第28話 母恋眩惑〈河原崎沙衣〉

 白無垢さんは無念を人に伝えて満足したのだろうか? ひとまず消えてくれたらしい。


 トイレから出て玄関を覗くと、相変わらずトシエとシンさんのラブシーン。


 早くトシエを止めねーと、シンさんがヤバいよな‥‥‥



 俺はシンさんの部屋に入り、塩を探した。


 この部屋には小さなキッチンもついていて、茉莉児さんはここで簡単なものを調理して生活しているはずだから、どっかにあるはずだ。


 カウンターテーブルで仕切られた狭い向こう側がキッチンになっている。



「あ、これっ!」


 すぐに見つかった、塩が入った青い蓋の小瓶。サラサラの食卓塩だ。



 これでいいのかな? 俺は相撲で力士が土俵でまくような塩を想像してたんだけど。


 また、自宅に取りに帰っても、もうビンに小分けした少ししかないし、これでいいか。同じ塩だし。


 よっし! 行くぞ。



 ‥‥行きたくねーけど。



 俺は青いキャップを外してそこに置き、玄関に向かった。



 トシエの後ろ姿。



「おっ、お母さん‥‥茉莉児さんから離れろよ!」



 震える声になってしまった。


 言うと同時にビンの塩を手のひらに半分出してトシエの背中に投げつけた。


 塩がかかった長い髪先は縮れ、その素肌の白い背に、いびつな黒いアザが浮かび上がった。


 ‥‥が、みるみる髪とアザは回復し、元通りの筋の通った美しい背中に戻った。



 ──えっと‥‥‥これって、ノーダメージ?



 シンさんからくちびるを離し、白い生気の帯をたゆたせながら、ゆっくり振り向いたトシエ。



《‥‥‥邪魔な子》


《沙衣‥‥‥いらない‥‥‥死んでくれればいいのに‥‥‥》



 頭に直接飛び込んで来た懐かしい声。



 言われなくてもあんたの本心は知ってるってば。



 ──でもさ、俺は心の奥底ではあんたを慕っていたんだぜ? きれいなお母さんが来てくれて嬉しかったんだ。なのに‥‥‥



 俺、今日は何回泣いてるんだろう? 


 大人になってから、涙流して泣いた記憶なんて無いってのに。



 だって、本人から直接まんま言われたらキツイ。



 今夜の俺は情緒不安定。



 シンさんは、トシエとの生気の霧が途切れ、夢見心地な弛んだ寝顔のまま、背中を玄関扉に預けながらズルズルと尻を下に着けた。


 この様子じゃすぐに目は覚めそうに無い。



 っち‥‥。生気奪われてたのに、何だよ? そのヨダレべちゃくちゃ垂らした惚けた寝顔。キモッ‥‥‥



 俺はこちらを向いたトシエに、正面から残った塩を投げつけた。



 塩がぶつかった皮膚は黒くジュワっとしたが、それは一瞬で、ほどなくみるみる修復されていった。



 もう、俺はどうしたらいいんだ? この全裸のビーナス。美しく、まるで本物の人間のような幽霊。



 しかもこれは俺の継母。


 なのに、子どもの頃にはわからなかった魅力まで感じてしまう。この恐怖の中だというのに。


 そして、それはこの幽霊に伝わっている‥‥


 まあ、俺の体の一部分を見ればまるわかりだろうけど。



 ──くっそ!! そうだ! ナイフ! 今はトシエをなんとかしねーと!



 俺はトシエから目線を外さぬまま、ベルトに挟んだナイフを手探りした。



《‥‥‥》



「えっ?!」



 トシエが全裸から、黒いランジェリー姿にパッと変わった。


 驚く俺をよそに、恥ずかしげな困惑ポーズ。



 ──俺、見透かされてる。



 心の奥底では母親を求め、トシエを慕っていたこと。


 初めて見た時から密かに性的魅力を感じていたこと。



 俺を見て、胸を覆い恥じらう素振りにムラッとする。



 ──男の心理、わかってんじゃん。



 隠されたら秘部は自分が暴きたいっていう、男心をくすぐるトシエ。


 浅ましい男を十二分に観察し、操りながら生きて来たんだろうな。


 それなりに美しい顔とスタイルを意識して、利用して、たぶんその部分だけで生きて来た女。



 もうガキじゃない、すっかり大人になった俺。もうトシエとも対等だ。


 トシエとは所詮、赤の他人。


 年頃の男と、見かけ若い当時のままの女。


 しかも美人。


 

 ──だからって。



「‥‥俺が‥‥そんな手に乗るとでも?」



 俺を上目遣いで見ながら、ブラの左肩のヒモを腕に落として横を向いた。



「‥‥‥息子の俺を誘ってんの? ちな、みえみえのハニートラップに俺が引っ掛かるとでも思ってんのかよ?」



 俺は努力してすかした顔を作り、手にしたナイフを向ける。


 俺みたいなクズにだって、理性と多少のプライドはあるんだからな。



《‥‥‥‥》



 潤んだ眼差しを向けられた。



《‥‥‥どうして?》



 トシエの目からポトリと涙が一粒こぼれ落ちた。



《沙衣‥‥いけない子‥‥》


《危ないものは‥‥向こうに置いて》


《‥‥お願い‥‥‥お母さんの言うこと聞いて、ね?》


《沙衣は‥‥本当はいい子だもの‥‥‥》



 ‥‥‥ああ、お母さんこれは、優しい時のトシエ。


 毎日いたぶられ、厳しく扱われ、俺がキレる寸前になると、そう、決まって‥‥



 ───『沙衣、耐えて偉かったわね。いい子には‥‥‥』




《いい子には‥‥‥いつもの‥‥飲ませて‥‥あげる‥‥‥おいで‥‥‥》



 やめろ!! ああ、俺はいつだってこれで騙されて耐えていたんだ‥‥‥


 やたらひどい目に遭わされたって。


 でも、それはまやかしだって気がついて‥‥‥



 ───だってそれは当然ながら、最初から俺だけのものじゃなかった。



 わかっているのに。十分過ぎるほどに‥‥‥


 それなのに、三つ子の魂百までとは、よく言ったもので。



 俺はソワソワとナイフを上げ下げし、数秒迷った挙げ句、後ろにポイっと投げ捨てた。



《いい子ね‥‥‥ご褒美よ‥‥‥》



 両腕を俺に差し出し、俺を迎え入れてくれるお母さん‥‥‥



 俺はフラフラと引き寄せられ、トシエを床に押し倒す。



 ブラを引きずり下ろし、その2つの果実を舌触りと手触りで味わう。


 俺の頭を優しく撫でてくれるお母さん。



 思い出す幼き日の至福の時‥‥‥



 俺、もう十分男だ。だからこれだけじゃ足りない。


 唇は這い上がり、唇に向かう。


 背徳感が、余計に俺をそそる。



 きっと本当はずっとこうしたかったんだ‥‥‥トシエと。



 好きと嫌い、愛と憎しみは紙一重。



 ──俺を好きになって貰いたかった。お母さんに。トシエに。



 その素肌に触れれば、ささくれだった心が満たされていく‥‥‥


 俺に欠けていたブロック。


 これだったんだ? 気づかなかった。今の今まで。


 

 ──快楽が欲しいなら、俺が与えてやるよ。だから、俺のこと好きになってくれよ‥‥優しくしてよ‥‥‥夜明にするみたいに。



 ゴロンと半回転、上下逆転された。俺が床に、トシエが上に。


 さすが。最初からそういく? 攻めるね。




 俺のどこか遠くで、女の人の悲鳴が聞こえた。




 ───この声、知ってる‥‥‥えっと‥‥‥だれだっけ‥‥‥? 頭にモヤがかかってる‥‥‥


 邪魔すんなよ、これからだって時に‥‥‥





《キャーッ! 沙衣くんが死んじゃうっ! 即刻、沙衣くんを放しなさあーいッ!!》


《喰らえッ! 瀬戸内海産自然塩!!》


《沙衣くんっ! シンさん、しっかりしなさいっ!! ったく、これだから男はもうっ!》



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