薄らと目を開けると、閉じたままのカーテンの隙間から日が差している。いつの間にか眠っていたらしい。スマートフォンで時間を確認すると、昼を過ぎていた。相変わらず体は重いが、頭痛は少しマシになり、胃のむかつきも多少は良い。ずるずると這うように起きだし、冷蔵庫からリンゴジュースを出して飲む。二日酔いは何か食べたほうが早く回復すると聞いたことがある。冷蔵庫と野菜室を眺め、どうにか食べられそうな野菜粥を作ることにした。

 人参と大根をみじん切りにする。大根は胃腸に優しいから多めに入れよう。あとキャベツも細かく切る。キャベツに入っているキャベジンという栄養素も、胃腸の働きを助ける作用がある。看護学校で勉強した栄養学を思い出しながら野菜を切る。ひたすら無心で野菜を切る。小さな鍋にお湯を沸かし、切った野菜を入れる。今お湯に溶けだしてしまっているであろう水溶性のビタミンも、お粥にして水分ごと一緒に食べてしまえば、摂取できる。

 鍋の中で沸騰したお湯にぐらぐら揺れている野菜を眺めながら、二度寝する前に思い出していた過去について、やはりどうしても考えてしまう。

「看護師になれたとしても、小児科は無理だ」

 それが、私が小児科実習を通じて決めたことだった。すでに、学生の頃から私は逃げていたのだ。健気に頑張る子供たちの力に少しでもなりたい、と思えるほど、私は強くなかった。子供たちが頑張っていればいるほど、見ている自分の辛さが強まった。たった八日間の実習を一緒に過ごした男児の手術がどうなったか、私は今でも知らないし、一生知ることはできない。きっとうまくいって、今は酸素もなしに元気に過ごしているにちがいない、と自分に言い聞かせて過ごすよりほかにないのだ。あの実習で何もできなかった私は、今でも何もできないままだ。

 煮えた野菜の鍋に、冷凍保存しておいたご飯を解凍して入れる。米粒がどろどろになるまで木べらでかき混ぜて、最後に溶き卵を入れて、中華スープのもとを入れる。これで、私の野菜粥は完成。胃腸炎のときに食べていたが、二日酔いにも良さそうだ。

 べとべとのお粥をスプーンで掬いながら、私の看護師人生は逃げてばかりだ、と思った。思い出しても、良いことなど何もなかったのではないかとすら思えてくる。違う。それは、二日酔いのダウナー状態であるからそう思うのであって、普段はもう少しマシな頭で過去と対峙できている。そう思う一方、こういうときに思うことのほうこそ、真実なのではないかとも思う。人参がまだ少し固かった野菜粥を咀嚼しながら考える。結局、私ができたことなんてあったのだろうか。私が誰かの力になれたことなんて、あったのだろうか。私の存在なんて結局のところ、可もなく不可もない。薬になれないのなら、せめて毒にもならないように、人と関わらず日陰で生きているほうがいい。私なんて本当に、とるに足らない人間なんだから。

「あああああ」とまた少し声を出してテーブルに額をつける。こんなに自分を否定したくなるのは久しぶりだと思う。気持ちの落ち込みも自己肯定感の低下も、きっとお酒のせいだ、と思うことにする。そうじゃないと、本心で自分をこんな風に卑下していることになってしまう。それはあまりにもしんどい。せめてお酒のせいにしておきたかった。そして、こんなに気持ちが落ち込むなら、もう金輪際お酒を飲むのはよそうと思った。

 夕方になって、姉の詩織からLINEが来た。おつかれ! という猫のスタンプのあとにメッセージが届く。

『冴綾、ちょっと手伝ってほしいことあるんだけど』

 お粥を食べたあとまた昼寝をして、ようやく起きて、夕飯はちゃんと食べなければと思っていたときだった。

『何、手伝ってほしいことって』

『修の好きなアニメとハシモトがコラボしたグッズが、今夜八時からネット販売開始なの』

 ハシモトとは、格安で有名な洋服店である。修の好きなアニメとは、お正月に言っていた「不動明王!」のアニメだ。ケンちゃんも好きって言っていたなと思い出す。子供に大人気だから、ネット販売の倍率も高いわけか。

『ネット販売のポチポチ合戦に参加せよ、ということね?』

『そのとおり。飲み込みの早い妹を持って姉は幸せだ』

 不動明王! というスタンプが送られてきた。初めて見たそのアニメキャラクターは、どこが子供に人気なのかよくわからない、かわいげのないものだった。わりとリアルな怒り顔の不動明王が、剣を持って炎に囲まれている。

『修が好きなのって、このスタンプのキャラなの?』

『そう』

『なんか、気持ち悪いねw』

『そこがいいらしいよ』

 ハシモトのネット販売のURLが添付されてきた。

『ほしいのは、コラボグッズの靴下と枕!』

『はいはい。了解。八時ね?』

『そう! よろしく~』

 八時まではまだ時間がある。私は、八時二分前にアラームをセットして、夕飯を作るために冷蔵庫を開けた。ひんやりとした冷気が床に向かって流れ落ち、裸足の足が冷たい。冷たいものは下へ、温かいものは上へ。世界の物理法則は、私の何にも影響されず恒常的だ。私が二日酔いであろうと、ダウナー状態であろうと、自分を否定しようと、世界は何も変わらない。

 ダラダラと、特に見るでもなくテレビを眺めているとスマートフォンのアラームが鳴った。もう八時か。夕飯は、結局適当に冷凍うどんで済ませてしまった。胃がまだ本調子ではない。食欲は戻っているけれど、食べると胃もたれする、という嫌な状況であった。もう二度とお酒は飲まないから早く体と気持ちの調子を戻してください、と思う。でも、二日酔いなんて自業自得以外の何ものでもないのだから、こればかりは耐えるしかない。

 姉からのLINEを確認して、ハシモト通販のURLへ繋ぐ。エラー。

『回線が混んでおります』

 姉や浜田さんの奥さんが言っていた人気は、間違ってはいないようだ。エラー、接続、エラー、接続、エラー……。繰り返し繋ぎ続けるしかない。いわゆる「ポチポチ合戦」に参加したのは久しぶりだなと思う。昔は、友達の好きなアイドルグループのコンサートチケットを取るのに、よくこうして接続とエラーを繰り返しながらチケットをゲットしたものだ。一度一緒に行ったことがあった。あのアイドルは何という名前だったか。名前は思い出せないけれど、コンサートはキラキラしていて華やかで、客席がペンライトの灯りで埋め尽くされて、夢の国のようだったことは覚えている。コンサートの間は、確かに何もかも忘れて、ファンでない私でさえ夢中になった。ああいう時間、もう何年過ごしていないのだろう。あんなにキラキラしたものを浴びたら、今は中てられてしまうかもしれない。

 接続とエラーを繰り返していたスマートフォンの画面が、パッと着信画面になる。姉からだ。

「はい。もしもし」

「あ、冴綾? やってくれてた?」

「うん、やってた」

「ありがとう! こっちで無事ゲットしたわ~」

「ああ、良かった。全然繋がらなかったから」

「でしょ、すごい人気なのよ。ってか、冴綾、風邪ひいてる? 鼻声じゃない?」

 こういうところにすぐ気が付くのは、やっぱり家族だな、と思う。

「あ、いや風邪じゃないんだ」

「大丈夫? 体調悪いの?」

「いやいや、大丈夫。ただの二日酔いだから」

「二日酔い? 冴綾、お酒弱いじゃん」

「そうなの。なのに飲んじゃったから、朝からぐったり」

 無理して覇気のある声を出さなくて済むのだから、姉の存在はありがたい。

「思わず飲んじゃうほど、楽しい飲み会だったわけね?」

 私は、ヤサの家と私の家を隔てている壁を眺める。

「うん、まあ、そうだね。楽しかったは、楽しかった」

「なら、まあ二日酔いは仕方ないね」

 そう笑う姉だが、姉だってお酒が弱い。人のこと言えないじゃないか、と思うけれど、姉は自分が飲めないことを知っていて、ちゃんとコントロールしているのだろう。大人になっても、自分をコントロールできないこと。それは、いつだって何にだって、私には常に起こる。感情もコントロールできなければ、記憶もコントロールできない。せめてお酒の飲み方くらい、コントロールできる大人にならなければ、と反省する。

「冴綾が楽しく過ごしているなら良かったよ」

「ああ、うん、まあまあね。お姉ちゃんは元気?」

「うん。元気!」

 姉は、そう言って快活に笑った。

「修ちゃん、元気?」

「元気、元気。うるさいくらいよ。不動明王のコラボグッズ買えたから、今はご機嫌になって、パパとお風呂入ってるわ」

 それは良かった、としみじみ思う。自分の好きな人には、幸せでいてほしいと思う。これは、自分が辛いときでも変わらないのが不思議だ。人の不幸は蜜の味、なんて言う人もいる。嫌いな人が大変な思いをしていたら、私だって「ざまあみろ」なんて思ってしまうかもしれない。でも、自分の好きな人、大切な人には、やっぱり元気に幸せでいてほしい。これは偽善なのだろうか。私は、偽善者なのだろうか。

「じゃ、冴綾、ありがとうね。二日酔いは、水分とって休んでるしかないから、お大事に~」

 そう言って姉は電話を切った。水分とって休んでるしかない。わかっているよ、ありがとう。私は、夕飯のときにヤカンに作った温かい麦茶をコップに注いだ。香ばしくて甘い匂いがした。


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