第15話「退治」
贄池、正午過ぎ——
ハーヴェンたちは師匠の指示通り、池で霊を数体従えてから森の中を下りて行った。
山道の方が歩きやすいが、イリスはゾンビだ。
ゾンビは日差しを怖がる。
彼女もまた日差しの下は身が竦むようだ。
二人は木々の間を縫うように下りていくが、洞窟を出てからそれほど進んではいなかった。
彼女の歩みは遅いのだ。
しかしハーヴェンが急かすことはない。
これは急ぐ旅ではないのだ。
むしろ暗くなり、閉門寸前にヘイルブルへ着くようにしたい。
とはいえ、急ぐ旅ではないが彼女の歩幅に合わせていると、それだけ長く野外に身を晒すことになる。
野外はモンスターや獣の生息地なので危険だ。
そこでヘイルブルに戻って馬車を手に入れることにした。
彼女を馬車で運べば徒歩より安全にニバリースへ向かうことができそうだ。
街へは彼だけが入る。
イリスは門の外、街を囲む木立の中で隠れていてもらう。
いまの彼女が見つかったら大騒ぎになってしまうからだが、かく言う彼も街では大罪人だからだ。
だから、単独行動で潜入しなければならない。
街から出ていく人と入ろうとする人の混雑に紛れて街に入り、翌朝までに馬車を手に入れる。
そして開門と同時にイリスのところへ戻るのだ。
(ごめんなさい、ハーヴェン様。これでも精一杯急いでいるのですが……)
彼女の心の声が前を行くハーヴェンに伝わってきた。
「ヘイルブルには夕方に到着できればいいんだ。転ばないように落ち着いて行こう」
(はい)
もし傍に人がいたら、ハーヴェンの独り言に聞こえたかもしれない。
でもこれは歴とした会話だった。
〈親〉のハーヴェンは肉声で、〈子〉のイリスは心の声で、二人にしかできない会話だ。
尤も、はっきりと言葉として伝わってくるのは彼女だけ。
これは〈親子〉間に絆がある場合のみ起こる現象だった。
たとえば他の個体で試しても、呻き声しか聞こえないだろう。
ゾンビが「あああぁ……」とか「うううぅ……」などと呻いているのは内側の霊も同じように呻いているのだ。
死霊魔法を使えば霊を従わせることはできるが、絆を感じない者には何も語らない。
ハーヴェンとイリスにだけある絆……
愛か?
だとしたら、夫としては嬉しい。
でも彼は夫であると同時に神官でもある。
神官としては彼女の状態を心配する。
死後すぐにあの世へ行くはずの霊が、身体に留まり続けている……
神殿では、そのような霊を悪霊と呼ぶ。
執着の理由が恨みであろうと、愛であろうと関係ない。
いま悪霊でなくても、この世に留まることで穢れていき、遠からず悪霊化する。
だから問答無用で〈祈り〉や〈浄光〉を浴びせて退治してきた。
イリスのような霊にも情け容赦なく……
彼はずっと神殿を正しいと信じてきたが、死霊魔法の修行を始めてから神殿のやり方に疑いを持ち始めていた。
霊と名が付くものは皆纏めて始末してしまえと言わんばかりのやり方……
力は〈聖〉だが、やっていることは虐殺ではないか。
〈霊場〉を維持していれば、彼女が誰かに危害を加えることはないし、〈蘇生〉できるまで彼が隣に寄り添う。
彼女が孤独に押し潰されることはないし、独りで悪い考えが深まっていくこともない。
だから断言できる。
彼女は悪霊化しない。
霊は必ず悪霊化すると決めつけ、先回りして退治するのは間違っている。
イリスを退治するなんて、とんでもない。
——彼女はリーベルで人間に戻るのだ!
ハーヴェンは一歩一歩、決意を強めながら山を下っていった。
***
後にハーヴェンは、巡礼についてこう振り返る。
〈聖〉とは?
〈邪〉とは?
それを知るための巡礼だったのに、終わったときには区別がつかなくなっていた……
勇者は正義の味方だし、その末裔たちも正義の味方とされている。
神殿は言うまでもなく神聖だ。
どちらも人々にとって心の支えとなるべき〈聖〉だ。
その〈聖〉が、ハーヴェンを殺そうとした。
末裔からは無実の罪を着せられ、神殿も保身のために罪なき者を見捨てた。
〈聖〉とは、一体……
一方、師ユギエンは確かに外法の使い手だ。
こっそり死霊魔法を用いているインチキ霊媒師でもある。
言い訳の余地がない〈邪〉だ。
だが、〈聖〉に謀殺されかけたハーヴェンを救ったのは〈邪〉だった……
あまりにも混沌とし過ぎている。
これでは区別がつかなくなってしまうのも無理はない。
ヘイルブルがそんな混沌とした有様でいるから、もっと混沌とした存在が現れるのだ。
もっと混沌とした存在……
聖邪が。
***
夕方——
「じゃあ、ここで待っていてくれ」
(はい、いってらっしゃい)
ヘイルブルの近くへやってきたハーヴェンとイリスは、門近くの木立で分かれた。
木立の中には住民たちの墓地があり、夕方に訪れる者はいない。
イリスの待機場所として最適だった。
これから馬車を手に入れるため、ハーヴェンが単独で街に入る。
うまく手に入ると良いが……
別に領主の家で使っているような立派なものでなくて良いのだ。
彼女が雨に濡れないよう幌がかかっているものであれば。
木立から街道に出た彼は、街に入る旅人の列に紛れ込んだ。
後は人の流れに逆らわず門を通過するだけ。
門番はいるが、一人一人を細かく調べはしない。
そんなことをやっていたら、閉門の時間に間に合わなくなる。
「ほら、急げ!」と声を掛けながら、人や馬車の流れを眺めているだけだ。
ところが……
「ん?」
風に黒フードを撥ね上げられそうになり、慌てて抑えたが遅かった。
顔を門番に見られてしまった。
「おまえは……ハーヴェン!」
不幸なことに、門番はハーヴェンが広場に晒されていたとき見張っていた兵士だった。
あのとき近くにいたため、囚人の顔をよく覚えていた。
「!」
門を通過できたところで名を呼ばれ、ハーヴェンは心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。
それでも平静を装い、とぼけて街の中へ入っていこうとするが、門番たちが前に回り込んで道を塞ぐ。
「止まれっ!」
彼らは手に持っていた槍をハーヴェンに突き付けた。
振り返ると後ろも塞がれており、外へ逃げることもできない。
完全に包囲されてしまった。
「何だ?」
「誰だ、あいつ?」
何事かと旅人や住民たちが遠巻きに囲むので、強行突破も無理だ。
「顔をよく見せろ!」
隊長の命令を受け、門番の一人が槍の穂先を引っかけてフードを下ろした。
露わになった顔を見た住民たちは、
「ああっ! あいつ、ハーヴェンだ!」
「ハーヴェン!? 聖剣泥棒の?」
一カ月前に刑が執行されたばかりだ。
まだ記憶に新しかった。
住民たちは、聖剣泥棒が街へ戻ってきたと大騒ぎになってしまった。
「この野郎、生きてやがったのか!」
「くたばれーっ!」
と、罵詈雑言と石がハーヴェンに降り注ぐ。
彼のか細い「違う!」という声は誰にも届かなかった。
この街では、贄池への放置は死刑を意味する。
うまくゾンビから逃げてきたとしても、赦されることはない。
改めてこの場でトドメを刺すだけだ。
門番たちはそれぞれ、槍で突く箇所に狙いを定めた。
喉、胸、腹。
あとは全方位から一斉に突き出せば、死に損ないの聖剣泥棒をあの世へ送れる。
「構えぇっ!」
いよいよ串刺しの刑が執行される。
住民たちも投石を止め、この後すぐに起こる惨劇を見逃すまいと集中する。
——ここまでか……
前後左右隈なく囲む槍から逃れる術はない。
ハーヴェンは死を覚悟した。
「イリス、すまない……」
彼は聖剣になど興味はない。
ただ彼女のために馬車を手に入れたかっただけだ。
手に入れるというのは、盗むという意味ではない。
代金を支払って入手するつもりだった。
師匠が旅費としてくれた餞別がある。
聖剣も馬車も、彼はこの街から何も奪うつもりはない。
なのに、この街はどうあっても彼の生命を奪うつもりらしい。
——これが、〈聖〉なのか。
では、彼の何が〈邪〉だったのか?
処刑されなければならないほどの〈邪〉とは?
もう何が〈聖〉で、何が〈邪〉なのかわからず、ハーヴェンは目を瞑った。
瞼の裏に愛するイリスの笑顔が浮かぶ。
「…………」
もうすぐ残酷だったこの世を去る。
最期は彼女の笑顔を見ながら穏やかに逝きたい……
門番たちが爪先に力を入れた。
そのときだった。
「ガァウゥゥゥッ!」
「ぐあぁぁぁっ!?」
後方から、恐ろしい唸り声と悲鳴が!
振り返るとそこには……
「イリスッ!?」
……師ユギエン曰く。
強い思いは、死霊魔法の支配を上回るときがある、と。
今日、彼女は夫の「隠れていろ」という命令に背いた。
皆がハーヴェンに気を取られている隙に、ヨロヨロとヘイルブルの門を通り、彼女は最寄りの門番に噛み付いたのだった。
首の肉を食い千切られた門番は、血を噴き出しながら倒れた。
クチャ、クチャ、クチャ……ゴクン。
「アアアァァァ……」
ハーヴェンと同じ黒フードの中には、血色の悪い肌と白濁した目。
門番の血で赤く染まった口から恐ろしい呻き声を漏らす。
住民たちは叫んだ。
「ゾンビだぁっ! ゾンビが入り込んでいるぞっ!」
叫び声が引き金となって囲んでいた住民たちが恐慌に陥った。
逃げ惑う者。
恐怖で足が竦んでいる者。
口々に悲鳴をあげる。
通常、ゾンビはより強い光や音などに引かれていく。
悲鳴をあげている住民たちは「こっちへ来い」と引き付けているようなものだ。
もしくは、仕留めたばかりの獲物を更に味わおうとする。
倒れている門番が危険だ。
ところが、イリスはどちらでもなかった。
彼女が次の標的と定めたのは門番たちだった。
「アアアァァァッ!」
腕を前に突き出し、掴みかかろうとする。
「ちぃっ、化け物めっ!」
標的にされている門番は彼女に槍を突き出す。
ドスッ……!
鋭い穂先は纏っている黒マントを貫き、肋骨の隙間を通って正確に心臓を串刺しにした。
生者にとっては致命傷だ。
しかし彼女にとっては掠り傷にもならなかった。
「ガアアアァッ!」
「あ、やめろ! うわあああっ!」
そして、日々訓練を受けている兵士とはいえ、急に起きた実戦で身体に力が入り過ぎてしまったようだ。
穂先が背中から飛び出てしまった。
彼女は槍に貫かれたまま構わず接近し、押し倒した。
そして門番に覆い被さる。
「ギ、ギャアアアァァァッ!」
ブチブチブチ……ッ!
断末魔の悲鳴と筋肉が引きちぎれる音。
門番は静かになった……
「グルルルゥゥゥ……」
「!」
彼女は口から肉をぶら提げながら振り返った。
その凄まじい形相に勇敢な門番たちも半歩たじろいだ。
クチャ、クチャ……
咀嚼しながら次の標的を探している。
だが、
「やめるんだ、イリス!」
ハーヴェンは彼女に駆け寄り、抱きしめた。
彼の潜入が失敗し、イリスの乱入により大騒ぎになってしまった。
ヘイルブルに近付くべきではなかった。
でも……
馬車がなければ、イリスを庇いながらの長い徒歩の旅になるだろう。
そんなことをしていたら、先にハーヴェンが力尽きてしまう。
彼が包囲されてしまったとき、二人の旅は終わったのだ。
二人揃ってリーベルへ渡ることはもう叶わない。
だからイリスはハーヴェンを残し、門番たちの前に立ちはだかった。
「イリス?」
二人揃って逃れるのはもう無理だが、彼一人だけなら……
(生きて、ハーヴェン様)
それが最後に伝わってきた彼女の〈声〉だった。
「ゴォアアアァァァッ!」
彼女は、恐ろしい女ゾンビに戻った。
唸り声をあげながら隊長目掛けて突撃する。
槍で刺突されても致命傷にならず、動き続けることができる。
隊長を倒せば、統率が乱れるはず。
その隙に夫だけでも街の外へ!
対する隊長は、
「…………」
落ち着いて待ち構えていた。
先程噛まれた門番は、若く経験の浅い兵士だった。
ゾンビを殴り倒そうというなら力一杯やる必要があるが、突きに必要なのは正確さだった。
では、正確にどこを狙うのかというと、心臓ではない。
心臓はゾンビの急所ではないのだ。
隊長は彼女の突進に合わせて後退りしながら、槍を突き出した。
ゾンビの急所は……
ドツッ!
「ガ、ア、アァッ?」
たった一突きで彼女の突進が止まった。
若い兵士が心臓を串刺しにしても止まらなかったのに。
隊長が突いたのは、ゾンビの目だった。
だが真の狙いは目ではない。
その奥にある脳だ。
槍で顔を狙うと斜め上に突き上げる格好になる。
目に飛び込んだ槍の穂先は脳に到達していた。
神官も魔法使いも、ゾンビの退治法については見解が一致している。
頭を潰せば、活動を停止させることができる。
なぜ停止するのかは意見が割れているようだが、隊長にとってはどうでも良いことだった。
ただ穂先でかき回してやるだけだ。
「ア……ア……」
「イリス!」
隊長への突進から目突きまで一瞬だったため、ハーヴェンは反応が遅れてしまった。
槍で脳をかき回しているのに気が付き、慌てて彼女を後ろへ引っ張ろうとする。
穂先が頭から抜けるように。
しかし、
「大人しくしろ!」
門番二人に槍で足を払われ、首筋を打たれて取り押さえられてしまった。
「うぐっ……! イ、イリス!」
目の前で、イリス退治が進行していく。
隊長は刺さった槍を操って彼女を仰向けに倒し、そのまま後頭部を貫通して地面に縫い付けた。
ハーヴェンは名を呼ぶが、彼女の応答はなかった。
ただ身体を微かに痙攣させるのみ。
隊長は抜剣し、大上段に構えた。
痙攣しているということは、まだ活動を停止していないということだ。
よって確実に停止させるために首を刎ねる。
「や、やめろっ! やめてくれぇぇぇっ!」
ハーヴェンは涙を零して懇願した。
ゾンビは身体の中に霊魂が密封されている状態だ。
その密封が斬首によって解かれてしまったら〈蘇生〉が……
だが〈蘇生〉のことを知らない隊長が剣を止めるはずがない。
いや、知らせても止めないだろう。
ハーヴェンが名を呼ぶので、女ゾンビがイリスレイヤだとわかった。
聖剣泥棒の共犯者だ。
あの日、館で彼女を捕らえていたら、主犯のハーヴェン同様、置き去りの刑に処していたはずなのだ。
しかもいまの彼女は正真正銘のゾンビだ。
犠牲者も出ている。
ゾンビが街に入り込んだら退治するのは当然のことだった。
隊長は大上段から剣を振り下ろした。
ザン……ッ!
密封が解かれ、彼女から急速に気配が弱まっていく。
生前の彼女は素直で優しくて良い人だった。
そういう人は死後、天界に上るのだ。
だがそれは、イリスレイヤという一人の女性を蘇らせることが不可能になったということを意味する。
〈蘇生〉には、目当ての霊魂を呼び出して〈生きている器〉に収めるという方法はあるのだが……
天界に上ってしまった霊魂は神に守られているので、外法の力でこの世に呼び戻すのは不可能に近い。
死が二人を分かつまで……
生者同士だった二人が生者と死者に分かれては、共に暮らすわけにはいかない。
よって〈死〉は別れであると解釈した場合、この夫婦にとってその〈死〉はいつだったのだろうか?
一般的には池で変異したときだが、死霊魔法にとっては別れを意味するものではない。
死霊魔法にとっての別れとは、霊がこの世からいなくなったときだ。
つまり、いまだった。
ハーヴェンの涙が止まった。
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