ、と自嘲する。

「誰かさんが弾いてたのが他の曲やったら、別にどうでもよかった。弾けないからって投げ出して、違う曲を弾き始めても気にせぇへんかったと思う。けど、弾いてたんが私の一番好きな曲やったから、投げ出して欲しくなかった。楽しんで弾いて欲しかった。でも上手く弾けなくて、弾くことが楽しいと思ってないなって。本当に暇つぶしで適当にやってるだけやてわかって。それは嫌やったから……我慢できんで声をかけることにした」

 唐突に笑みを引っ込め、文奈は顔だけを柊二に向けてじっと見つめた。表情のない白い顔から覗く半眼の薄茶色の瞳の奥には、微かに悲しみの色が浮かんでいた。初めて会い、柊二からピアノが嫌いだと言われたときと同じ、憂いに満ちた色。

 そんな文奈を見ていることができず、柊二は視線をそらした。なぜそんな眼をするのかわからなかったからかもしれない。

「好きな曲だからいい加減な気持ちで弾いてほしくなかった、か」

「まあ、そんなとこ。今思ったら、上から目線で偉そうやね」

「その気持ちはわからなくもないけどな。俺だって好きなものをいい加減に扱われるのはやっぱり嫌だと思うだろうし。けど、俺みたいな素人を鍛えてどうにかなると思ったのか? 俺がやる気のあるやつだったらともかく、ピアノ嫌いなんだぞ」

「思ったよ」

 柊二の疑問に即答する。何を根拠に断言できるんだと返そうとしたが、文奈はそうさせまいと矢継ぎ早に続ける。

「初めてオリジナルの曲を聞いた時、なんというか……曲に込められた気持ちが音から溢れてるみたいで、すーっと心に入り込んできた。その時に思った。ああ、この人はピアノが好きなんやなぁ、って」

「…………」

「樋川くんはピアノが嫌いやて言うけど、嫌いなんは弾くのを強制されることで、ピアノそのものやないと思う。だってそうやろ? ホンマに嫌いやったらここに近づくこともなかったやろうし、オリジナルをあんなに気持ちよく弾くこともできへんはず。それに、私とあんなに上手く連弾できるはずがない。楽しくないのに連弾なんかできるはずないやんか。義務とか強制とか、連弾はそんなもんのためにするもんやないし」

 せやろ、と同意を求める文奈。しかし柊二は答えず、困った様子で押し黙ったままだった。

 パートナーから何も言ってもらえず、文奈は視線を落としてピアノの天板に映った自分の顔を見つめた。傷一つなく磨きこまれたピアノの天板はまるで黒い鏡のようで、覗き込んでいると周りの光が吸い込まれていくような錯覚を起こす。そのうち自分も吸い込まれるのかも知れないという気がして、少し怖くなった。それは多分、今自分が悲しい顔をしているからだろうと……そう思った。それを振り払おうと頭を振り、話し続ける。

「それで、どうやったら樋川くんに楽しんでこの曲を弾いてもらえるか、いっぱい考えて……やっぱり、ノーミスで完璧に弾けるようになったら楽しいやろうなって思って。そのためには苦手にしてる左手パートを集中して鍛えたらええんと違うかなって。でも、左手ばっかり練習するのは多分つまらんやろうから、二人で連弾しようって言い出したわけ。この曲はケガする前から弾いてたし、私は自由に動かせる右手のパートを弾けばよかったから、ちょうどええなって。その思惑が当たって、演奏会も成功したわけやし」

 先ほどの拍手の雨を思い出しながらうなずいて、文奈は笑顔を取り戻して顔を上げる。

「今やったら、樋川くん一人できちんと最後まで弾けるはずやと思う。楽譜をなぞるだけやない、私たちの旋律で」

 確信を声に乗せ、はっきりとそう言った。

 柊二は自分を真っ直ぐに見つめる茶色の瞳を見つめ返して――眉根を寄せていた。彼女の確信も、そんなことをする理由もわからなかったから。会って間もない見ず知らずの他人に対して、なぜそうまで執着しようと思ったのか。ただ自分が好きな曲だからという理由は、柊二にとって十分ではなかった。柊二が奏でる音色が気に入ったからという理由も、納得するには遠い。

「どうして俺なんだ。川代が理想だと思っている演奏が聴きたいなら、芸術科の上級者に弾かせりゃいいだろ。元芸術科なんだから知り合いの一人や二人くらいいるだろうし、そのほうが圧倒的に早いし確実だ。違うか?」

「……それ、本気で言うてるん?」

 その問いに、文奈は顔を強張らせた。酷く傷ついた表情で数瞬だけ柊二を見て、糸が切れた操り人形のようにかくんとうなだれる。否応なしに自分が映る黒い鏡を覗き込み、今にも泣きそうな自分を見て、先ほどよりも強い恐怖を感じた。その息苦しいほどの圧に押され、恐ろしくて涙が滲み始めた。

 だめだ、今は泣くときじゃない――と奥歯を噛みしめる。

「別に深い理由なんてあれへん。ただ、樋川くんがホンマはピアノが好きやのに、嫌いやて言うてるのが悲しいと思っただけやし」

「ウソつけ」

 言い訳だ、と柊二は直感した。文奈のその言葉には一片の真実も含まれていない。そう感じて何の感情もない視線を返すと、早々に「ごめん」と降参した。

「バレバレやね……。そう、今のはウソ。私は、好きな曲を好きな音で聴きたかっただけ。私には無理やから。……そう、ただのワガママやね」

 言って、できる限りの笑顔を作った。黒い鏡の向こうの自分も笑っていた。吸い込まれていく光を連れ戻すように。

「…………」

 柊二は沈黙していた。ただ文奈の顔をじっと見つめ、それも本心の全てではないだろう、とおぼろげに感じ取っていた。浮かぶ笑みがどこか無理をしているように見えたから。

「樋川くん。一回、一人で弾いてみてくれる?」

 言って文奈は、ピアノの天板に両手を重ね、そこに顎を乗せた。思いがけず座っている柊二とほぼ同じ目線の高さになり、理由もなくほっと安心した。無理した作り物ではなく、自然に浮かぶ笑顔になれた。

「弾いてみて?」

「……ああ、別にいいけど」

 答えて柊二は手元に視線を落とす。両手は無意識のうちに鍵盤の上に乗っていた。

「けど、ずっと右手パートを弾いてなかったからな……上手く弾けるかどうかわからんぞ」

「大丈夫。私が弾いてたみたいにすればいいだけやから」

「了解」

 無茶な軽い一言にうなずいて、柊二は深く息を吸い、吐いた。

 自信たっぷりな文奈の言葉にも、柊二のあっさりとした納得にも、一切の根拠はない。二人の間には明確な技量の差が存在し、柊二が。それは二人ともが認めている事実だった。

 しかし、不思議と柊二にはそれが越えられない壁だとは思えなかった。

 今ならやれる。大きな拍手を得た連弾と同じ旋律を一人で奏でられる。

 そんな確信めいたものが、少し潤んだ薄茶色の瞳に映り込んだ自身の中にこんこんと湧き上がってくる。

 文奈はこれから演奏を始める柊二の後ろに立って、右肩に手を置いた。自分の気持ちを注ぎ込むように、そっと。

 そして――柊二の指が、モノクロの舞台で踊り始めた。

 ブランクがあることを感じさせないほど滑らかに右手が動く。文奈の癖や感情の込め方も自然に再現していた。いつも左手が少し遅れてしまう箇所も変わらずだが、文奈がフォローしてくれていた通りに右手でテンポを合わせてカバーできている。まるで柊二の右半身が文奈になったかのような一体感――肩に触れる温かい手の感触を伝って、二人の全てが繋がっていく気がした。

 作曲者がこの曲に込めた想いとはまた違う、文奈の気持ち。右手だけで織り成してきた半分の想い。それが柊二の中に流れ込み、彼の半分の想いと同化して二人だけの旋律を奏でる。

 わずか三分程度の短い曲。

 しかし、二人にとってその時間は永遠に似たものに感じられた。いつまでも終わらない物語のように。

「……やっぱり、もたつくところは直ってないな」

 最後の音を響かせた手を舞台から下ろし、柊二は自嘲気味に言った。しかし、その表情には悔しさも焦りもない。あるのは純粋な笑みと、充実した気持ち。

「けど、そのほうが俺たちらしい感じがしないか。まだまだ未熟で、完成度も低くて、ミスもいっぱいあって。けど、なぜか納得できてしまう音」

「そう……かもね」

 応えるように文奈も笑った。潤んだ瞳から今にも雫がこぼれ落ちそうな、感情に溢れた微笑みで満ちている。

「樋川くんが言うとおり、原曲に比べたら下手で、プロからしたら聴いてられへんものかもしれんけど、この形が本当に私たちらしい『音』やと思う。作曲者が込めた想いとは違う、私たちの想いがいっぱい詰まった演奏やと思う」

「だな。原曲を聴いているより、自分たちの演奏のほうが気持ちいい気がする」

「私もそう思うよ。樋川くんの音……すごくいい。心の奥底にふわりと入り込んで、広がっていって、気持ちが温かくなっていく感じがする」

 こくりとうなずいた文奈は、柊二の肩に置いた右手に左手を重ね、両手に抱えた想いが全て伝わるようにと自身の手を見つめた。

「こんなに嬉しくなる演奏が聴けたのは……みんな樋川くんのおかげやね」

「そんなことはない。川代がいたからできたんじゃないか。お前が俺と連弾すると言わなかったら、こうはならなかった」

 そうだろ、と柊二は振り向いた。後ろに立っている文奈は小さく笑いながらゆっくりとかぶりを振っていた。その目から、透明な想いが一滴、こぼれ落ちる。

「ううん……。諦めてたこの曲を弾けたのも、私の思い描いた通りの旋律になったのも、全部樋川くんのおかげ。私だけじゃ何もできへんかった」

 瞳を涙で濡らし、精一杯微笑んで、柊二を後ろから抱き締めた。

「他の誰でもない、樋川くんの音に出会えて、本当によかった……」

 こぼれ落ちる雫が、真っ白な柊二のシャツの背に落ちて広がる。

 止まらない。

 涙も、想いも、止まらない。

「私……が好き。初めて顔を合わせたあのときよりずっと前から、私は柊二くんが好きやった」

 あまりにも急すぎる告白。

 雰囲気もタイミングも何もない、理屈抜きの大きすぎる想いの唐突なオーバーフロー。

「知ってる」

 柊二はそれに驚くことなく、真正面から受け止めた。

 連弾と文奈の歌。演奏会で見せた彼女の微笑み。

 それだけで、彼女の気持ちは十分に伝わっていた。

 言葉にされなくても、彼女の想いは全部わかっていた。

 触れた肩の温かさで、全て。

「知ってたよ。俺は……」

 その気持ちに応えようと、柊二は胸に回された文奈の華奢な腕に手を添えて――

「そこまで。何も言わんとって、。それと、ごめん。今私が言うたことは冗談やから忘れて。私なんかの言うことを本気にするような人はおらんけど、一応な」

 へへっとだらしなく笑う文奈の白くて細い手が、するりと柊二から離れた。いつもの冗談のようにさらっと流して、すぐ忘れてしまいそうなほどあっさりと遠ざかっていった。

 一瞬、柊二には何が起こったのかわからなかった。触れたはずの手の中が空っぽだということにすぐ気づけなかった。

 しかし身体は無意識に動き、離れて行く手を追いかけて掴んでいた。その確かな感触と体温が意識に伝わると同時に、椅子から立ち上がって振り返る。

 文奈は弱々しく笑っていた。雨に打たれ、頼るものもなく、しかし自分では何もできずに、ただ誰かの助けを待つしかない捨てられた子犬にも似た痛々しさを含んだ表情だった。言葉とは裏腹に、冗談にしたくないと強く願っている顔だった。

 それを見た途端、柊二の頭の芯に熱が入った。無性に悲しくて、無性に腹が立った。まったく彼女らしくない文奈の態度に、感情が加熱して燃えてしまいそうだった。

「ふざけんな。いいか、よく聞けよ」

 いつもの様子とは違う、燃えさかるほどの熱を持ちながら、逆に心の奥に凍てつくほど冷たく響く柊二の低い静かな怒声。本気で怒らせた――と文奈は思った。自分を睨みつけるその表情も、今まで見たことのない鋭さで突き刺さる。

 震えが止まらない。出会って以来、初めて柊二を心底怖いと思った。

 でも。

 怒って、呆れて、と思った。そうなることを強く願った。

 

 それだけは絶対に、守り通さなくてはならない。抑えきれずに溢れてしまった本心を冗談で覆い隠して、それ以上立ち入らせないようにしなければならない。

「…………」

 彼の目を見ていると、その意志が大地震のように揺らぐ気がして、咄嗟に顔を伏せて足元に視線を落とした。その先で、柊二の足が一歩踏み込んできた。やめて、来ないで、と心の中で絶叫する。それ以上は取り返しがつかなくなるから引き返して、と声なき懇願をした。

「俺はな、お前が言うこと全部を冗談に受け取るほど楽天家でもないし、好きだなんてこっずかしい言葉を本気以外の何でもない調子で言われて、それをあっさり忘れられるほどバカでもねぇんだよ。異性慣れしてねぇんだから、そんなこと言われたらバッチリ記憶するし、踊り出しそうなくらい舞い上がるに決まってんだろうが。非モテ男をなめんな」

「……っ」

 しかし柊二はその願いを粉々に砕いた。これ以上聞きたくないとばかりに文奈は頭を横に振り、空いた手で耳を塞ぐ。だが腕を掴まれていては片方しか塞げない。柊二の言葉は否応にも聞こえてしまう。

「前に、お前を好きになれって俺に言ったよな? よくもまぁ、俺の気も知らずにそんなことが言えたもんだと思ったね」

「やめて。それ以上言わんといて」

「いいや、言ってやる。何度だって言ってやるさ、壊れたレコードみたいにな」

 冗談めかした口調にはっきりと含まれる怒気。柊二は文奈が感じたとおり、本気で彼女の態度に腹を立てていた。

 今までどんなやつらと接して、どれだけの真剣な会話を笑い話にしてきたかは知らない。知りたくもない。これまで文奈が付き合ってきた連中のことなんか知ったことか。

 そんな連中よりもずっと、文奈の心の中をよく知っているつもりだった。わずかとは言え、まったくズレのない一体感を覚えるほど共に過ごした時間の中で、彼女のことは少なからず理解できるようになっていた。そのおかげで、さっきの告白も彼女のウソ偽りのない本心だとわかった。なぜ俺なんかを選んだ、と先ほど問いかけた時に酷く傷ついた顔をしたのも、その気持ちが強かったからだ。意図せず試すような真似をしてしまったが、それで文奈の気持ちがしっかり理解できた。

 それゆえに。

 

 それは――とても辛いことだった。お互いを想う気持ちが強くなるほど、その大きさの分だけ辛くなる。彼女がそれを恐れるのも仕方のないことかもしれない。柊二自身も、そのことを考えるとこれ以上は何も言わないほうがいいと頭では理解している。

 けれど。

 わかっていても止められないものもある。文奈が本心を抑えきれずに溢れさせたように、強く相手を想う気持ちは理性で抑えておけるようなものではない。

「これだけは言っておく」

 真っ直ぐに文奈の目を見つめる。逸らそうとする顔を強引に自分に向けさせる。少し涙が滲んで潤む茶色の瞳が自分を見ていることを確かめ――柊二は言った。

「俺もお前が好きだ。好きになれなんて言われる前から好きだ」

 これ以上なく、真剣に。

 愚かしいほど、純粋に。

 今の気持ちを、想いを、言葉に乗せた。

 文奈はどうしていいのかわからないと言うように、いつも笑顔でいる顔をくしゃくしゃにしていた。

 嬉しさ、悲しさ、後悔――いろんなものが心の中を駆け巡る。

「……ウソつき」

 掠れた声でそう言い返すのがやっとだった。震える唇が上手く動いてくれない。

「心にもないこと……言わんといて」

「こういうときにウソをつくのは嫌いだし趣味じゃねぇ。俺は本気で川代文奈が好きだ」

 改めてはっきりと言い切って、掴んでいた文奈の手を強引に引いた。今にも折れてしまいそうな華奢で小さな身体が柊二の胸に飛び込んでくる。

「お前がどうして自分の気持ちを冗談にしたがるのかはわかってる。ちゃんと理解してる。けど、それでも俺はお前とピアノを弾きたいんだ。それが一番楽しいんだよ。だからさ」

 驚いた顔で見つめてくる文奈を抱き締めて。

 離さないように、しっかりと。

 でも、強すぎないように。

 大切に。

 なくさないように。

「一緒に――二人で、ピアノ弾こうぜ」

 真っ直ぐに、何一つ偽りのない気持ちで文奈を見つめた。

「……ええの? ホンマにそれで? 辛い思いをするってわかってるのに?」

「いいんだよ。今がよけりゃ、それで。先のことなんかそのとき考えりゃいい」

 戸惑う文奈の不安を一蹴するように柊二は答えた。それでも文奈の表情からかげりは消えない。

「多分、そのときが来たらめっちゃキツいで……?」

「だろうな。正直、耐えられるかわからんし、平静でいられる自信は全然ない。引くほどカッコ悪いところを見せる自信なら売るほどある」

「えぇ……? 頼りないことこの上ないんやけど……」

「すまん。けど、それでもよかったら一緒にいてほしい。俺はお前と一緒がいい」

「…………」

 力強い言葉。彼の音色から感じていた安心感。それが、文奈の不安を覆い隠した。

 もう、何も考えられない。考えなくていい。

 この先に待つものが何であろうと、そのために膝を折るようなことになろうと、彼がそこにいれば大丈夫。彼となら乗り越えられる。

 文奈はそう思うことにした。

「うん……ありがとう……」

 温かく包み込んでくれる大切な人の腕の中で、嬉しさのあまり涙が溢れて止まらなかった。


          ・


 見つめ合う二人の鼻と鼻がくっつきそうな距離。

 ほんの少し、顔を突き出すだけで唇が触れてしまいそうな距離。

 微かな吐息さえも感じられる距離。

 今なら、その距離を縮めてしまえる気がした。

「川代……」

「あのな、柊二くん。こういうときは名前で呼ぶもんや。さっきみたいに」

「すまん川……文奈。慣れてないもんで」

「知ってる」

 笑って、文奈はそっと目を閉じた。

 柊二もそれに応えようと、少しずつ、ゆっくりと距離を縮めていった。

 緊張のせいか、文奈は人形になったかのように身体を強張らせ、きゅっと桜色の唇を結んでいた。柊二の腕の中で、その小さな肩が少し震えていた。

 小さくて、華奢で――でも、とても強くて、温かくて。

 何よりも大切にしたいと思うものが、今、自分の手の中にあって。

 絶対に離したくないと。離さないと決めた。

 その決意の証を、文奈の唇に――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る