鯉と両想いの恋愛論争

三嶋悠希

結ばれなかった男女のオールド・メモリー

 夏の暑さは、時に肝心なことを霞ませる。

 額から垂れてきた汗を拭って、私は立ち止まった。バッグから水筒を取り出す。喉の中を冷たいほうじ茶が通っていく。身体の中に生命が降り注ぐような快感を覚えたが、そんな感覚も束の間、またすぐに汗が噴き出してきた。


 外回り営業が終わり、帰路についていたが、このままでは埒が明かない。とりあえず休憩出来そうな店がないものかと、辺りを見渡した。


 そこで、私のパンプスが一枚のハンカチを踏んでいることに気がついた。


 拾い上げてみると、随分と綺麗な白色をしている。誤って踏んでしまったことを一層申し訳なく思った。


 右下に朱色で小さく「志田」と縫われている。高校時代に所属していた文芸部に、同姓の、それもまあまあ仲の良い後輩がいたものだから、なんだか懐かしくなった。良さそうなカップリングを見つけては応援するのが趣味という、大人びたようで変わった人だった。


 このまま地面に戻すのは流石に良心が痛むし、刺繍も施されているから、念の為後で交番に届けよう。カバンにハンカチを仕舞う。あまりの暑さに太陽を睨むと、目の前の建物にある看板が目に入り、私を惹きつけた。


「喫茶店 鯉の橋→」


 不幸中の幸いか、二階に喫茶店があるらしい。私は半ば思考を停止して階段に歩みを進めた。


 店内に入ると、中はクーラーが効いていて、体が癒えた。店の作りは比較的簡素だった。木造になっていて、焦げ茶色で統一されているが、何かの絵画が飾られているわけでも、陽気な音楽が流れているわけでもない。


 奥に小さな本棚があり、絵本や雑誌が多い中、司馬遼太郎の「街道をゆく32 阿波紀行、紀ノ川流域」が異様な目立ち方をしていた。


 カウンターには、一人の男性が腰掛けていた。背後の壁に、写真が飾られている。花畑で女性がまだ五歳くらいの子どもを抱きながら笑っていた。


 男性がこちらを向き、目が合った。その瞳を見た瞬間、私の記憶にある何かがぶわっと押し寄せてきた。まるで、無くしていたワイヤレスイヤフォンが、ずっと履いていなかったズボンから出てきたときのような高揚感。


りょう……?」

紀織きおりじゃないか。こんなところで会うなんて。久しぶり」

「やっぱり涼ね。すぐに分かった。変わってない」


 確かに私は、十年前、この男に恋をしたのだ。


「まだ十年だからな。ところで、こんなところに何をしに来たんだ?」

「まだじゃなくて、もうでしょ。ちょっと外が暑すぎて……一服しに来た」

「そうか。俺もだ」


 かつての恋仲である涼と、思わぬ再会を果たしてしまった。しかし恋仲とは言っても、私たちは付き合っていたわけではない。互いに告白することなく卒業。高校生によくあるパターンだ。両想いなのは、明らかだったはずなのに。


 私は「隣、いい?」と彼に訊ねて、席に着いた。そういえば、店員の姿が見当たらない。まさか留守なんてことはないだろう。


「店員さんはいないのかしら」

「一人で切り盛りしているらしい。店長なら、さっき奥に行った」


 涼は手元のアイスコーヒーを一口飲み、ストローをくるりと回した。


「せっかく久しぶりに会えたんだし、何か面白い話でもしようよ」

「恋バナ、とか?」

「いいじゃない」


 やはり涼は話が早い。世間話をすっ飛ばそうとするところに、似たものを感じた。私が当時恋バナをよくしたがったものだから、そこを突かれただけかもしれないが。同級生と十年ぶりに恋バナをするという状況におかしさを感じながら、確かに私の心臓は早鐘を打っていた。


「涼、あれでしょ。私のこと好きだったでしょ」

「そうだよ。俺は紀織が好きだった」

「案外あっさり認めるのね」

「事実だからな。でも、最初に俺を好きになったのは紀織の方だろ」


 変な論点のずらし方をしてきた。謎の意地を張るところが、やはり十年経っても涼だ。私はここで頷くと面白くないと思い、簡単には譲らないことにした。


「いや、違うね。涼が先に好きになった。絶対そうよ。間違いない」


「相当な自信じゃないか」と涼がふんと笑ったところで、奥から店長らしきお兄さんが出てきた。黒縁のメガネをしている。まだ歳は若そうだ。それこそ、私たちと同じくらいか。お兄さんは「おや?」と眉を上げた。


「りょうさん、知り合い?」

「ええ、高校の同級生でして。たった今休憩に訪れたそうです」


 するとお兄さんは「あぁ」と言って微笑んだ。


「初めまして。藤石ふじいし紀織といいます」

「どうも、藤石さん。磯部いそべです。誰も来ないような店なんでね。ゆっくりしていってください」

「ありがとうございます。後ろにある写真は、奥さんとお子さんですか?」


 私は気になっていた背後の写真を振り返りながら聞いた。


「はい。僕も写れば良かったんですけど、あいにく周りに人がいなくて。仕方なく僕が撮りました」

「とても綺麗に撮れていますね」

「そうですか? なんか照れますね。ありがとうございます」


 私は会釈をして、メロンソーダを注文した。磯部さんはまた奥に入って行った。


「なんか磯部さん、私を知っているような反応じゃなかった? 私のこと話したの?」

「さあね。もしかしたら、酔っ払ったときにでも話したかも。常連だから、店長とは沢山話しているんだ。内容はあんまり覚えてないけど」

「なに? 私のことまだ好きなの?」

「さすがにないね。未練タラタラすぎるでしょ」

「それもそうね」


 磯部さんがメロンソーダを持ってきてくれた。格別の泡が私の喉を潤した。


「藤石さん。ここに来る時、店の前に立て掛けてある看板見ました?」

「鯉の橋……でしたよね? 見ましたよ」

「なんか変な名前だなって思いません?」


 確かに、少し思ったかも知れない。


「あれね、由来がありまして。昔、僕の祖父が、よくここへ来てくれてたんです。ほら、ここって、目の前に紀の川が流れていて、上に橋が架かっているじゃないですか。一緒に橋を渡るとね、いつも祖父が『この橋から見える鯉は綺麗だ、この橋は鯉の橋だ』って。勝手に自分の中で名前つけちゃって」

「なんだか可愛らしいですね」

「ええ。それで、あっ、採用しようってなったんです。このお店が、人々を素敵な恋で繋ぐ架け橋になればいいなって、掛詞みたいにしてみました」

「粋で良いですね」

「ありがとうございます。すいませんなんか。田舎の電車くらい少ない新規のお客さんだから、張り切って話しちゃいました」

「なら、まあまあ賑わってますね。一時間に一本来るので」

「どういうことですか」

「磯部さんが言ったんじゃないですか」


 磯部さんのよく分からない小ボケを適当に処理すると、涼は苦笑いをしながら私たちを交互に見つめた。


「ところで、お二人で何を話されていたんですか?」


 興味津々という瞳で、腰に両手を置きながら磯部さんが聞いた。私が先に答えてやろうと思ったが、丁度メロンソーダを飲んでいたので、言葉を発せなかった。


「なんというか、単刀直入に言うと、俺、高校の頃紀織が好きだったんすよ。それで、紀織も俺のこと好きなのはわかってたんで、どっちが先に好きになったかを話してたんです」

「これはまた……なかなか面白い話を」

「紀織、俺が先に好きになったってどうしても言って欲しいらしくて」

「は、違うし。何言ってんの? 磯部さん、この人嘘ついてまーす。元はと言えば、この人から言い始めたんです」


 磯部さんは高みの見物らしく、豪快に笑い飛ばしている。


「どちらが正しいんでしょうね……何ですか、あそこにあるミステリーにでも触発されたんですか?」


 磯部さんは本棚の方を指さした。確かに、さっきまでは見えなかった角度にミステリー小説が置かれていた。


「そうかもしれません」


 涼が笑いながらアイスコーヒーを喉に通した。


「つまり、ここでの謎は『どちらが先に好きになったか』ですか。実に興味深い」


 まるで全てを知ったかのような言い草だ。この気さくな感じは、確かに涼と気が合いそうだと、直感で思った。


「じゃあ私はお二人の言い分を聞くことにしますよ。まずは、新規のお客さん。藤石さんからどうぞ」


 何だか磯部さんが会話の中心に立っている気がするが、別にいいだろう。先手必勝。ここは私が攻めさせてもらうことになった。


「涼、覚えてる? 三年の帰り道。付き合ってもない私たちが初めて手を繋いだあのときを」

「覚えてるさ。紀織、ほんとに恥ずかしがってたよな。手汗びっしょりだったじゃん」

「そんなことはいいの! それより、あのとき、涼が先に手を差し出したのよ?」


 せっかく私が切り出した思い出に、悪い意味では無いが、気持ちの悪い蒸し返し方をしてきた。今だから、こうやって語れるのだ。許してやろう。


「それがなんだ」

「だから、涼があのとき、先に手を繋ぎたいって暗に示してきたんだし、やっぱり涼が私のことを先に好きになっていたのよ。そうじゃないとおかしいわ」


 どうだ、この主張はかなり硬いだろう。


「違うよ。あれは試しただけだ。手を握ってきたら紀織はきっと、俺のことが好きだろうと思ったんだ。案の定、紀織は手を握ってきた。びしょ濡れの手でな」

「まだ言ってるよ。もういいわ、とにかく、先に手を差し出してる時点で涼は私のことを好きだったの。そうですよね、磯部さん」


 私はちらりと磯部さんに目を向けた。だが磯部さんは「難しいですねぇ」と顔を顰めた。


 わけが分からない。磯部さんは涼が常連だから味方しているんだ。きっとそうに決まっている。


「俺は負ける戦はしない。手を握ってきたら、相手の好きを確信出来るからな」

「はい、それを言った時点で終わり。『負ける戦』ってことは、告白のことでしょ? やっぱりその時点で好きだったんじゃん」


 というか、握ったんだから告白しろよ、と内心で毒づいた。


「なら、もういっそ、お二人が互いを意識し始めた時期を話してみたらいかがです?」


 磯部さんがにやにやしながら、核心を突く提案をしてきた。


「それなら俺にも勝機はある。とりあえず、俺はあの時点で紀織のことが好きだった。それは認める。でも、それよりもずっと前に紀織は俺が好きだった」

「どういうこと?」

志田しだという後輩を覚えているか。俺たちが所属していた廃部寸前の文芸部の、愛しい後輩だよ。良い奴だったよな」

「覚えてる。懐かしいね」


 志田くんの名前を出されて、今までは無かった焦燥感が身体を駆け抜けた。いつも通りの帰り道を歩いていたら、不意に知らない道に変わっていたような。


「俺は二年のときに志田に教えてもらっていたんだ。『紀織が、俺を好きと言っていた』ってな。それで俺は紀織をもっと意識するようになった」


 あれっ、ちょっと待って……?


 そんなことを言った覚えはなかったが、今はどうでもいい。それを聞いた途端、忘れていた記憶が呼び覚まされた。興奮を落ち着かせるため、思わずメロンソーダを口にした。


「紀織にはまだ気づけていないトリックがある。残念だったな──目の前の店長こそ、志田なんだよ」

「えっ」


 私は思わず磯部さん、いや、志田くんの顔を見た。当時はメガネを掛けていなかったはず、と思ったそのとき、彼はメガネを外して見せた。その顔を見て、愕然とした。志田くんの面影が確かに残っていたからだ。


「藤石先輩、お久しぶりです。隠していてごめんなさい。そう、僕が志田です」

 えっ、じゃあ、苗字は──と、はっとして思わず背後の写真を一瞬振り返った私を見透かすように、志田くんは告げた。

「婿に入りました」

「まさか……志田くんだったの? もう、先に言ってよ」

「なんだか面白くて。すいません」と笑った。かつて、私にこっそりあのことを教えて、振り回したときみたいに、悪戯に。

 その人懐っこい表情に誘われるように「結婚おめでとう」と添えた。


「そうだ、涼に言われて思い出したんだけど、私も志田くんに聞いてたよ? 『涼が私のこと好きって言ってた』って」


 さっき思い出したことを告げる。涼はここに来て初めて目を大きく見開いて、志田くんの方に向き直った。


「俺、そんなこと言ってないぞ」

「涼も? 私も志田くんに言ってなかった」


 そして私たちは確信したようにお互いに顔を合わせた。


「志田、お前──」


 涼にとっては、数秒前まで味方だったのだろう。やはり、私がもし来ても気づかないだろうから黙っておこう、などと仮の話を弾ませていたに違いない。


「バレちゃいました? そうです。僕が犯人です」


「だって先輩たち、もうほんと、お互いに好きって感じでしたし」とぺこぺこ頭を下げた。志田くんはどうやら、私たちをくっつけようと画策していたらしい。当時、教えてもらった志田くんの趣味にはっとする。良さそうなカップリングって──


「当時の志田め、やりやがったな」

「ほんとよ。やってくれてたわね」


 志田くんはいつも私を振り回していた。今も、志田くんに場を支配されている。


「まあまあ、落ち着いてください。何はともあれ、お互いに同じ時期に好きになっていたってことでいいじゃないですか。解決です」

「志田くんってば……参っちゃうわ」

「藤石先輩、まだありますよ。最初に挨拶したとき、気づきました? 僕は『初めまして』って言われたのに返してないこと」


 志田くんがニカッと笑う。ムカつくべき状況なのに、憎めないその顔に「もぉー」としか言えなかった。


 私は数分前、暑さに身を焼かれていたときのことを思い出した。


「そうそう、忘れないうちに。このハンカチ、さっき店の前で拾ったんだけど、もしかして志田くんの?」

「えーっ! 店の前にあったんですか。ありがとうございます。そうです」

「ううん、良かった」

「妻からのプレゼントで……ずっと探してたんですよ」


 綻んだ顔を見るに、かなりほっとしているらしい。


「お二人とも。今日はサービスしておきますよ」

「ほんと? ありがとう。じゃあ今度こそ、文芸部の頃の思い出話に浸ってみる?」

「そうだな」


 涼が頷く。志田くんが得意そうな顔になって言う。


「お二人の恋の橋に、なれました?」


 外を見ると、まだまだ太陽は眩しかった。先程は睨みつけてしまったが、私をここへ導いてくれたことに、窓越しに感謝した。


「さあね」


 もう少しだけ、休んでいこう。後輩に裏切られた旧友は、アイスコーヒーをおかわりするのだった。

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