第13話「せいじゃ、聖者、聖邪」

 ユギエンから散歩に出されたハーヴェンは自らに〈暗視〉をかけ……

 訳が分からないまま洞窟の外を歩いていた。

 ゾンビに気付かれないように抜き足、差し足で。

 神殿魔法兵の主な敵はゾンビだった。

 悪霊も恐ろしいが、実体があるゾンビの方がより脅威だった。

 この森は奴らがウヨウヨしている。

 そんなところを散歩しても、決して気持ちが安らぐことはないのに……

 それでも歩き続けた。

 一箇所に留まっているとゾンビや悪霊が寄ってきそうだし、すぐに帰ったら「早すぎるからもう一度行ってこい」と言われそうで。

 ハーヴェンは仕方なく歩き続けていた。

「おまえ〈だけ〉は……か」

 歩きながら、ユギエンの言葉を思い出していた。

 ——おまえだけは絶対に襲われない——

〈だけ〉とは、どういうことだろう?

 ゾンビの習性を考えれば、そんなことはあり得ないのだが。

 ウェンドア神殿でゾンビの習性について学んできた。

 ゾンビは満たされることのない飢えに苦しんでいるので、人間を見たらそれが誰だろうと襲い掛かる。

 変異してしまったら、我が子も恋人もすべて肉だ。

 ……イリスがそうだった。

 彼女ですら本能に逆らえなかったのだから、やはりこの森のゾンビ共が見逃してくれるわけがない。

 でも……

 あの死霊魔法使いの言葉をなぜか信じてしまった。

 彼は外法に手を染めている者ではあるが、言葉に嘘はないように思う。

 そのユギエンが「外を歩いてくれば置かれている状況を正しく認識できる」というなら一か八か試してみるしかあるまい。

 このまま隠れていては、その〈状況〉とやらがわからない。

 意を決し、一体のゾンビの前に姿を晒してみた。

「…………」

 正面に立ったので間違いなく彼に気付いたはずだ。

 向かってきたら、すぐに走って逃げる。

 ところが、

「…………」

 ゾンビは向こうへ行ってしまった。

 他のゾンビでも試してみたが、皆無関心だった。

 宙を漂う悪霊も頭上を通り過ぎていくだけだった。

「どういうことだ?」

 ユギエンの言葉は正しかった。

 死者共は、彼を視界に捉えた上で獲物として認識しなかった。

 いま彼の頭の中は「?」で一杯だ。

 神聖魔法の中に〈死者共から獲物と思われなくなる魔法〉はなかった。

 だから認識しろという〈状況〉とは、死霊魔法の効果を知れという意味だったのだ。

「死者に襲われなくなるというのは、すごい効力だが……」

 ハーヴェンは迷わずに決めた。

 せっかくだが、ユギエンの申し出は断る。

 死霊魔法の効力がすごいことは認める。

 認めるが、外法に手を出すことはできない。

 神官だから?

 その通り。

 リーベルへ帰国したら神官をやめると、イリスに言ってなかったか?

 ……その通り。

 でも、それは海軍魔法兵団に転向するためだ。

 死霊魔法使いになるためではない。

「ただ……どうしようか……」

 イリスをどうしようかと悩む。

 彼女は完全に変異してしまった。

 よって、このままでは彼女をリーベルに連れて行けない。

 そこで、だ。

 彼の中で少々身勝手な考えが浮かんできた。

 ユギエンを利用するのだ。

 神聖魔法ではゾンビを元の人間に戻すことはできないが、死霊魔法なら可能なのではないか?

 現に、噛まれたハーヴェンが変異せずに済んでいる。

 ならばイリスのことも救えるのではないだろうか。

 外法はお断り、でも外法で妻を救ってくれ、とは随分と都合の良い話ではあるが……

 あと少し散歩したら、洞窟に戻ってお願いしてみよう。

 ……ハーヴェンは二つ誤解していた。

 誤解の一つ目は死霊魔法について。

 彼が思っているほど万能なものではなかった。

 変異は神聖魔法にとって死を意味するが、死霊魔法にとっても死は死だ。

 普通は死んでしまった者を健常者に戻すことはできない。

 イリスは……

 死んだのだ。

 誤解の二つ目はユギエンが語った言葉、「ハーヴェン〈だけ〉」を誤って解釈していることだった。

 死霊魔法のおかげでゾンビの森を散歩できるのだと思い込んでいるようだが、それは違う。

 身体は苦しくなく、元気に歩けているから忘れてしまっているのだろう。

 彼の身体はいまもゾンビ化の最中なのだ。

 だからこの後、〈だけ〉の真の意味を思い知ることになる。

「そろそろ戻るか」

 洞窟を出てから十分に時間が過ぎた。

 これなら、戻ってくるのが早すぎるとは言われまい。

 引き返すことにしたハーヴェンは歩みを止めた。

 しかし、その歩みが一歩多かった。

 そこは〈霊場〉の外……

 ハーヴェンの体内にある毒〈内なるゾンビ〉がユギエンの支配域を脱した。

 その途端、

「うっ!?」

 いままでに体験したことのない強烈な空腹感が襲いかかってきた。

 あまりにも急だったので抵抗できず、その場に倒れ込んだ。

 ……このとき、倒れ込んだのが〈霊場〉側だったのは幸運だった。

 反対側だったら、長く苦しんだ末に変異していたかもしれない。

〈内なるゾンビ〉は再び支配域に入ったことで鎮まった。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……いまのは一体……」

 倒れていた身体を起こし、息を整える。

 整えながら、たったいま自分の身に起きたことを振り返った。

「いまのは……変異、なのか?」

 突如、頭の片隅で小さく湧いた一つの声。

 一つは二つに。

 二つは四つに、八つに……

 声はあっという間に増殖して頭の中を埋め尽くし、彼を駆り立てた。

 ……肉。

 肉、肉肉、肉肉肉肉、肉肉肉肉肉肉肉肉!

 肉が食べたかった。

 どうしようもなく食べたい。

 生きていようが、死んでいようが、腐っていようが何でもいい。

 肉であれば何でもいい!

 体験してわかった。

 あれがゾンビの感覚だ。

 頭の中が肉への渇望で埋め尽くされて制御不能に陥るのだ。

 それが津波のように押し寄せてきて意識が呑み込まれる。

 あの声の津波には誰も抵抗できない。

 司祭であろうと、大神官であろうと、生身の人間には無理だ。

 当然、イリスも……

 ハーヴェンは座り込んでいた状態から立ち上がり、洞窟へ向かって走り出した。

 なぜ、ユギエンが危険な森を散歩してこいと言ったのか?

 ようやく理解できた。

 口頭の説明より、体験してきた方がわかりやすい。

 確かに彼〈だけ〉は襲われるはずがないのだ。

 彼もイリス同様、ゾンビだったのだから。

 ゾンビはゾンビを襲わない。

 正確にはユギエンの言う通り、ゾンビ化の最中という状態なのだと思う。

 いま味わった感覚からすると、イリスが気を失う直前の状態なのではないだろうか。

 変異寸前だ。

 それがどうして意識を保ち、健常者のように走れているのかというと、ユギエンの術のおかげだろう。

 しかし効果範囲から一歩でも外に出たら、ゾンビ化が再開する。

 ハーヴェンは洞窟へ急いだ。


 ***


 ハーヴェンが洞窟へ戻ると、ユギエンは起きて彼の帰りを待っていた。

「おかえり」

 彼が焚火の近くに座るよう促すと〈子〉のように大人しく従った。

 別に〈親〉として命令したわけではなかったのだが。

「……ただいま」

 散歩に出発する前は「外法! 外道!」と酷かったが、すっかり神妙な表情になって帰ってきた。

 剣幕が治まったのは〈霊場〉のせいではないだろう。

〈霊場〉は意識のある生者には効かない。

 肉への渇望に飲み込まれたゾンビや生者の身体に憑り付きたがっている悪霊に対して効果を発揮するものだ。

 ユギエンから見て、彼は自分が置かれている〈状況〉をしっかり理解して帰ってきたようだ。

 だから素直に、

「……よろしくお願いする」

 と、頭を下げてきた。

 散々、外法と罵っていた神官が……

 対するユギエンも短く、

「わかった」

 心の小さい者は「勝った」と思い、ハーヴェンの心変わりに皮肉を返すところだろう。

 だが、ユギエンは違った。

 頭を下げている彼から、並々ならぬ決心の強さが伝わってくる。

 彼は神殿魔法兵、神官なのだ。

 好奇心を止められず、外法に躊躇いなく手を出す魔法使いの若造ではない。

 彼は神官として、一度は外法への誘いを断った。

 その彼が神聖魔法とは真逆の外法を学ぶと一大決心して帰ってきたのだ。

 ……嗤うものではない。

 二人は死霊魔法の師弟になった。

 明日から忙しくなるので、今夜はもう寝た方が良い。

 だが、ハーヴェンは眠れそうにない。

 それはそうだろう。

 自分の中にゾンビの毒が確かにあって、機会があればいつでも変異する危険と隣り合わせなのだと知ったのだから。

 どうせ眠れないなら、とユギエンは少し話をすることにした。

 散歩の前に話そうとしていたのだが、弟子の剣幕が凄かったので話しそびれていた。

 イリスについてだ。

 彼女はハーヴェンと違い、完全に変異してしまったので元には戻らない。

 神聖魔法においては退治の対象、死霊魔法においては使役の対象だ。

 妻は亡者、冥界の住人になったのだと諦めるしかない。

 普通は。

「~~~~っ」

 神聖魔法に死者を復活させる術はない。

 けれども死霊魔法にならあると期待していた。

 なのに、その術者からきっぱりと諦めろと宣告を受けてしまったのだ。

 彼女はすぐそこで直立しているのに、遠い世界の存在になってしまった……

 夕方まで同じ人間だったのに!

 ハーヴェンは俯き、頭を抱えて絶望に耐える。

 しかし絶望は容赦しない。

 頭の中でユギエンの宣告が反響する。

 一巡、二巡、三巡……

 ——ん?

 反響が三巡目の終わりで止まった。

「死別したことを受け入れろ」という内容は衝撃が強すぎた。

 だから最後の部分を聞き流してしまっていたのだ。

「普通は?」

 普通ということは、特別な方法があるのか?

 絶望一色で塗り潰されかけた期待が、紙一重で残った。

「…………」

 期待の視線がユギエンに突き刺さる。

 ここで「特別な方法がある」と言い切ってやれば、希望が絶望を塗り潰すのに……

 師匠が語る〈特別〉は、雲のようにフワフワと不確かで、曖昧なものだった。

「特別な方法がある……かもしれない」

 その方法とは、〈蘇生〉という死霊魔法の奥義に成功することだった。

「奥義……」

 ハーヴェンは再び俯いてしまった。

 無理もない。

 明日から死霊魔法の修行を始めようという者に、奥義の話など遠すぎた。

 荒唐無稽?

 そう思っているのは彼だけだ。

 ユギエンは違った。

 こいつなら奥義を成功できる、と確信していた。


 ***


 ハーヴェンなら死霊魔法の奥義に辿り着ける。

 ユギエンがそう確信するのには訳があった。

 かつて彼にも師がいた。

〈蘇生〉は、その師から教わった。

 死霊魔法の奥義〈蘇生〉

 それは死者を生者として蘇らせる魔法。

 死者の状態は問わない。

 霊でも、ゾンビでも、スケルトンでも完全な人間として蘇らせる。

 自然の理に真っ向から背く外法中の外法だといえるだろう。

 そして奥義と冠するだけあって〈蘇生〉は至難だ。

 ゾンビのように五体が揃っている状態なら、他人の生命を流し込むことで人間に戻せるのだが……

 他人の生命ということは、つまり生贄を要するという意味だ。

 しかもこの生贄、一人では足りない。

 計算上はゾンビ一体に対して一人分の生命があれば足りるのだが、生贄から吸い出す際、どうしても生命が蒸発してしまい足りなくなるのだ。

 ゆえに生贄は最低二人、下手をすれば三人、四人……と最終的にどれだけ必要になるかわからない。

 そんなことをやっていると、外法を行っていることが周囲に気付かれてしまうので危険だ。

 霊を人間に戻す場合も難しい。

 こちらは生命を注入する必要はなく、〈生きている器〉に霊を収めることで術は成功する。

 よって生贄は一人で足りるのだが……

 その器は空でなければならず、生贄の人間から霊を抜き出す必要がある。

 ところが、霊が出ていくと身体は死んでしまうのだ。

 これでは〈生きている器〉にならない。

 霊が入っていたら空の器にならないが、空にしようとすると器が死んでしまうという矛盾……

 術者はこの矛盾を解決しなければならなかった。

 大量の生贄を要する前者より後者の方が外法発覚の危険は少ないが……

 矛盾というより不可能事ではないだろうか。

 今日までユギエンには無理だった。

 実は、彼の師も奥義に辿り着けなかった。

 嘘?

 いや、成功例はある。

 そうでなければ今日まで奥義として語り継がれはしない。

〈蘇生〉の成功者、それは大昔の巫女だという。

 あるとき、神に仕える巫女が死霊魔法を得た。

〈聖〉と〈邪〉が一人の人間の中に並立したのだ。

 矛盾した奥義をなし得たのは、一人が併せ持てば矛盾してしまう二つの力の使い手だった。

 師は言う。

 巫女が奥義に成功したのは、〈せいじゃ〉だったからではないだろうか。

 聖者である巫女が、死霊魔法を得て〈聖邪〉になったのだ。

 贄池でゾンビの毒に抵抗するハーヴェンを見たとき、ユギエンは確信した。

 古の巫女のように、こいつなら〈せいじゃ〉になれる。

 奥義を成功させることができる。

 問題は、神官が生贄を犠牲にできるかだが……

 集めなければならない生命は善悪不問だ。

 善人の生命である必要はない。

 死刑を待つ悪党共の生命で良いのだ。

「〈蘇生〉を成功させ、彼女を救ってやれ」

 ユギエンの励ましに、ハーヴェンの目から不安が消えた。

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