日焼けした五線譜の上で

宵町いつか

第1話

 夏の高校のジメッとした廊下に理想とは程遠い音色が響く。

 ピッチちゃんとしろ。

 予想通りの声が隣から聞こえる。

 だが今はその声に意識を割くほどの余裕はなく、そうは無言で相手をじっと見ることしか出来なかった。

 ちょうど8拍伸ばし、音を切ると同時に話し始める。

「今日調子悪い」

 怱の声にほんの少し被せるように、隣から声がかかる。

「昨日もそれ言ってたぞ」

 本当なんだから仕方ない。

 隣ではうんざりしたような声が聞こえた。

「ちゃんとしたらお前は上手いのにな」

 お褒めに預かり光栄ですとも。

 怱は心のなかで不貞腐れたように呟いて、また楽器を構えた。

 今度はしっかりと音の出だしを意識して、後押しにならないように一定の息を吹き込む。ピッチもあっていると思う。

 吹き終わると同時に怱は聞く。

「どうだ!」

「切り方が雑になったな。しっとり目の曲でやったら死刑」

 厳しいな。数少ない男子部員を大事にしてほしいね。

「はいはい。気をつけますとも」

 なんで手を抜きたがるんだか……。

 隣から小さく聞こえた声は聞かなかったことにして、怱は自分の好きなように吹く。

「そうだよ、そういう感じに吹けばいいのに」

「はいはい」

 怱は楽器を口から離し、言った。

 ちなみに今日の合奏も散々な結果だったことをここに記しておく。





夏のコンクールに向けて今日も合奏が行われている。

「吉間さん」

「はい」

 怱は顧問であるあしの声に反応する。

 芦はりんとした声で言った。

「Dの7小節目からの場所、吹けますか」

 怱は夏のコンクールの課題曲の譜面を見る。芦が指定した場所はトランペットの中では比較的難しい場所だ。リップスラーをしたあと、音階を上昇し三連符をしなければならない。

 毎回、芦に止められる箇所だ。

「できます」

 ほとんど義務的に言ったも同然だ。

 芦は目頭を抑えて言った。

「リップスラーのときに周りと遅れることを認識していますか?」

「はい」

「そうですか……」

 芦はそう言うと指揮棒を構えた。

「では、ペット。

 Dの7小節目から」

 そう言われて、怱含めトランペットパートはぞろぞろと楽器を構える。

「ワン、ツー、スリー」

 芦の指揮に合わせて吹いていく。が、数小節吹いたところで芦が止める。

 ちらりと怱の方をみて、芦は言った。

「では、Dからメロディーの人たちだけで吹いてください」

 芦の言葉にまばらに返事が返る。

 芦がカウントを始め、全員がほとんど同時に息を吸った。

 独特の張り詰めた空気の中、メロディーが流れていく。低音のいない、不安定な土台の中を綱渡りのように歩いていく。

「はい、ストップ。

 フルート、フレーズ感を意識してください。流れを大切に。

 クラ、連符の時の音の粒を大切に。音が潰れたり、処理が雑になってしまうと目立ってしまいます。

 そしてトランペット。

 Dは――」

 吉間さん以外の5人でやってください。

 部員にとっては一つの死刑宣告のようなものだ。もちろん怱も例外ではない。

 どれだけ熱を入れていなくてもだ。

「……はい」

 怱以外のパートメンバーが返事をする。

 それを確認した芦はすぐさま指揮棒を構えて、言った。

「では、もう一度Dから。さっき言った事を意識してください」

「はいっ」

 威勢のいい声を周りが発するなか、怱だけため息を漏らした。





「怱くん、ちょっと一緒に帰ろうか」

「へ?」

 合奏が終わって、楽器室で楽器を片付けていると意外な人に声をかけられた。

 同じトランペットパートの先輩である藍だ。

「なんですか? カツアゲですか?」

 怱が冗談交じりに言うと、藍は苦笑いをこぼしながら言った。

「違うよ。話したいだけ」

 藍はじっと怱を見つめる。

 怱はその視線から逃れることができず、無言で頷いた。

 藍は怱が頷いたのをみて、ニコリと笑った。

「良かった。じゃあ、また後で」

 藍はひらりとした動きで楽器室から出ていった。

 怱はクロスで楽器を軽く拭いて、楽器を片付けると、足早に藍の元へ向かった。

 藍は昇降口で暇そうにスマホをいじっていた。

 怱が近寄ると、藍は手を上げた。

「よし、帰ろっか」

「ていうか、向き同じなんですか?」

「じゃないと誘わないって」

 いつも藍先輩は同じパートの碧先輩と一緒に帰ってるからあんまりわかんなかったな、なんて怱は思いながら歩き始める。

 二人の間にぎこちない時間が流れる。

 同じパートといってもあまり二人きりで話さないので話す内容が思い浮かばなかった。

 そもそもなんで一緒に帰ろうなんて言い出したんだろうか、藍先輩は。まあ、大体は想像がつくけど。

 怱は嫌な予想を持ちながら歩いていく。

「碧先輩が嫉妬しませんか?」

 流石に耐えきれなくなって怱が藍に話しかける。

 藍はキョトンとした顔になって、笑いながら言った。

「そんなに嫉妬深い子じゃないよ」

「そうですか」

 また静寂。

 ふたりで足音を奏でながら、歩いていく。

「コンビニ、寄ろっか」

 藍が言う。

 怱は頷いて、藍についていく。

「なにか奢るよ?」

 藍は怱の目を覗き込むように言う。

「いえ、大丈夫ですって」

 流石に先輩に奢らせるのはちょと……。

 怱は断りを入れ、自分で水を買った。

 藍はソーダ味のアイスを買っていた。

 怱たちは二人でコンビニの前で買ったものを開封する。

「怒られそうだね、これ」

 藍が小さく笑いながら呟いた。

「その時はその時ですよ」

 怱はそれに苦笑いをしながら答える。

 暫し、なだらかな時間が流れる。時折、藍の奏でるアイスを食べる音だけが響いていた。

 おもむろに藍が口を開いた。

「あのさ、今日の合奏のなに?」

 その声は心配と怒りと悲しみが混ざった声のように、怱は感じた。

 だけど、怱はいつもと変わらない口調で答える。

「先輩の感じたままで結構だと思いますけど?」

「そっか……じゃあ怱くんはやる気なくて適当に吹いてるっていう認識でいいってことか」

 ……それでいい気がする。

 怱は何も言わずに藍を見る。

「そうですね」

「なんで手を抜いてるのかな?個人練のときはあんなにも楽しそうに吹いてるのに」

 それは先輩に言う必要は無いだろう。だってこれは俺自身の問題なのだから。

「合奏ですから、周りと合わせるのが筋かと」

「あっそ。で、ホントのところは?」

 藍はアイスをざくりと削って、怱を見つめる。

 怱はため息をついて話す。

「先輩には関係ないですよ」

「関係あるんだよ。怱くんの先輩として、同じ部活の先輩として。そして、3年生として」

 藍はじっと怱の瞳を見つめる。

 それは怱の内面を見つめているようだった。

「今年が最後のコンクールだからですか」

「そう。今年で私達の夏が終わっちゃう。だから、最後は笑って、嬉し涙で終わりたいの。そのために怱くんには手伝ってほしいんだ。だから今、話してるの。うちのパートの期待の後輩にね」

「毎年県止まりなのにですか?」

 怱の通っている南崎高校は毎年、夏のコンクールに出場している。だが、結果はどれも振るわないものだ。地区大会、県大会、支部大会、全国大会と続く中、南崎高校は毎年県大会でダメ金止まりだ。

 藍はムッとした表情を浮かべて言った。

「だからだよ。頑張って頑張って、去年を超えないといけないんだ」

「頑張って、その先に待っていたのが望まない未来だとしてもですか?」

「うん」

 藍はまっすぐ言う。

「そうですか。ですが、俺は嫌です。望まない未来は見たくないです。だから俺はもうちゃんと吹かないんです。頑張ってしまったら期待してしまうから。未来に期待して、全国に行けるって考えてしまうから」

 怱はまくしたてるように言う。

 喉に水を流し込み、怱は藍に視線を向けた。

「すいません。急に変なこと言って」

 藍は瞬きを繰り返しながら、言った。

「いや、大丈夫だよ。にしても、怱くんは中学の時のコンクールで嫌になったのか。確か、そこそこ強かったよね。怱くんの出身校」

「ですね。上手かったですよ」

「だったら怱くんは私よりも上手いわけだ」

 そこまでは言っていない。

 ただ怱は無言で藍を見つめる。

「じゃあ、私を驚かせて見せてよ。怱くんの頑張った結果を見せてよ。そして私を絶望させて見せて。怱くんがここまで頑張ったのに行けなかったんだって、私に思わせて」

 怱は思わず、藍のことを凝視する。

 頭の中で何度か内容を反芻させて、やっと理解する。

「なんですか、それ」

「そのまんまの意味だって。私を絶望させて見せてって。怱くんならできるでしょ? 先生に認められてるんだから」

 認められてる?俺が?

 怱は驚く。だって怱から見れば芦は怱に向かって厳しく対応している。それは怱の態度や怱の事を認めていないものから来ていたものだと思っていたから。

「んなわけ……」

「先生が期待してますって言ってたよ。今日のできますって言葉を忘れないからって」

「……それ、期待なんですか?」

「期待してなかったらそんな言葉かけないでしょ? それに怒ってもらえてるんだから気にかけてもらえてるんだよ。怒られなくなったら見捨てられても同然だから」

 藍はどこか寂しそうに言った。

「ねえ、怱くん。東海大会行けなかったら、私を恨んでいいから。お願い。私を絶望させに来て。怱くんだってほんとはいい結果を残したいはずだて。じゃなかったら、今も吹奏楽を続けてないでしょ? それに課題曲の譜面にあんなに書き込まないでしょ? あんなに譜面が日焼けしないでしょ?」

 よく見てるな、と他人事のように怱は思った。

 先輩は自分を恨んでもいいと言った。自分を絶望させてもいいと言った。

 自分を苦しめることばかり引き受けるんだ。この先輩は。

 だったらせめて幸せな時間を見せてあげたい。

 俺をよく見てくれている先輩に、見せてあげたい。

「わかりました。俺がちゃんとやったところで全国に行けるかどうかもわかんないですけど。頑張って全国の景色を見せられるように、楽器を長く吹いていられるようにさせてあげます」

 怱は藍の方を見て言った。

 藍は驚いたように目を開いて、笑った。

「全国までって、大きく出たね。

 でも……」

 期待してるよ。

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日焼けした五線譜の上で 宵町いつか @itsuka6012

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