第2章 園平大陽の事情


 …――雲におおわれてるわけでもなさそうなのに…

 暗く高い天空には、太陽も月も、星も見あたらない。

 人工衛星の閃きすら、確認できなかった。

 飛んで行く飛行機の姿や痕跡もなくて…

 ただ、対岸の陸地のむこうに広がる地平が、なんとなく明るい。

 わずかに白いように思えるていどで、朝焼けの前兆とも夕焼けのなごりともつかないが、もしかしたら、そちらが西か東か。

 もしくは、その方に街があるのかもしれない。


 どうあれ、こちらの陸によじ登ってしまったのだから、すぐ向こうへは渡れない。

 左右からおしよせてきた水が対岸との狭間でうずを巻いていて、そこそこに距離があるので、跳躍して渡れるようなものではなかった。

 最大時の鳴門のうず潮ほど大きくないかもしれないが、へこんだ中央に死角ができて、見えなくなるほど速い流れだ。

 ちょうどいま、彼がいる場所の横合いに一つ、おし寄せる水の交流地点があったが…――油断して眺めていると、勢いのあるそのへんの動きに吸いこまれそうな気分にもなる。


(…ここまで来るかな? もうすこし、登るべきか…)


 高い方…高い方へと、木立の中を移動しながら、みぎわから大きく離れることもなく…。眼下のようすをうかがっているのは、白い開襟シャツに灰色っぽいズボン姿の金の髪の少年。

 園平大陽だ。


 少し前までは、ぬかるむ低地を駆け、岩壁に足場を求めてすがり、とり付いて、より高い場所を目指していた。

 幾度も滑落しそうになったが、破滅すれすれの行動選択の結果、どうにか木々が大地にはびこっているあたりまで登りつめたのだ。

 とにかく必死だったので、経過の子細はいちいち覚えていないが、スリルが過ぎて二度は経験したくない体験だった。

 そしていまは、「そこまでは来ないだろう」という彼の予測を無視して、下方の岩にはりついている巨木の根をおびやかしはじめた水の動きを、心許なげにうかがっている。


(…毒蛇とか、熊とかいないだろうな…)


 手近な幹にそえた自分の手に、ちらと視線を走らせた大陽は、あきらめがちに肩をおとした。

 所持していると思っていた通信端末スマートフォンは、手元になかった。

 時節を確かめるすべとして、いま彼が目を向けたのは、時刻を示すフレームの中に、曜日計、日計、二四時計の小さな針表示インダイヤルと月暦が配置された腕時計。

 中学の入学祝いに母がくれたクロノグラフは、ソーラー式で、衝撃にも強い、全天候性・耐水性のはずなのに、秒針が動いていない。

 何度か確認しているが、壊れているようだった。


 日付は、某年の九月十日。午後一時二分で静止している。


 壊れた時計が示す暦が確かで故障したのが今日ならば、園平大陽は、次の大晦日で十三になる予定の満十二歳。

 たぶん、どこにでもいる、ごくふつうの中学生である。

 悩みをいうなら、UVケア用品の使用が噂されるほど日差し焼けしないこと。

 それに、冬場に暑さをおぼえる特異な体質だ。

 彼自身はそれを、気温の変化に強い自分が冬は厚着して、まわりに合わせているからだろうという、こじつけまがいの分析で自己解決することにしていた。

 冬、防寒着もなく、年がら年中、薄手の長袖一枚で平気な自分がおかしいのかもしれないという認識はある。

 夏の暑さには破天荒なまでに強く、特に皮膚が厚いわけでもないのに、熱いものに触れて、火傷した経験もない。


 うろ覚えながら今の半分くらいの歳の頃は違っていたような意識はあり、火に対する恐怖心がまったくないわけではないのだが、いつの間にか、こうなっていた。

 れとは恐ろしいもので、いまでは炎を間近に見てもあまり危険を感じない。


 平熱は平均値で、体温調節できずに倒れるということもないので、少なくとも病気ではないと…――彼自身は、そう思っている。

 こんなふうに変わっていることが、異常につなるのかどうか?

 幸い、大衆の感覚では、あまりにも日常からかけはなれた現象のようで、うっかり口をすべらせても冗談や軽口、ある種の強がり、変わり者の目立ちたがり屋根性と受け流される。

 気をつけてさえいれば、火に触れても火傷しない事実をはぐらかすのは、そんなに難しいことではなかった。


 夏と冬…。照射量の差くらいはわかる。

 気温がどうあろうと、体感温度は変わらないように思うのに、それを強く主張すると、病院に行くことを勧められる。

 これと示される医療機関には精神科も含む。

 それが世間一般の感覚、常識であることを理解した大陽は、その種類の疑問をめったには口にしなくなっていた。


 世の中には、あやしい特技を持ってる人間がそこそこ存在する。

 冬場に半袖短パンで野外を出歩いたり、ランニングしている人たちは、自分と同じ体質なのではないかと疑っていたし、

 たぶん、自分は病気でも新人類ニュータイプでもない。

 たとえ、一般的でないのだとしても大陽は、そう信じたいのだった。


 そんな彼の父親は、整体整復を趣味にしている大学助教授で、母は動物美容師トリマーだ。

 息子の温度感覚に対する反応は周りと変わらないので、両親彼らが自分と同じ体質なのか、大陽にはわからない。

 夏になると、だらだら汗をかいているのも見かけるが、平気な彼としては、それを世間に合わせた偽装ではないかと疑っている。

 どうやったらそのように装えるのか気にならないこともないが、不快な思いをしてまで、そうしたいと思わない。なので、それとなく詮索したことはあっても、深く追求したことはなかった。


 共働きのかぎっ子で、いとこなら身近にいるが、兄弟姉妹はいない。

 度を越えないレベルのノルマなら、熟すのが苦にならない性分に、中途半端な負けん気を備えている彼の成績は相応のもので、運動面でも、これという大きな弱点はなかった。

 トップを目指そうという意識はなくても、まわりに侮られるのをよしとしない。

 結果として、学力と運動能力の両立はできている。

 注目されるほど目立つ存在ではなくても、そこそこの優等生だ。

 身長は、一六二センチほど。

 成長過程とあって、大人の平均体重には遠くおよばないものの、細身ながら貧相には見えない年相応? の均整のとれた身体つきをしている。


 言葉を交わす以前に勝気をいわれそうな、ぱっちりとした双眼の持ち主で、アジア系の域を出ない彫りのなかに、すんなりと通った鼻筋の形は、まずまずだ。

 本人が、もっとワイルドさが欲しいと考えているにしろ、老若を問わず好感をもたれやすい外見ではあったが、その皮膚は、色素欠乏に陥らぬまでも出不精を地でゆく同級生より白く、腕には日焼けの痕跡すら形成されない。

 火に手をつっこんでも火傷しない体質が関係しているのだろうが、ともあれ…。


 異常を言われそうな材料をいくつか隠していようと、園平大陽は、比較的、無害善良に育ちつつある日本国民だ。

 成人にはまだ遠く、親をはじめとする国と社会に庇護される立場。

 そんな彼が、人里離れた見知らぬ土地で何をしているのかというと…――

 本人も、よくわかっていなかった。


 増えそうに見えて、なかなか上がってこない水の動静に注意をはらいつつ、大陽は、溺れる前の自分がなにをしていたのかをしきりに思い出そうとした。


 どんなに頭をひねっても、思い浮かぶのは、次に受けようとしていた五時間目の授業が英語だったこと。

 通信媒体スマホを操作しながら、それなりにたどりなれてきた廊下を移動していたところ、なんとなく足を止めた…――そんな気がしている。

 そして気づいたら、ひやっとした感触に包まれていて、体の中の空気が口や鼻から逃げて抜けていったのだ。


 事実、それが最後の記憶だったのか、考えるほどにわからなくなるが、おそらくは、学校から水に入るまで…。

 その間の記憶がない。

 校舎三階の廊下から海水に浸かるまでの経過が、ごっそり、ぬけ落ちているのだろうか?

 どこかで頭でもぶつけたのかもしれないと撫でまわしてみた頭に、痛いところやコブのようなものはない。

 いずれにせよ、現時点、大陽が呼び起こせる情報はそこまでだ。


 自分がどこにいるのか、まったく見当がつかない。

 …と、なれば、やることは、飲み水の確保と力になってくれる人探し。

 そして、人工物の発見だろう。

 欠落しているように思える記憶は、案外、簡単にとりもどせるかもわからない。

 一生もどらない可能性もあるが、いまは、現状を打開するのが先だ。

 日が暮れそうな明るさで動きまわるのは、危険かもしれないが、ここでじっとしていても衣食住に困る。

 これから夜が明けて明るくなるなら、それでよし。順当な良策で――行動を起こさなければ、そのへんに街があっても気づけない。


 遭難した時、動かない方がいい場合もあるが、それは環境や肉体の状態が生存率に直結する時や、助けがくる可能性がそれなりにある時だ。

 迷いだして、自分のいる場所がわからなくなってしまったら、もう、なにが吉と出るか凶となるか、確実さなど望めないのだが、救助隊が配置されている雪山や採集シーズンにあって自治体が注意をはらっている山林と、いま、彼が直面している現実とでは、条件が違い過ぎる気がした。


 息子がいなくなったのに親が黙っているとは思わないが、遭難したそうと把握するのに時間がかかるかもしれない。

 懸念が深くなるまで動きそうになかったし、底の流れが読みにくい水難がからむと捜索は難航するものだ。

 最低限、食べられるものと飲み水を確保しなければ、いずれ、動けなくなる。

 命も危うくなるだろう。

 こんなわけのわからない状況で果てるなんて、まっぴらなので、足もとが見えるうちは迷いこまないよう、周囲のようすと海岸線を意識しながら水源を探す。

 並行して、人間か人工物…道路とか標識、街や建物。そういったものを見つけるのだ。

 かなうなら視野が利くうち……日が落ちて、真っ暗になってしまう前に。

 幸いなことに、大きな怪我はしてはいなかった。


 ――しかし、彼がいま居るその場所は…


 これと人工物はおろか、目ぼしをつけられそうな物体もなくて。何もなくて……。

 独りでは早々、絶望をもよおきたしてしまいそうなほど、未開地のようなおもむきムード満載だったのだ。

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