第29話 催眠解放〈二見早苗〉
シンさんの部屋を進むにつれ、足袋越しに足元のザラザラした感触に気づいた。
サラサラの塩だわ。食卓塩の小瓶らしきものが、ドアの向こうの廊下の隅っこに転がってる。
その近くには、緑青に覆われたナイフが無造作に落ちてる。
さっきはこんなもの、もちろん落ちて無かった。これはきっと、沙衣くんが持って来てくれたナイフよね?
どうしてこんなところに落ちているの?
なんだか、嫌な予感で体が固くなる。
恐々廊下を覗いてみた。
「キャーーー!!」
どうやら全く上手く行かなかったようね!
玄関の側の廊下では、とんでもない事態になっていた!
「どっ、どういうことっ?!」
私の目に飛び込んで来たものは───
目の前では、頭をこちらに倒れた沙衣くんの上に、騎乗スタイルで跨がり、うっとりとした表情のトシエさんの幽霊。
その口は、沙衣くんの唇の間から漏れてる白い霧のような生気の帯で繋がってるの。
沙衣くんは? 虚ろな目をして‥‥‥意識飛んでる? 夢の中?
これって? ただ、襲われて組伏せられて? それとも‥‥‥
ううん、沙衣くんの両手はトシエさんの両ももを掴んでる。
夢の中でさっきのキスの続きのその先してるの? だとしたら自分から命を捧げているようなものね‥‥‥
「キャーッ!! ダメダメーーッ!!」
もう、ダメよ! 自ら与えてしまうなんて! 最後まで行ったら相当吸い尽くされて、運が悪けりゃお陀仏かもしれないわ。沙衣くんはまだ若いから多少は大丈夫そう? いやいや大丈夫じゃないって!
「キャーッ! 沙衣くんが死んじゃうっ! 即刻、沙衣くんを放しなさあーいッ!!」
その奥では脚を投げ出し、玄関扉にもたれて座って目を閉じてるシンさん。
まあ‥‥‥こっちもトシエさんからたっぷり奪われたようね‥‥‥
大丈夫よ。寝てるだけよ。今、むにょむにょって口が動いた。惚けた顔で寝ているシンさん。
中年男、いい夢見ながらあの世に徐々に近づくなんて、まあ、いいっちゃいいのかしら?
なーんて、早死にさせちゃダメだって! 早く塩、塩をッ!
なんか、今夜一気に攻めて来た感あるわよね‥‥‥トシエさん。白無垢さんまで登場してたし。どうなっちゃってるの?
茉莉児さんご夫妻の四十九日と関係あるのかしら。
亡くなってから、二人の霊が息子のシンさんを守っていたのかしら?
そして今日、私たちがお別れに来たタイミングで遂にあの世へ向かったのかも‥‥‥
今ならシンさんには、沙衣くんと私という助けがあるであろうことを見越して。
──物理現象は理由なんて考えちゃ前に進めない。理由解明は、後からついて来るもので。まずは現れる結果を、そういうものだと捉えておくしかない。
ひとまずトシエさんをこの場から引き離さなきゃ!
私は、持って来たアイテム入り段ボール箱から、塩の袋を取り出し、ハサミでビニールを開封した。
トシエさん、ごめんなさい! でも、生きてる人、大事だし。
「喰らえッ! 瀬戸内海産自然塩!!」
夢見の沙衣くんに乗っかって生気を奪っていたトシエさんに、塩を投げつけた。
塩がかかった肩から胸元にポッカリ穴があいて、向こう側が見えた。
ゆっくり私を向いたトシエさん。
──ギャー!! 怖いっ!! さっきの血塗れの姿に!!
とっさに塩の袋に手を突っ込み一掴み、目一杯投げつけた。
「沙衣くんっ! シンさん、しっかりしなさいっ!! ったく、これだから男はもうっ!」
沙衣くんもシンさんももう、当てになんないわっ!!
私がしっかりしないと!!
お清め塩の効果が効いたようね。トシエさんは、ふうっと全身
やれやれ‥‥‥
──あれ? でも、なんで私がトシエさんと白無垢さんを封印することになったんだっけ? 忘れちゃったわ‥‥‥
私には無関係っちゃ無関係の幽霊だわよ? セクシーな幽霊に惚けた男二人。なんだか馬鹿馬鹿しいからこのまま帰ろうかしら?
そういえば、白無垢さんはあれからどうなったのかしら? 謎。
はぁ‥‥‥
沙衣くんを起こして、どうしてこうなったのかを聞くべきかしら?
なーんか気がすすまないわぁ~‥‥‥
だからって途中で放り出すのもいかがなものよねぇ‥‥‥
う~ん‥‥今のお清め塩で、私はトシエさんには恨まれちゃったかも知れないし、やはり放置すべきじゃないわ。片をつけなきゃ。
──面倒事は、今夜のうちに終わらせる!
私は、まずは廊下に転がってる沙衣くんを起こすことにした。
私が来るまでの間に何が起こったのか、取り敢えず確認しなきゃ始まんない。
朦朧状態ね‥‥‥
「沙衣くん! 起きなさい!!」
横に片足ついてひざまずき、頬をぺちぺち叩いてみた。
途端に、未だ幸せな夢の中で漂っているらしき沙衣くんに、手首をガッと掴まれ、胸に引き寄せられたから叫んでしまった。
「ぎゃーっっっっっっ!」
ボコッ
びっくりして、思わず空いてる方の手で、沙衣くんの右脇腹にリバーブローを入れてしまった。
いっけない! ごめんなさいねぇ。息止まっちゃってない? つい反射的に‥‥‥
子どもの頃は兄と取っ組み合いのケンカもしばしばだったのよ。女子の私が、年上の男子に勝つためには多少の荒技も必要で‥‥‥
子どものころの癖っていつまで経っても抜けないのよ。体が今も覚えてる。そうそう、息吐いてる時パンチ喰らうと、うっっ‥‥‥って感じで効いちゃうのよねぇ‥‥‥
「うっっ‥‥‥!!」
私の手首を放し、眠ったままエビみたいに丸まって苦痛の表情を浮かべ悶絶する沙衣くん。
私は揺すりながら呼び掛けた。
「しっかりなさいよッ! こんな時に寝てないでよ!!」
私の咄嗟の目覚ましパンチが功を奏した。
よかった~。ようやく目を覚ましてくれた。すっごく顔しかめてるけど。
横たわったまま、私を見上げた。
すぐには動けないらしい。そうよね。ボディブロー喰らった上に、幽霊からは生きるエネルギーを奪われてたんだもの。
「‥‥‥‥あ‥‥‥二見‥‥さん、ですよね‥‥その‥‥格好?」
「ええ、封印の儀式のためよ。大丈夫? そのままの姿勢でいいわよ。でも少し休んでから、今夜の内にカタをつけたいの。OK?」
「はい‥‥」
再び目を瞑った沙衣くん。瞼が重そうね‥‥‥
沈黙が流れた。
仕方ないわ。ダルくて体が重たいのでしょうから。
このまま横にならせておいて、次はシンさんの様子も見ようと立ち上がろうとした刹那。
「‥‥白無垢さんが出たんだ」
静けさを破り、沙衣くんがボソッと呟いた。
横向きに丸まったまま、自分の膝を半目で虚ろに見ながら。
「ええっ! それであなたどうしたのよっ!? 何かされたのっ?」
「‥‥‥最終的には勝手に消えてくれたけど‥‥でも、ヤバかった。‥‥‥シンさんちのネコに、持って来た一袋の塩、奪われてしまって‥‥‥」
「ネコって‥‥、さっき沙衣くんがお風呂場に引き入れたクロネコ?」
沙衣くんは小さく頷いた。
実はあれはシンさんのネコじゃなくて、白無垢さんのネコだけどね‥‥‥
「白無垢さんに襲われたけど、なんとか助かって‥‥‥。その後シンさんが、お母さんから‥‥‥お母さんから生気らしきものを奪われてんの助けようと思って‥‥‥シンさんのキッチンにあった塩を撒いて‥‥それからは‥‥‥えっと‥‥‥」
沙衣くんの目が潤んだ。
「‥‥気を失って夢見てたのかな‥‥‥? どんな夢かはよく覚えてないけど、たぶんお母さんとの幸せな夢。こんな時におかしいですね、俺‥‥‥」
瞼を閉じた目尻から、涙が一筋垂れた。
「そう‥‥‥おかしくなんかないわよ。だって、幽霊とはいえ行方不明だったお母さんに会えたんですもの。‥‥ちょっとこのまま待っていて。シンさんを起こしてくるから。玄関で、座ったまま寝てるの」
私は沙衣くんの横からスッと立ち上がった。袴のガサリという衣擦れの音がやけに響く静けさ。
沙衣くん。夢を忘れているのか、ホントは覚えているのかわからないけれど、この子はマザーコンプレックスをこじらせてるのは確かなようね。その涙が物語ってる。幼い時に二度も母親を失っているんだもの。無理もないわ。
私、他人の心の内部に深追いはしないわよ。そーっとしておきましょう‥‥‥
──さて、こちらはうつけたお顔で玄関扉を背に、だらんと座ったまま寝ている中年男。
「茉莉児さんっ! 起きて!」
声だけじゃダメ? これじゃパンチも好きな内臓狙い放題よ。
だからってそんなことするわけないでしょ。さっきのは故意じゃないのよ。
まずは肩を揺すってみた。
「起きて! 幽霊はひとまず消えたわよ」
「う‥‥ん‥‥むにゃ‥‥俺‥‥両手に花‥‥へへっ‥‥‥」
もーう! どんだけいい夢見て寝てるのよ?
耳を引っ張って穴のなかに告げた。
「シンさーん! 起きてくださーい。この家に住み着いてる幽霊をさっさと封印しますからー」
「ギャッ! なっ、何事ッ!!」
シンさんは、ビクッと飛び起きてキョロキョロ周りを見た。
「あれ? 俺、どうしてたんだっけ? ‥‥‥そっ、そうだよ! トシエさんの幽霊がっ!! どこ行ったんだっ!!」
「落ち着いてちょうだい。今は大丈夫よ」
「落ち着けるかよ! やっヤバイって! あー、俺、どうすりゃいいんだ!」
まあ、気持ちはわかるけど‥‥‥。焦ってもどうにもならないし、かえって失敗するわよ。
「‥‥先ずは腹ごしらえね。二人とも体力奪われてると思うし、エネルギー補給しながらさっきの現象についての私の見解と、今から行うことについてお話するわ。食べ物何かあるかしら? 3人で2階のリビングに行きましょう」
シンさんは、心は動揺してるものの、体にはそれほどダメージも受けてはいないみたい。もともと丈夫な人なのね。
私たちと共に恐る恐る自室に入って、買い置きのカップラーメンとサバ味噌煮缶を各3つ、自室からチョイスし、割り箸と共にレジ袋に入れた。
青ざめた顔の沙衣くんは緑青のナイフとシンさんの買い置きの緑茶のペットボトル3本を持ち、私はアイテムを集めた段ボール箱を持って2階リビングへの階段を警戒しながら上った。
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