二、急いては事をし損ずる



 琥珀の瞳。腰が隠れるくらいの細く長い黒髪は、上の方だけ団子にしていて、それ以外は背中にそのまま垂らしている。つま先が隠れるほど裾が長い白い道袍は、所々血で汚れていた。

 その地味で何の変哲もない道袍を唯一飾る、紫色の腰紐が風で揺らめく。


 黑藍ヘイラン白藍パイランも、そこに立ちへらへらとしながら頬を掻いている櫻花インホアに、それぞれ思うところがあり、しかしながら今はそんな場合じゃないと、お互い顔を見合わせる。


(ちょっと待て······呪いで法力半減してるはずだよな? 俺たちでさえどうにもできなかったあの触手を凍らせて、しかもそのままバラバラにするとか、)


 確かに分身であるが故、こちらも本気は出せずにいたわけだが。


(······神だったと言ってもただの花神だよな? そもそも武神でもないのに、なんで剣?)


 天帝に愛され、応竜とは知己で、その配下の四竜(自分は除いて)と交流があり、三人とも櫻花インホアを過大評価していた。けれども、自分はそれを知らない。なぜなら、いつも遠くで見ていたから。


櫻花インホア、君も気付いたんだね、」


 白藍パイランが傍に寄って来て、櫻花インホアを見上げてきた。櫻花インホアは笑みを湛えたまま、はいと頷いた。


「そこのはあの子ではありません。そもそもですらないのかもしれませんね、」


「君が見てそう思うのなら、間違いない」


「いや、俺にもわかるように教えろ」


 ふたりで納得している姿に、黑藍ヘイランは呆れた顔で言った。

 一体なにが、どう、間違いないのか。


「そもそも災禍さいかの鬼は、存在しないんです」


「······何を言っているのか、全然わかりませんね。災禍さいかの鬼はここにいるじゃないですか。花の精を斬り刻んだ俺のことを、まさか忘れてしまったんですか?」


「······確かに、容姿や声はあの子のものですが。そんなのあり得ないんですよ」


 櫻花インホアは微笑を浮かべ、穏やかな口調で語りだす。

 そう、花楓ホアフォンであるはずがないのだ。


「急いては事を仕損ずる、と習わなかったか?」


 突如、天から声が響く。同時に、雲を突き抜けた青い空の先から光の帯が地上に降り注いだ。その光の帯の先に姿を現したのは、天界、つまり天上の最高神である天帝そのひとであった。


 その傍らに立つ上等な黒衣を纏った赤い瞳の青年が、櫻花インホアを見るなり拱手礼をして頭を下げた。驚くことにその容姿は、その先にいる災禍さいかの鬼と瓜二つであった。


櫻花インホア様、申し訳ございません······、あの時、あなたを前にして、なにも答えることができなかったこと、お許しください」


「許せ、櫻花インホア。私が、それを止めた。すべてが終わるまでは、誰にも名のらず、姿を晒すなと。この者の罪は、この数百年ですでに償われた。私が与えた任務をこなし、武神として万人を救った」


 天帝の低いが優しく穏やかな声が、諭すように紡がれる。それに対して花楓ホアフォンは腕を囲ったまま、ますます頭を深く下げた。

 その頭の天辺を飾る紅色の髪紐が、あの穏やかで平穏だった日々を思い出させる。


尸迦シージャ······いえ、天帝のお心遣い、感謝します」


 櫻花インホアはその場に跪くと一礼し、同じ視線の先にあるその赤い瞳を、慈しむように見つめた。


花楓ホアフォン、やはりあの時の黒衣の青年は、あなただったんですね、」


櫻花インホア様、」


 朽ちた百花ひゃっか堂を手入れし、あの時以上にたくさんの花を咲かせ、茶梅チャメイたちの魂魄をあの場所で守り続けてくれたのも、間違いなく。


 自分たちとも何度か関りのあった黒衣の青年の正体を、まさかこんな所で知ることになるとは、と白藍パイラン黑藍ヘイランは心の中で思ったが、今はそれどころではないと跪き、改めて天帝に拝礼する。


 天帝を挟んで反対側にいる災禍さいかの鬼は、この事態に困惑し、俯いて頭を抱え、ぶつぶつとなにか言葉を口にしていた。代わりに、花楓ホアフォンが囲っていた腕を解いて顔を上げた。


「あの日、宴の席で、俺は力を解放させられました。それは、鬼神おにがみであった俺にとっては強い言霊で、逃れることはできなかったんです」


 そして悲劇は起こった。


 あの日の恐ろしい光景を思い出すたび、気が狂いそうになった。それでも、死ぬわけにはいかなかった。櫻花インホアの冤罪を証明するために。しかしその原因でもある鬼神おにがみが語ったところで、一体誰が信じてくれようか。


 罪は消せないし、償う術ももたない。


 あの日散った花の精たちの魂魄を、嫦娥チャングに気付かれないように集められるだけ集めて、天界から姿を消した。行き先は、帰る場所だった百花ひゃっか堂。花楓ホアフォンが思い付く場所はそこしかなかったのだ。


「すぐにみんなの魂魄をそれぞれの花に収めて、後は祈るしかありませんでした」


 その数年後のある日の事、いつものように百花ひゃっか堂に身を潜め、人目を盗んで庭の手入れをしていたところに、天帝が姿を現したのだ。


「その場で首を切ろうとしたので止めた。死ぬくらいなら、私の役に立てと」


 天帝は百花ひゃっか堂を守ること、時々自分の仕事を手伝うこと、誰にも見つからないようにすることを誓約させた。そして、蓬莱ほうらい山の百花ひゃっか堂には誰であろうと近づいてはならない、と命じた。


「数年前、茶梅チャメイ様が一番にお戻りになられたので、どうしてもお教えしたくて。天帝に頼み、応竜様を通じて、櫻花インホア様になんとかあの堂へ足を向けるようにしていただいて······」


 あの日、茶梅チャメイと再会した時。庭の花々や手入れの行き届いた様を見て、すぐに気付いた。この場所を守ってくれていたのが、誰か。


 だからあの村を襲った者が、彼であるはずがなかった。そんな心根の綺麗で優しい子が、災禍さいかの鬼になんてなっているはずがない、と。


 目の前の者は、わざわざ九十九人分の死体を用意し、櫻花インホアにあの時のことを思い出させ、精神的に追い詰めて楽しんでいたのだろう。


 それ以前に、自分の周りで起こっていた不可思議な怪異や噂の数々、それも少なからず彼の者の仕業だったはず。どれも一歩間違えれば、多くの犠牲者が出ていた。


 全ては、櫻花インホアを苦しめるための、度を超えた嫌がらせであった。そのどれも上手くいかなかった事と、徐々に迫りくるものに耐えかねて、今回の所業に及んだのだろう。


「どうした、嫦娥チャング。何か言うことはないか?」


 天帝の言葉に、災禍さいかの鬼、否、月神である嫦娥チャングが抱えていた手を頭からゆっくりと放した。すると、漆黒の衣を翻し、本来の姿を現す。


 派手な青色の上衣に、銀の糸で描かれた模様の入った紫色の下裳。首や指を飾る金色の装飾や宝石たち。美しいが、冷ややかな微笑を浮かべた月の神がそこにはいた。


「誤解ですわ、天帝。わたくしは試していたのです。その者があの時のように、悪鬼羅刹に取り憑かれていないかを」


 この期に及んで何を言い出すかと思えば、嫦娥チャングは頭を下げ、そのようなことを言い出す。


わたくし、あの日のことは忘れません。その者がそこの鬼神おにがみを操り、宴の席で自分の配下を無残にも殺させたのです」


 その堂々とした語りに、天帝含めその場にいた者たちは、まるで本当のことを話しているような気さえしてくる。彼女が何百、何千とその口で付いてきた嘘は、彼女にとっては永遠に真実でしかなかったのだ。



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