アパートの前まで来ると「きゃ!」という女性の声と「まー!」というような大きな声がした。「まー」と言ったのは隣に住むヤサのようだ。

 何事かと駆け寄ると、五十代くらいの女性がアパートの階段の一番下でうずくまっていた。ヤサと似たような褐色の肌。肩までの、コシの強そうな黒い髪。少しふくよかな、中年の女性。ヤサが女性に駆け寄り、外国語で何か話しかけている。

「ヤサ、どうしたの!」

「さーや! たいへん。かいだん、おちた」

「え!」

 女性は、頭に手を当てうずくまっている。冷たい地面に直接座り込み、ううと小さな声を出している。

「階段から落ちたの?」

「おちた。ごろごろ、ころがっておちた」

 ヤサは蒼白で、焦っているように見えた。アパートの階段には、雪の名残がある。冷え固まっている鉄製の階段に、足を滑らせたのだろう。

「ちょっと失礼しますね」

 私は女性に声をかけて、そっと手をどかし、頭部を観察する。外傷があり、出血している。髪の毛で傷の深さはわからないが、頭を打ったのは確かだ。私はリュックからハンドタオルを出し、止血のために傷を抑えた。

「ヤサ、怪我しているから救急車呼ぶね」

「あー! さーや、きゅうきゅうしゃ、だめ」

「なんで? 階段から落ちたんでしょ? 頭打ってるし」

「だめね、びょーいん、だめ」

「なんで?」

「おかあさん、ビザ、ない」

「え?」

 お母さん。ヤサは今確かにそう言った。五十代くらいの女性。ヤサは二十代だ。母親なのか。

「ヤサのお母さんなの?」

「そう。ヤサのおかあさん。でも、ビザない」

「ビザが切れているの?」

「そう。ふほーたいざい。バレたら、きょーせーそうかん」

 ブーツの中で冷えた足の指先が、さらにぐっと冷たく感じた。ずっとヤサは一人暮らしだと思っていた。国を離れて、家族とも離れているのだと思っていた。まさか、母親と暮らしていたなんて考えたこともなかった。

「でも、お母さん頭から血が出ているよ。傷が深かったらどうするの?」

「それでも、だめ。ぎのーじっしゅーも、おわりになる」

 ヤサの声は切実だった。吐く息が白く、白いままヤサの顔を曇らせる。私は暗くなり始めた空を仰いだ。どうすればいい。女性は意識状態はクリアだし、出血が止まれば大丈夫か? でも、頭部を打っていることは事実で、万が一硬膜下血腫を起こしていたら、今自覚症状がなくても数時間後に亡くなることもある。でも、救急車を呼んで公立の病院に搬送されたら、公立病院には不法滞在者の通報義務がある。患者にとって何がベストなのか、考えろ。頭の傷を抑えているタオルが赤く染まっていく。

 そこで、私は田丸さんを放置していたことに気付いた。

「田丸さん、すいません。お隣さんのお母さんが階段から落ちて怪我をしてしまって」

「ええ、そのようですね」

 説明するまでもない。田丸さんは、ずっとその場で私たちのやり取りを見ていたのだ。そんな田丸さんを見て、ふっと思い出した。井上いのうえ先生。田丸さんと性格もタイプも真逆なのに、どうして思い出したのだろう。ひょろっと背が高いからか。あの井上先生なら、どうにかしてくれるかもしれない。

「ヤサ、お母さん、何歳?」

「とし? よんじゅうはち」

 私はヤサに止血を交代してもらって、スマートフォンを取り出した。井上先生の勤める病院を検索し、電話番号を調べる。薄明の空の下、長く感じるコール音のあと電話が通じる。

「すみません、以前そちらで働いていた藤田と申しますが、井上先生いらっしゃいますか? え? あ、はい、そうです。藤田です。ご無沙汰しています。はい。井上先生、よろしくお願いします」

 井上先生は、私が最後に勤めていた個人病院の院長だ。小さな総合病院で、健康診断の外来も行っているため検査機能はしっかりしている。電話に出たのは、顔見知りの事務員だった。私のことを覚えてくれていた。電話の保留音、間延びしたグリーンスリーブスが長く感じる。おそらく一分程度待たされて、井上先生に繋がった。

「おお、藤田? 久しぶりだな」

「先生、あの、急患運んでいいですか?」

「はあ? なんだよ急に。どういうこと?」

「四十八歳、女性、階段からの転落、頭頂部に外傷あり、出血しています。タオルで圧迫止血中。意識はクリア。バイタルは測れていません」

「救急車呼べよ」

「不法滞在者なんです」

 一瞬の間があり、電話の向こうで井上先生が眉を寄せる顔が浮かぶ。

「めんどくせえ話まわしやがって。知り合いなのか?」

「お隣さんです」

 受話器越しに舌打ちが聞こえた。

「どこに国の人なの」

「カンボジアの方です。息子さんが技能実習生ですが、ご本人は不法滞在だそうです」

「わかった。連れて来い。傷は、必要ならナートする。検査はCTくらいしかできんぞ」

「ありがとうございます!」

「あと、保険ないから全額負担だぞ」

「はい。わかっています。三十分かからず着きます」

 電話を切って、不安そうにしているヤサに言った。

「私の知っている病院で、診てくれるって」

「ビザない、だいじょぶ?」

「うん。大丈夫。個人病院だから、通報しないよ」

 ヤサは、まだ座ったままの母親に外国語で話しかけている。母親も何か言っているが、ヤサが私を指して何か言うと、ヤサの母親は私を少し見上げるようにして小さく頭を下げた。

「田丸さん、すみません。こんなことになってしまって。私、この女性と彼と一緒に病院に行くので、ここまでで大丈夫です」

「病院に行くって、何で行くんですか?」

「えっと、タクシー呼びます」

 今はスマートフォンですぐにタクシーが呼べる。

「ということは、車で行ける場所なのですね」

「はい」

「では、僕が運転しましょう」

「え?」

「タクシーは怪我人を嫌がることがありますし、今から呼ぶより早いと思いますよ」

 そう言うなり、田丸さんは向かいのコンビニへ走っていった。と思ったらすぐに出てきて、コンビニの駐車場の一番奥に停めてある車のドアを開けて、乗り込んだ。どういうことだ? と思っているうちに、車をアパートの目の前に乗りつけた。車体には、コンビニの店名が印字されている。

「どうぞ、乗ってください」

「何ですか、この車」

「今、友人に借りました。タイヤはスタッドレスに変えてあるそうなので、安心です」

 そういう問題じゃない、と思ったが、ことは早い方がいい。私はヤサとヤサの母親を後部座席に乗せ、自分は助手席に乗って、田丸さんの運転で車は走り出した。

「藤田さん、ナビして下さいね」

「あ、はい」

 田丸さんは、運転が上手だった。スムーズに車線変更をし、揺れの少ないブレーキで加速もスムーズ。雪道の不安も感じさせなかった。後部座席で、ヤサは母親の傷をタオルで抑えている。二十分かからず病院に着いた。

 受付で来意を告げると「早えな」と井上先生が白衣をヒラヒラさせながら廊下を歩いて来た。ひょろっと背が高くて、髪がぼさぼさで、無精髭。口は悪いしあまり清潔感のない医者で、個人病院じゃなかったらクレームが入るかもしれない。でも腕は確かだし、患者を診る熱意は信頼できる。

「久しぶりなのに、突然すみません」

「ああ、いいよ。患者さんはこちらの女性だね?」

「はい」

「日本語は?」

「できません」とヤサが答える。

「あなたが、息子さん? 日本語は?」

「すこし、できます」

「じゃ、二人で診察室に来てくれますか? 検査もしますからね。藤田、お疲れ。終わるまで待ってろよ」

 そう言って井上先生は、ヤサとヤサの母親を連れて廊下を歩いて行った。

「よろしくお願いします」

 私はそう言って大きく息を吐くと、急に体が重く感じて、廊下のベンチに座った。田丸さんは、受付の近くにある自動販売機で飲み物を買って、静かに私の隣に座った。自分はコーヒー、私にはミルクティをくれた。

「あ、ありがとうございます」

「ミルクティ、お嫌いじゃないですか」

「はい。好きです」

 受け取ったペットボトルが温かくて、自分の手が冷えていたことに気付く。ミルクティを一口飲むと、甘くて柔らかくて、尖っていた私の精神をなだめた。

「すみません。バタバタしたことに巻き込んでしまって」

「いえいえ、ヤサさんのお母様、何事もないといいですね」

「はい。本当に」

 私は心からそう思った。何事もなければ、どれだけバタバタしたところで「なんだ、何もなかったじゃん」と、ほっとすればいいだけなのだ。何かあってからでは、遅い。私は、ヤサの母親を受診させることができずにいたら、きっと今夜眠れなかった。

「ところで、藤田さんは、お医者さんか、看護師さんなのですか?」

「え?」

「ヤサさんのお母様がうずくまっているのを発見してから、動きと判断が素早くて驚きました。てきぱきしていて、素人じゃないな、と思いました。さきほどの先生ともお知り合いのようですし、お医者さんか看護師さんなのかな、と思いました」

 私は、今の職場の人たちにもともと何の仕事をしていたか何も言っていない。履歴書の職歴は、団体職員と書いただけだ。

「ああ、そうです。言っていませんでしたね。もともと看護師をしていました」

「そうでしたか。手際が良くて、とてもかっこよかったです」

「そんなことないですよ」

 褒めてもらっても、否定してしまう癖は直らない。

「大学病院で三年、ここの個人病院で一年半、働いていました」

「そうでしたか」

 どうして辞めたんですか? だいたいはそう言葉が続く。でも、田丸さんは何も言わなかった。小さな沈黙がミルクティに溶けていく。

「そういえば、田丸さん、あの車ってコンビニの車ですか?」

「ああ、あれは友人の車です」

「コンビニの名前、書いてありましたけど」

「あそこのコンビニの店長が、僕の友人なんですよ。それで、事情を伝えたらすぐに車を貸してくれました」

「そうだったんですね。その店長さんにもお礼を言いにいかなきゃですね」

「いや、それは別に大丈夫ですよ。そんなこと、気にしなさそうな奴ですから」

 田丸さんが人のことを「奴」と呼ぶのは初めて聞いた。それほど、仲が良い相手なのだろう。

「あそこのコンビニに、行きますか?」

「はい、家の目の前なので、毎日のように行きます」

「いつもいる、ちょっと愛想のない男、わかります?」

 私は、もしかして、と思った。

浜田はまだっていうんですけど、あそこの店長やってる奴、十代からの友人なんです」

 やっぱり、と思った。浜田さんは、いつも働いていると思っていたら店長さんだったんだ。

「たぶん、わかります。背の高い方ですよね?」

「ああ、そうです。あそこ、あいつの親父さんが酒屋をやっていた店で、浜田が継いでからコンビニにしたんですよ。僕は、中卒で上京してきたので、そのときその酒屋さんでアルバイトをさせてもらっていて、浜田とはそのときからの友人です」

「上京? 田丸さんは神奈川の人じゃないんですか?」

「僕は、九州の出身ですよ」

「全然知りませんでした」

「言っていませんからね」

 そう言うと、田丸さんは珍しく、少し寂しそうに笑った。

 外来の終わっている病院は静かで、私と田丸さんだけが時間から取り残されているようだった。取り残された二人だけが、ときおり缶とペットボトルを傾け、コーヒーとミルクティを飲むこくんという音だけが小さく宙に浮かぶ。


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