第3楽章

 旧音楽室をあとにした二人は、学校を出て駅前の繁華街をぶらつくことにした。特にどこへ行くとも決めずに、足が向いたほうへ歩くだけの散策である。

 その間、二人はずっと話し続けている。

 旧音楽室で練習しているときは音楽のことしか話しておらず、雑談するのは意外にもこれが初めてだった。好きなタレントや映画、本やゲームなど、ありきたりながらも王道を行く普通の会話をした。

 ただ、音楽に関するものだけは話題に上がらなかった。息抜きのために練習を切り上げさせたのだからと、文奈ふみなはそれをわざと避け、柊二しゅうじも意図を理解して口にしなかった。

 しかし、幼少の頃からピアノしかやってこなかった柊二にストックされている話の数などたかが知れており、繁華街に差し掛かって間もなく話題が尽きてしまっていた。

 それでもしばらくは文奈が一方的に話していたが、実のところ彼女も音楽を除いた話題があまりなく、あっさりネタ切れになった。間を繋ごうと目についたものについて一言二言話してもすぐに会話が途切れ、やがて沈黙の時間が多くなった。

 柊二も沈黙を嫌って何か話せることはないかと辺りを見回し、ふとゲームセンターの賑やかな音が遠くに聞こえることに気づいた。文奈が先ほど自分は結構なゲーマーだと自称していたこともあり、暇つぶしにも気分転換にもちょうどいいと思った。

「ゲーセンがあるな。ちょっと寄ってくか?」

「んー……ゲームは抗し難い誘惑やねんけど……ちょっと疲れたし休憩したいかな。久しぶりにしゃべりすぎて喉が渇いたし」

 とゲームセンターがある方向とは反対側の通りに目をやった。つられて柊二が同じほうを向くと、シャッターが下りている個人商店に挟まれるように佇む、小さなうら寂れた喫茶店が見えた。あまりにも存在感がなく、文奈が見つけていなかったら前を通っていても喫茶店だと気が付かなかったかもしれない。そういうひっそりとした雰囲気を持った店だった。

「私、ああいう感じの店、好きやねん」

「わかる。目立たなくて寂れてるのに、やたらと凄腕のマスターがいて、コーヒーがすごく美味うまかったりするんだよな」

「そうそう。豆とか挽き方とか淹れ方とか、一切の妥協を許さずこだわり抜いた最高の一杯を客に出すんよね。まぁ、私はコーヒー苦手やから飲まへんけど」

「飲まなきゃ台無しだろ……それ……」

 などと勝手な想像で盛り上がりながら移動し、喫茶店の前で看板を見上げた。

 『喫茶 リリアンナ』

 随分年季の入った店らしく、木の柱は黒ずみ、板壁も風雨にさらされて傷み放題だった。しかし窓ガラスは完璧に磨き上げられていて曇り一つなく、そこから見える店内も不潔感は一切ない。古いのではなく古めかしく見せている、しかもそれをあからさまに感じさせないさりげなさのバランスが見事な仕様だった。

「良い勘してるぜ。ここはアタリかもしれんぞ」

 期待するように少し弾んだ調子で柊二が言うと、文奈は嬉しそうに目を細めてドアを開けた。ちりりん、と控えめなドアベルが鳴り、カウンターのスツールで暇そうにしていたエプロンドレス姿の小柄な女性店員が慌てて立ち上がると、「いらっしゃいませ」と笑顔で二人を迎えた。

 外見に負けず劣らず内装も古く狭かったが、店内にかかっている静かな曲が寂れた雰囲気にマッチしていて、ほっとするような落ち着きを生み出していた。その古さと落ち着きに似つかわしいゴシック調のテーブル席が三つとカウンター席があり、これまた雰囲気のある頑固そうな中年のマスターが気難しい感のある顔でサイフォンを磨いていた。ここまで『コーヒーの美味しい喫茶店にありがちな条件』が揃っていると、現実味を失って映画の世界に迷い込んだような錯覚を起こしそうになる。

「お好きな席にどうぞ。どこもかしこもガラガラですので座りたい放題です」

 見た目とは違って軽い口調でそう言って、マスターは店内を指した。

 そんな自虐っぽい軽口を笑いながら二人が一番奥の窓際のテーブル席に着くと、女性店員が嬉しそうにオーダーを取りに来た。その張り切りようを見ていると「味には自信があるから任せて!」と言わんばかりで、軽口を叩きたくなるほど繁盛していないのは決して味が悪いからではなさそうだと、文奈はますます期待感を持った。注文を済ませ、ニコニコと上機嫌な店員の背が厨房に消えるのを見送り、正面に座るパートナーを見て――眉をひそめた。

「……?」

 柊二はぼんやりと窓の外を見ていた。入店前の様子とはガラリと変わっていて、酷く沈んだ表情になっている。何か思い悩んでいるような、そんな気配を感じた。

「どうかしたん? 樋川ひがわくん」

「ところでさあ、川代かわしろ。一つ訊きたいことがあったんだけど、いいか?」

 表情からは想像できないほど軽い物言いに、なんでもどうぞ、とテーブルに両肘をついて手に顎を乗せ、次の言葉を待つ。柊二はずっと表の通りに目をやったまま、ぽつりと言った。

「なぜ、あんなにピアノが弾けるのに普通科なんだ?」

「…………」

 口調とは真逆の、ずばっと切り込んだ柊二の質問に表情を強張らせ、文奈は眉間のシワを深くした。せっかく気を使って音楽の話を避けていたのに、と正面の憂鬱そうな横顔を睨む。しかし柊二は窓の向こうを眺めたままで、その視線に気づかなかった。

「話すネタがないからって、ここでその話題を出す? 空気読んでくれへん?」

「悪いとは思ってる。けど、できれば答えてほしい」

「それは必要なことなん?」

「多分」

「多分、て……」

 そんないい加減な、と思う文奈。しかし柊二にふざけている様子はない。

 音楽の話題は別に構わない。柊二も自分もそれしかないから仕方ないと思う。しかし、それが表層の浅い話ならともかく、文奈の深い部分に関わる事となれば話は違ってくる。

 ここでギャグに走るか、真面目に話すか。

 文奈は少し考え、表情をすっと引き締めて――ぽつりぽつりと話し始めた。

「……願書の記入を本気で間違えたんよ。入学式の直前で気ぃ付いて、間違いやったって学校に言うたけど遅かってん。で、不本意ながら普通科に」

「それは前に冗談として聞いた。真面目に訊いてんだ、俺は」

 今の文奈の話をネタだと決めつけバッサリ切り捨て、柊二は運ばれて来たアイスコーヒーにストローをさした。そして正面の引きつり笑いをじっと見る。

「本当の理由が知りたいんだよ」

「なんで冗談やて決めつけるん? ホンマのことかも知れんやん」

「ありえないんだよ。普通科と芸術科じゃ、入学願書の提出日も違えば入試の日もテストの内容もまったく違うんだ。気づかないわけがない。俺は、川代は間違いなく芸術科で入学したんだと思ってる。うちの芸術科……特に音楽専攻クラスは全国から生徒が集まることでも有名だからな。川代もその一人だったんじゃないのか?」

 アイスコーヒーには口をつけず、真っ直ぐに薄い茶色の瞳を射抜くように見つめて問う。文奈はその視線を真正面から受け止め、薄笑いを浮かべていた。

「もしそうなら、私は芸術科に所属してるはずやね。でも間違いなく普通科の生徒やで? ほら見て、学生証も普通科のものやし」

「芸術科でついていけないと思った生徒が、学期の途中であっても普通科に編入することもある。実際、俺のクラスに二人、元芸術科そういうやつがいるんだ」

 差し出された学生証に目もくれない柊二のその言葉に、文奈は苦笑しながら顔を伏せた。手元の証明写真に写る自分が不機嫌そうに自身を睨んでいる。もっと上手いウソつかんかい、と怒られている気がした。

「ずっと疑問に思ってたんだ。どうして連弾するのに、川代は右手のパートを受け持ったんだろうって。聴いてりゃわかることだけどな、俺は左手より右手のパートのほうが、ミスが少なくて上手く表現できるんだ。もし本気で文化祭に間に合わせようとするなら、俺が右手パートを受け持ったほうが早いし確実だ。そうだろ?」

「……うん。そうやね」

 柊二自身が認めている事実を違うと否定したところで無意味だと思い、文奈は素直にうなずいた。

「確かに樋川くんは右手のほうが弾けてると思うよ」

「にもかかわらず、だ。あれだけ文化祭にこだわっているのに、川代が右手パートをやるってことは、そこに何か理由があるってことだ。それこそが、川代が普通科にいる理由だと……そんな気がするんだ。この推測に根拠はないけどな」

「…………」

 レッスン中のような真面目な顔でとんでもなく飛躍した推理を披露され、文奈はしばしのにらめっこののち――小さく息をついた。

「……ひょっとして樋川くんって超能力者エスパー? それとも私のこと調べた?」

「どちらも『ノー』だ。どうして普通科なんだろうって考えていて、この結論に達した」

「せやったら……ええアタマしてるわ。途中が飛躍してるけど、そこからその結論に達したのは凄い。探偵になれるで」

 おちゃらけたようにヒョイと肩をすくめて皮肉に笑い――文奈は唐突に表情を消した。

「そう。確かに私は芸術科の落ちこぼれドロップアウトやねん」

 表情とは真逆に軽い調子で言って、遅れて運ばれて来たココアを一口含み、ゆっくりと飲んだ。上に乗った生クリームを溶かさずに飲むココアは想像以上に苦くて、しかしそれが今の心境を表しているようで、その苦味が妙に心地よかった。

「私が右手のパートをやってるのは、。楽譜を全部覚えてないとか、練習が足らんとか、そういうんやなくて」

 と左手をテーブルの上に差し出した。乱暴に触れるとすぐにでも折れそうな、繊細なガラスのような白く小さな手。その人差し指と中指の付け根にある大きな傷痕が否応にも目に付く。

「私は小っさいときからピアノをやってて、将来はピアニストになって、大勢の人の前で演奏するのが夢やってん。せやから有名な音大入学者数が段違いに多くて、著名な演奏家を何十人も輩出してる芸術科のある高校に進学するために、わざわざ関西から家族で引っ越して来た。親の仕事は転居の自由の利く職業やったから、その辺も問題なかった。入学してから、私の勉強もピアノの練習も順調そのものやった」

 上手くいっていることを語るには不似合いな苦々しい表情で、しかし口調はあくまでお気楽な調子を崩さず、文奈は一呼吸置いて言葉を続ける。

「けど、去年の夏休みのこと。自転車に乗ってるときに、急に前が見えんくらいの豪雨に遭った。瞬く間にずぶ濡れになって、これはアカンって急いで帰ろうとスピードを上げた瞬間、濡れたマンホールの蓋でハンドルを取られて滑った。それはもう、お笑い芸人のコントみたいに派手にコケて吹っ飛んで、アスファルトの地面に思い切り左手を叩きつけた」

 こんな感じかな、と手の甲をテーブルにごつんと落とす。それだけで文奈の手が砕けてしまうのではないかという錯覚に、柊二はビクッと身体を震わせた。

「中指は脱臼と剥離骨折、人差し指は折れるだけやなしに激しく地面に擦り付けたせいで、ちぎれて取れる寸前っていう大ケガ。ついでに右足もポッキリと折れてた。まぁ、頭も打ってたし、痛みとか感じる前に意識が飛んでたから、気がついたら病院のベッドの上で、自分がどういう状態やったかは母親から聞かされて初めて知ったんやけどね。憶えてるのは、曇天の灰色と耳に残る激しい雨音だけ……」

 と文奈はへらへらと不真面目に笑った。想像を超える痛々しい話を他人事ひとごとのようにだらしなく語るその様子に、柊二はどういう顔をすればいいかわからなかった。しかし、同情するような反応は嫌がりそうだと思い、こちらも天気の話でも聞いているような何気ない態度で黙することにした。少なくとも、この話が終わるまではそうしようと決めた。

「これもあとから聞いた話やけど、コケた直後に誰かが救急車を呼んでくれて、すぐに病院に連れて行かれて緊急手術した。ありがたいことに搬送が早かったおかげでそれは成功して、足の骨も取れかけてた指も上手いことくっついて動くようになった。けど、手術した指は二本とも握力が落ちてしもて、かろうじて物を掴めるかな、ってくらいにしか動かんかった」

 ココアのストローをつまんで持ち上げ、ストンと落とす。それを三度繰り返して、そのときはこんな感じやったわ、としみじみうなずく。

「それでもリハビリで元に戻ると信じて頑張った。ピアノ弾きたいから、必死になって頑張った。その甲斐もあって、数ヶ月で日常生活に支障がない程度には回復した。進級できるようにと学校が病室でできる課題を用意してくれて、それもキッチリ仕上げた。けど――」

 言葉が途切れ、文奈の口が真一文字に結ばれ、目元にぐっと力がこもる。そのときのことを鮮明に思い出してしまったのか、笑って話せるラインを越えてしまったようだった。

 少し、無言の間があった。

 柊二は何も言わず、わずかに視線を落とした。テーブルの上に置かれた白い両手が視界に映り込み、右手の指が左手の傷を撫でているのが見えた。

「ピアノはもう無理やて医者に言われた。以前のレベルにはもう絶対に戻れへん、って。それは最悪の一言やった。ピアノ専攻クラスやのに、それが弾かれへんようになったら芸術科にいる理由がなくなる。同じ芸術科音楽クラスには、楽器製作とか調律師とか作詞作曲なんかの音楽に携わるコースはいろいろあるけど、そんなんにはまったく興味あれへんかった。私はただピアノが弾きたいだけ。それ以外に何もない。でも、それができんようになったから……二年から普通科に移ったわけ。……なんでスッパリ諦めて地元に帰らんかったかは正直自分でもわからんけど、そのときは根拠もなしに『今この高校を辞めたら死んでも後悔する』って思ったから、意地でもここに居残るって親にゴネた。そうしたら、普通科でもいいから卒業まで通えばいいと親は言ってくれた」

 掘り起こした辛い過去を少しでも早く放り出そうという気持ちの表れなのか、早口で一気に言って、文奈は足りなくなった空気を大きく吸い込んだ。そしてゆっくりとそれを吐く。

「……で、普通科に移ったはええけど、ピアノが弾かれへんショックが自分で思ってた以上に大きくて。覚悟して受け入れたつもりでも、やっぱり落ち込んでなんにもやる気せぇへんようになって……何もかもが面白くなくなった。好きやった学校も面白くなくなった。辞めたくないって言うた手前、登校せんわけにもいかへんから毎日ちゃんと学校には来るようにしてるけど、まぁ、樋川くんも知っての通り、授業はほとんどサボってる。九分九厘、卒業どころか三年にもなれんやろうなぁ。せめて卒業くらいは、ってワガママ言うて通わせてもらってんのに、そんなことが親に知れたらシバかれて終わりやね。どうしよう?」

 冗談めかして肩をすくめ、文奈は泣きそうな顔のまま豪快に笑い飛ばした。

「…………」

 自分から訊いておきながら、想像をはるかに超えたヘビー級の返答に何一つ答えることができず、柊二はただ沈黙していた。先ほどから続けているいい加減な態度を取りながら聞くのがやっとだった。

 文奈も柊二の返事がほしいわけではなく、一方的に話し続ける。

「終わり――うん、私は別に終わってもよかった。何の根拠もなしにここに残るって言っただけやし、それがわからん以上はどうでもよかった」

 はは、と自嘲するように吐き捨て、天井を仰ぐ。

「ホンマにどうでもよかった。そう思ったはずやけど――。ワガママで残ってよかったと思うことが見つかった。無意識に私はそのことを予知して残ったんやないかと思うほどやったね。もうこれは運命やとさえ感じた」

 話すうちに表情が変わり、心の底から嬉しそうに文奈は微笑んだ。少し照れくさそうに見えるその顔には先ほどの曇りはもうどこにもなく、落ち込んでいる様子など微塵も感じさせなかった。彼女は『ピアノを弾けない』という事実を、最早過去のこととして完全に受け入れてしまっていた。それがわかる、明るい笑み。

「…………」

 そんな文奈にどう声を掛けていいのかが未だわからず、柊二は黙って言うべきこと探していた。

 そんな話をさせてしまったことを謝ればいいのか。乗り越えられてよかったと同じように喜べばいいのか。

 迷いと焦燥がじわじわと広がり思考が空回りする中、ただひとつあるのは、まずいことを訊いてしまったという自責の念だけ。

 わざわざ音楽のために遠い土地へ引っ越してきて、唐突にその目的がなくなってしまった。

 大切にしてきた夢が、壊れて消え失せてしまった。

 もっと落ち込んでいてもいいはずだった。笑えなくなっていてもおかしくないはずだった。楽しくもない学校に惰性で来て、授業に出もせず一人で旧音楽室にこもり、ただ時が過ぎるのを待つだけの日々。そんな無為な毎日では、自身の存在意義すら見失ってもおかしくないはずだった。

 それなのに、どうしてこんなに綺麗に笑えるのだろうか。触れると壊れそうな細く華奢な彼女の中に、なぜそこまでの強さがあるのか。彼女を支えているものは――『見つけた』ものは一体なんなのか――

「今度は樋川くんの番やね。理由、聞かせてくれる?」

「え? 何が……?」

 考えることに没頭していたせいか、一瞬言われたことが理解できずに思わず問い返してしまった。そんな彼に文奈は笑顔のまま、質問を繰り返した。

「次は樋川くんがしゃべる番。ピアノが嫌いやって言うてたやん。なんで?」

「…………」

 言いたくない――

 まずそれが柊二の意識を占めた。

 彼女のように、もう過ぎたことだからと笑えるほど自分は強くない。それに、文奈と違って、どうしようもなく抗えない事態に直面して、離れたくないのにピアノから遠ざかるしかなかったというような深刻な理由があるわけではない。彼女に比べれば本当にどうでもいい、取るに足りない理由――「もういい」と言われたからやめた、というものしかない。

 その程度のことなら、同じように軽口を叩いて「親に強制されてたけど全然伸びないんで見限られちゃったんだよね」と笑い飛ばせばいい……と思う。しかし、それができればこんなに苦悩しない。嫌いだと言いながらもピアノを弾く以外に何もできず、放課後に旧音楽室に通うという自分のつまらなさと矛盾を認められない安っぽい意地を知られるのが嫌だったのだ。

 同時に、自分だけ秘密を話さないのは後ろめたい気がした。先に文奈の過去に踏み込んでおいて、逆に踏み込まれたら拒絶するというのは間違っている気がした。少なくとも、思い出すのも辛いはずの過去キズをさらけ出してくれた彼女にだけは、それをしてはいけない――そう思った。

 柊二はミルクもシロップも入れていないアイスコーヒーを一息で半分近く飲み下し、その強烈な苦味と香りで沈む気持ちを叩き起こした。

「俺は……親に無理矢理やらされてたんだよ。けど、なかなか上手くならないからってあっさり見限られた。やめたいと言っても聞いてもらえず、六年も辛いレッスンを強要しておいて、見込みがなくなったからとあっさりポイ、だからな。それでピアノが嫌いになったんだ」

 と簡潔すぎるほどにまとめた。

 しかし、たったこれだけのことを口にしただけでも、心の奥のドロリとした暗い感情がざわついて、理性をじわじわと揺さぶる始末だ。文奈のように長々と昔を思い出していたら、おそらく平静ではいられなかっただろう。それを抑えつけるために、残ったコーヒーを一気に空にした。二度目の苦味は先ほどよりもずっと弱く、このままでは暴走を抑えられずにその感情を起こさせた文奈を攻撃してしまいそうな気がした。柊二は店員に特段に苦味の強いエスプレッソを注文し、ささくれようとしている心を落ち着けるために大きく息を吐いた。

 文奈はうつむく柊二を見つめ、そんなことやろうと思った、と呟いて、続く言葉を探すように少し間を取った。そのタイミングを計ったかのようにBGMが途切れ、次の曲が天井近くにあるスピーカーから流れて、沈黙に包まれた二人の間を縫った。

「――この曲ええよね。『夢のあとに』。好きやわ」

 文奈が呟くと、ピアノとチェロが織り成す美しく感傷的な旋律が古びた狭い店内を舞い、ゆるりと泳ぎはじめた。それを楽しむように目を閉じ、文奈はじっと音楽に耳を傾けながら柊二が話せる状態になるのを待つ。

「お待たせしました」

 店員がエスプレッソを運んでくると、柊二はやけどするのも気にせずに一気に喉へ流し込んだ。店員はその様子を不思議そうに見ていたが、なにやら事情がありそうだと察し、邪魔しないようにと厨房へそそくさと去って行った。

 その背を見送った文奈は、テーブルに落ちたグラスの水滴を指で伸ばしながら小さく息をついた。どうやら柊二から話そうとはしないということがなんとなくわかったのだ。

「無理にやらされてたから嫌い……か。せやね、樋川くんの演奏からは感情が伝わって来ぇへんもんね。見せかけだけの、技術に頼った感情しか感じ取られへんのよ。『月光』の第一楽章がええ例やね。ただ楽譜を追うだけで機械的に弾いてるし」

「…………」

 普段、ウォームアップ後半で弾いていた曲の欠点が完全に見透かされ、指摘された。

 しかし柊二は意外だとか腹が立つとかいうことはなく、言われた通りだなと思っていた。しぶしぶやっていたレッスンで「感情を込めろ」と言われても無理な話だ。見せかけの技術に頼った感情しか出ないのは当たり前である。心から気持ちを込めて弾きたいと思うほど演奏が楽しくなかったから。

「一つ訊いてもええ?」

「……ああ」

 柊二がうなずくと、きゅっ、とココアのグラスの縁を指でなぞって問いかける。

「私と連弾するの、楽しい?」

「……どうだろう」

 曖昧に返事を濁し、考える。

 ピアノは嫌いで、弾いていても楽しくない。上手く弾けないからということもあるが、弾くこと自体を楽しいと思うことはない。これはいつもと同じ、何も変わらない。

 しかし、文奈といるとなぜか練習に集中できている。うまく指が動かなくても、ミスや手抜きをバッチリ指摘されてもやめたいと思わず、むしろ上手く弾けるようになりたいという気持ちになる。

 それはなぜか。

 多分、きっと――

「私、樋川くんのこと好きやで」

「んぶッ!」

 考え事をしながら飲んだ水を、文奈の唐突な告白で思いっきり噴き出した。口につけていたコップに噴き戻す形になったので正面の文奈にぶちまけずに済んだが、柊二の胸元やテーブル上はちょっとした惨状になっていた。

「なっ……なななななななナニをおっさいますやらッ⁉」

「せやかて、ホンマのことやもん。しゃーないやん」

 おしぼりで撒き散らされた水を拭き、文奈はあっけらかんと言った。その顔にはウソのような本気のような、どちらとも言えない笑顔が貼り付いていて、彼女が何を思ってそんなことを言ったのかを窺い知ることはできない。

「私と連弾するのが楽しいって思うには、私のことを好きになるのがええと思うねん」

「……どういう理屈だ……それは……」

 口の周りに付いた水滴を拭きつつ、柊二は憮然と呟く。そんなに変なことかな、と文奈。

「ま、理屈はどうあれ、連弾が楽しいって思ってないと上達せぇへんと思うんよ。それに二人の息を合わせなアカンし。この曲はお互いが完璧にシンクロしてやんと綺麗に聞こえへんし。せやろ?」

「確かにそういうことがある気がしないでもない。……のか?」

 一理あるようでいて、単に上手く言いくるめられているだけのような気もする。どちらとも言い難く、柊二は素直にうなずくことができなかった。

 文奈はその曖昧な同意を強引に完全同意と解釈し、

「ん。そういうわけやから。私のこと、好きになって?」

「いや、だから、その思考の飛躍はありえんだろ……。何考えてんだよマジで……」

 笑顔で迫られ、柊二は返答に困ったまま硬直していたのだった。


          ・


 ――好きになってくれと言われても困る。

 無理なんだよ、それは。

 今から好きになるなんて。

 無理なんだ。


 旧音楽室で出会ってから、たった二週間。

 肩が触れ合う距離で、毎日数時間を過ごした。

 たったそれだけで、放課後が待ち遠しくて、授業をサボってでも早く旧音楽室に行きたいと思うようになった。とにかく文奈と練習したいと思った。

 ピアノが嫌いなのは相変わらずだ。

 でも、ピアノの前にいれば文奈と一緒にいられる。

 文奈と一緒なら、ピアノも楽しいと感じる。連弾も楽しくやれる。

 嫌いで仕方なかったピアノが、何よりも大切だと思える。


 そのことを、さっきの文奈の問いかけではっきりと自覚した。


 上手く二人のリズムが合ったとき、彼女は無邪気な子供のように、本当に嬉しそうに微笑む。

 その笑顔を見るのが何よりも嬉しくて、楽しくて――


 柊二は思う。

 全ての色を失った灰色の世界に咲く、色彩豊かな一輪の花のような――何よりも鮮烈で麗しい文奈の笑顔のために、ピアノを弾きたい。

 俺が弾けば、彼女が微笑むから。

 彼女がそばにいてくれるから。

 彼女の笑顔が見たいから。

 ただそれのために、ピアノを弾きたい――と。

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