週明け職場へ行くと、田丸さんはいつもと変わらない様子で、穏やかに働いていた。記憶を失くすほど酔っぱらうなんてみっともなくて他の人には聞かれたくないから、金曜日の自分の様子について、人のいないところで話したいと思った。でも、仕事中はずっとベルトコンベアが動いているから離れることはできない。私は、目の前を流れる黒い部品を眺め、汚れや傷がないか一つ一つ手にとって確認しながら考える。お昼休みに田丸さんは一度工場から出て何か昼食を買いに行っているようだから、そのときに声をかけようと決めた。

「冴綾ちゃん、お昼行こう」

 昼休みになって、真帆に誘われる。

「私、今朝お昼買ってくるの忘れちゃったの。コンビニ行ってくるわ。先に休憩室行っててくれる?」

「わかった、いってらっしゃい」

 真帆は椎名さんと一緒に休憩室へ向かった。私は財布だけ持って、工場の入り口で田丸さんを待つ。ほかにも、近所の定食屋さんに食事に行く人や、コンビニ前の喫煙スペースへ煙草を吸いに行く人など、わらわらと工場から人が出てくる。その中で一人、頭一つ分背が高く、ひょろっとした田丸さんを見つけた。見失う前に駆け寄る。

「田丸さん」

「藤田さん、どうされたんですか?」

「あの、お昼買いに行くんですよね?」

「そうですよ」

「一緒に行っていいですか?」

 田丸さんは少しだけ驚いたような顔をしてから「もちろんです」と言った。

 工場の最寄りのコンビニは歩いて五分ほどだ。ほかにも工場の従業員が何人か歩いているが、会話内容が聞き取られるほど近くはない。

「あの、田丸さん」

「はい」

「金曜日のことなんですけど」

「はい」

「私、酔っぱらっちゃって、いまいち覚えていないんです。何か、どなたかに失礼なこと、ありませんでしたか?」

 田丸さんはほのぼのと歩きながら私を振り返った。

「何も覚えてらっしゃらないんですか?」

「いや、途中までは覚えています。ヤサのお母さんが作ってくれたごはんはどれも美味しかったですし、ケンちゃんが走り回って遊んでいたとか、浜田さんの奥さんと喋ったことも覚えています。でも、アパートのおっちゃんが来たあたりから、覚えていないです」

 恥ずかしくなって、思わずうつむく。

「じゃ、楽しかったのは覚えているんですか?」

「あ、はい。とても楽しかったという記憶はあります」

「じゃあ、それでいいじゃありませんか」

 田丸さんはにこにこしていた。

「でも、何か失礼がなかったかと思って」

「失礼なことなど、何もありませんでしたよ。心配なら、詳細をお伝えしましょうか?」

 田丸さんは、全然酔っていなかったんだな、と思った。お酒、強いんだ。

「藤田さんは、ヤサさんのお母様のお料理をとても美味しそうに食べてらして、浜田の奥さんと仲良く喋ってらして、『おっちゃんも呼べば良かった』と仰って、一緒に呼びに行って、みんなで楽しく喋りながら飲んだり食べたりしました。藤田さんの記憶と、変わりません」

「あの、私何時頃に帰ったのでしょう」

「十時くらいだったと思いますよ。浜田のとこの下の子が眠ってしまって、ケンちゃんも眠そうにしていて、そろそろお開きにしようか、という話になって、藤田さんもそこでお帰りになりました」

「そうでしたか。じゃ、特に変なこと、私してないんですね」

「ええ。まったく何もおかしなことはありませんでしたよ。どなたにも失礼なことはありませんでしたし、ヤサさんとヤサさんのお母様は、『さーや、ありがとう』と何度も仰っていました。失礼どころか、ヤサさん親子とほかの人たちをつなぐ、橋渡しのような役割をなさっていたと思います」

 田丸さんは嘘をつく人ではない。週末の間、ずっと気に病んでいたが、田丸さんにそう言ってもらえれば、とりあえず金曜に大きな失態はしていなさそうだ。

「良かったです。ずっと心配していたんです」

「そうだったんですね。でも、あれだけの量で記憶を失くしてしまうほどお酒に弱いのであれば、あまり飲まないほうがよろしいのではないのですか? 僕が一緒のときは構いませんが、お一人のときにまた記憶を失くしたら、誰にも詳細を教えてもらえませんよ」

「そうですね。今後は、気を付けます。ありがとうございました」

「いえいえ」

 さすがに、二日酔いがひどくて自己嫌悪に陥っていたので、金輪際お酒は飲まないことにしました、とは言えない。誰にも迷惑をかけていなかったのなら良しとしよう、と自分に言い聞かせる。二人でのんびりコンビニへ歩き、田丸さんはサンドイッチを、私はおにぎりを買って工場へ戻る。ふっと甘い香りが鼻腔をかすめ、周囲を見ると工場敷地内の端に水仙が咲いていた。

「田丸さん、水仙が咲いています」

「ああ、あれは水仙という花なんですか?」

「そうですよ」

「毎年、良い香りだとは思っていましたが、名前は知りませんでした」

「良い香りですよね」

「ええ、とても。藤田さんのおかげで一つ賢くなりました」

 田丸さんは、本当に誰にでも優しい、と思った。田丸さんのことを知っていて就職を決めたわけではなかったけれど、この工場に勤めて良かったと思った。水仙が咲いて春が来て、私はまた一つ、無駄に年をとるのだなと思った。

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