第四話 別れ

 店内では未友がコーヒーだけを飲んで待っていた。待ちわびていたのか、ドアを開けるときの鈴の音に合わせて、こちらを振り向く。


「大丈夫だった?」


「うん……」


 どことなく乗り気じゃなかった。いや、というより今は時間が惜しい。未友のことは大切だけど、それ以上に無視できない事態が迫っている。会話を楽しむ余裕も、勉強に集中できる精神状態でもない。


 何より、私はある記憶を思い出さずにはいられなかった。


「もしかしてなんかされたの?」


 眉を傾けてこちらを見ている。できれば未友にこれ以上の迷惑はかけたくない。しかし、全く話さないというわけにもいかないだろう。


 でも、何から話せばいい。最後の言葉はきっと警告だ。未友を巻き込むかどうか決めるのは私だという。たぶん未友のことも大方の調べは付いている。いや、というより、私は逃げおおせているつもりで、ずっと見られていたという可能性さえある。ヤツらはそういう人種だ。


 未友は、私のこの眼について知っている。私が明かしている、数少ない一人だ。もし、そのこともヤツらが知っているとしたら。いや、だからこその選択、か。私が話せば、否応なしに未友は共犯者、ないしは追われる側に属するということになるのかもしれない。


 未友を見た。できることなら、助けは欲しい。それが未友ともなれば心強くはあるだろう。でも、そう単純な話でもない。


 何より危険だ、ヤツらは平気で他人を巻き込む。たとえ人間としてどれほど優れていても、何の特別な力を持たない未友では、無用な暴力に身を晒すだけになる。だから、


 ――――?


 いや、いいか。収まりかけた頭痛がする。思考を整理しよう。今は未友と、なにより私のことだ。


「言いづらいならいいけど、秘密は漏らさないから、心配なら言ってよ」


 ああ、やっぱりそうなるのだろう。未友はすごく他人思いだということを知っている。こんな私みたいな人間にすら公平に接してくれるんだから。


 でも、こればかりは、ダメだ。やっぱりダメなんだ。危険すぎる。癪だが、あの勧修寺という男の警告を聞くことにしよう。それが正しい。せめて私ができる最善の選択だ。何より、私は一人でも戦える。


「ほんとに、大丈夫?」


「うん、いや、大丈夫だよ。なんでもない」


「そう? ならいいけど、不安な時はいつでも言ってね」


「ありがと」


「じゃ、どうする? 今日のスイーツさっき見たでしょ? 何にする?」


 椅子を引き、荷物を置きかけて、ふと、考えた。


 きっとこれが最後の時間だ。あの二人は近いうちにまたやって来る。だからこそ、大切な時間……、でも。


 未友を見た。短いまつげと、鋭い目じり。でも瞳は大きくて、わずかにブラウンが見える、綺麗さの中に可愛さを持った目。店内の熱気のせいかいつもより赤みがかった頬。細いけれど、少し濃いピンクの唇に、柔らかな顎の輪郭。


 彼女の中はきっともっと美しいもので満ちている。私なんかとは正反対な清純さを持っている。そう、なら、私にとって大切でも、穢していることになるような気がした。


 今までずっと無視してきたことだけど、忘れようとしてきたけど、もう逃げることができないのなら、ここで断ち切るべきだ。ヤツらがやって来て、今度は未友が巻き込まれたらと考えると、それこそ堪えられる気がしない。猶予は、さっきの時点で一刻もなかったんだ。


「ごめん」


 言い聞かせるようにつぶやいた。


「なに? なにが?」


 ごめん、と今度は心の中で。きっと突然のことで、心優しいあなたは理解できないでしょう。同時に、あなたは聡明だから、きっと何も言わずに送り出してくれる、そんな予感がする。


 それに、いや、こんなもしもは存在しないか。すべての清算が済んでもとに戻って来るなんてあり得るはずもない。一度、失敗しているのだから。


「ちょっと用事を思い出してさ、帰らなくちゃいけないんだ」


 私の言葉に、未友はうつむいた。ほんの数秒。それから、顔を上げてくれた。表情が物語っていた。でも、それでも、あなたは優しいから、ほんの少しだけ、私を心配してくれているんでしょう?


「さっきの人たち?」


 私は黙る。答えられない。言ってはいけない。それで未友は理解してくれる。


「わかった。言えないよね」


「ごめんね」


「いいよ。それに、本当にどうしようもなくなったら電話してね。時間なんて気にしないで。私はいつだって燐の味方だから」


 スクールバッグを持ち上げた。肩にかける重さも、きっと最後になる。


「じゃ、また明日」


 そう言って出口を見据えた。


 これが正しい選択のはずだ。これは私の問題なのだから。


 ようやく顔なじみになった店主に会釈をする。そこでふと思いつき、立ち止まった。


「ケーキって、持ち帰れますか?」


「もちろんです。どれになさいますか?」


 私はケースに並べられたものの中から、家族の好みを思い出しながら一つ一つ選んだ。


 箱に包まれるのを待っている間も、未友はなにも言わなかった。私の意図を汲んでくれているのだろう。私もこれ以上会話をしてしまえば、何もかも打ち明けてしまいそうだった。


 ケーキの入った箱を抱え、くぐりぬけてきたばかりの扉の取ってに手をかけた。ガラスに未友の足が反射しているのが見えた。それ以上視線を上げることはためらわれる。


 一息で、アンティークの木製扉を押した。冷気が袖口や首から入り込んでくる。四度目の渋谷の冬。今年は例年より寒いらしい。ぬるくなった私の頭にはちょうどいい薬だ。

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