二月 1

 久しぶりに大雪が降った翌日。工場内は温かいが、窓から見える道路には雪かきで積まれた汚れた雪が固まり凍っている。仕事の終業を告げるチャイムと同時に、板木さんが作業場の私たちに言った。

「最近このあたりで女性を狙ったひったくり被害が多発しているそうです。しばらくは、方向の近い人と一緒に帰るか、誰かに迎えに来てもらえる人は、そうしてください」

 派遣のアルバイトの子たちが「ええ、怖いね」と言い合っている。

「あなたたちは全員でまとまって帰ってください」

 板木さんに言われて、派遣のアルバイトの子たちは返事をする。

「椎名さんは、電車ですよね。駅まで私と一緒に帰りましょう」

「はい。そうしましょう。ひったくりなんて怖いわね」

「岡野おかのさんは、迎えに来てもらえる人いますか?」

 板木さんは、真帆に同棲している彼氏がいることを把握しているのだろう。真帆は「彼氏に聞いてみます」と言って、更衣室へ向かった。

 私は誰とも同じ方向ではないし、迎えに来てもらえる人もいないな、と思っていると板木さんが「藤田さんは、田丸さんに送ってもらってください」と言った。

「えっ」

 思わず声をあげる。

「田丸さんの家って逆方向ですよね」

「現場監督ですから、そのくらいの責任はあります」

 無表情でぴしゃりと言う板木さん。肩で切りそろえられた黒髪が艶やかで、板木さんのきりっとしたイメージを助長させている。田丸さんを見ると、ほんわかにこにこしている。

「僕で良ければ送りますので、よろしくお願いします」

「ご迷惑じゃないですか」

「みなさまに万が一のことがあるほうが、僕としては大変なことですので、送らせていただきます」

 履歴書を出している時点で住所は知られているから、家を知られることに抵抗はない。ただ単に、申し訳なかった。

「あの、彼氏が迎えにきてくれることになりました」

 更衣室から戻って来た真帆が言う。

「じゃ、誰も一人で帰らなくて済むわね。それでも、くれぐれも気を付けてくださいね」

 板木さんは、しゃきっとした声で言った。

 派遣のアルバイトの子たちは集団で、板木さんと椎名さんは連れ立って、真帆は彼氏が工場まで迎えにきて、各々帰っていった。

「すいません。立場上、一応みなさんを見送ってから帰らないといけなくて、最後になってしまってお待たせしました」

 田丸さんは更衣室の前で待っていた私のところへやって来た。黒いダウンにデニムパンツ。バンズのスニーカー。ファストファッション店のマネキンみたいな私服だな、と思った。そう言う私も、似たような恰好だ。

「では、帰りましょうか」

「はい。本当にすみません。迎えに来てくれる人がいれば良かったんですけど」

「いえいえ、いいんですよ。みなさまの安全をお守りするのも、僕の仕事のうちですから」

 そう言って微笑む田丸さんは、作業着のときより少し若く見えた。三十代前半らしいから、義兄と同じくらいの年齢か。中年太りしている義兄に比べると、田丸さんは細いし若々しいように見える。十五分の道を、田丸さんと歩く。ひょろっと背の高い、私服の田丸さん。歩道に雪は残っていないが、足元を冷やすには十分寒い。ワークマンで買った防寒ブーツでも足先が冷える。

「藤田さんは、仕事を始めて四カ月くらいになりますが、もう慣れましたか?」

 田丸さんは、二人きりという状況でも妙な気まずさを作らない優しさも持っていた。

「はい。おかげさまで、楽しく働けています」

「それは良かったです」

 そう言って、本当に嬉しそうに笑う。この人は、どうしてこんなににこやかなのだろう。普段からあまりにこにこできていない自分が悪いような気さえしてくる。防寒ブーツで、石ころのように冷え固まった小さな雪の塊を蹴る。

「この仕事は、腰や目が疲れるという人が多いようです。体調が悪いときは無理せずに言ってくださいね」

「はい」

「僕に言いにくければ、板木主任もいますからね」

「はい」と言ったきり私が黙っていると「板木主任は怖いですか?」と田丸さんは笑った。

「いや、怖いってわけじゃないですけど、田丸さんのほうが話しやすいです」

「それはそれは、嬉しいことを言ってくださいますね。でも、板木主任はとっても優しい方ですよ。誰よりもみなさまのことを気にかけてらっしゃる。板木主任がいなかったら、僕は現場監督なんてやっていられません」

 田丸さんは、きっと人の悪口なんか言ったことがないのだろうなと思った。

「人を褒める能力」という発想に、私はまた自分の意識が過去へ飛ぶのがわかった。いつでも過去は突然に現われて、私を引きずり込んでいく。冷えて静かな周囲の景色がゆっくりぼやけていく。

 

 人の良いところを褒める能力。それは看護師にとってとても重要な要素だった。患者は基本、どこかが悪いから入院してくる。その時点で、医者も看護師も悪いところには必ず目がいく。それを治しにきているわけだから、悪いところを見ないわけにはいかない。しかし治療していく上で患者のモチベーションになるのは、患者自身の良いところのほうなのだ。

 そのことを教えてくれたのは、精神科の看護師たちだった。「エンパワーメントの勉強会」と言われて集まった講義で、精神科の看護師たちがいかに人を褒めることが大切か教えてくれた。「エンパワーメント」とは、その人の本来持っている力をより湧き起こさせる、といった意味である。エンパワーメントすることで、元気が出たり、モチベーションがあがったりして勇気がでて、自己肯定感があがる。看護の現場では主に、患者に対して行われるエンパワーメントだが、看護師同士でも使えるということだった。つまり、看護師同士で褒め合うことでお互いの自己肯定感が上がるということだ。

 簡単なグループワークを行った。四人一組で、順番に一人の人をひたすら褒める。その間、褒められている人はその意見を否定してはいけない。褒められることをただひたすらに受け入れる。そういうグループワークだった。

 最初、そんなことをして本当に意味があるのだろうか、と思った。グループワークがスムーズに進むように一つのグループに一人ずつ精神科の看護師が加わって、グループワークは始まった。まず、私が褒められることになる。

「藤田さんは血液内科勤務ですよね。忙しくて大変そう。頑張っていらっしゃいますね」

 精神科の看護師に言われた。

「いや、そんなことないですよ。どこの科だって大変ですよ。それこそ精神科だって」

 言いかけた私は「しー」と言われた。

「褒められる順番の人は、否定しないルールです」

 あ、そうだった。褒められると、つい「そんなことない」と言って否定してしまう癖がついている。

「あ、そうでしたね。はい」

 私はいったん、黙る。

「大変なのに日々頑張っていらっしゃいますよね。お仕事も大変そうなのに、髪の毛つやつやですね」

 急に外見のことを褒められて少し戸惑う。髪なんて別に何もしていないし、ただ伸ばしっぱなしなだけなのだ。もともとクセのない髪質なだけで……と言いたいところを我慢して、小さな声で「ありがとうございます」とだけ返事をする。そういうルールなのだ。

 すると他の看護師も、「ほんと髪の毛つやつや。きれいですね」と言い出した。

「よく見るとお肌もきれいですね」

「本当だ。メイクもナチュラルで、清潔感があります」

「患者さんにも優しい印象がありますね」

「真面目そうにも見えます」

 そんなことないです、と言えないのはむず痒かった。でも、だんだん嬉しい気持ちがむくむくと膨らんでくる。そうか、私頑張っているんだ。私肌きれいなんだ。手抜きメイクだと思っていたけれど、ナチュラルで清潔感があるってことか。真面目すぎるところがあるって思っていたけれど、それって悪いことじゃないんだ。

 褒められる順番が終わるまでの間、私は口をむずむずさせながら、にやにやしてくるのを止められなかった。なんだこれ、なんか嬉しい。自分を褒めてもらうことを手放しで受け入れる。そんな体験、そういえばしていない。褒めてもらっても「そんなことない」と否定か、もしくは謙遜をするのが、当たり前になっていた。

 自分が他の看護師を褒める順番になったときは、思う存分褒めた。初めましての人もいたのに、褒める所って探せばこんなにあるのかと新鮮であった。褒められた看護師たちは、私同様むずむずしていた。手放しに褒められることが、やはり新鮮なのだろう。グループワークが終わってみると、みんなむずむずしながらも、にやにやしていた。褒めることも褒められることも素直に受け入れる。それがこんなに嬉しいなんて、実践してみないとわからなかった。明日からも仕事頑張ろう。確かに、そんな気持ちになったのだった。

 それからは、患者にも積極的に良いところを探して褒めるようにした。

「治療、頑張っていますね」

「顔色いいですね」

「よく眠れていましたよ」

 そんな些細な声かけは、患者のモチベーションを変える。

「パジャマ素敵ですね」

「お見舞い、お孫さんですか? かわいいですね」

 治療に関係なくてもいい。患者の良いところを見つけて褒める。患者の自己肯定感があがる。モチベーションがあがる。治療に前向きになれる。そういうプラスの循環を作るのは、看護師の力なのだ。

 それなのに、私は一体いつから自分を褒められなくなったのだろう。褒めてくれる言葉を「そんなことない」と、また否定して突っぱねるようになってしまったのはいつからだろう。あのグループワークで学んだことを、自分に活かせなくなったのはいつからだろう。自分で自分を褒めてあげたのは、いつが最後だろう。


「藤田さん?」

 田丸さんが私を呼んで、控えめにリュックを引っ張る。

「信号、赤ですよ」

 ふっと我に返って立ち止まる。周囲の景色が見え始め、音が聞こえてくる。冷たい雪の、夜の道。危ない。田丸さんが止めてくれなかったら、そのまま信号無視をして歩いているところだった。

「すいません、ぼーっとしていました」

 まだ少し心ここにあらずだったけれど、仕事の帰り道だったことを思い出して、どうにか返事をする。

「気を付けて下さいね。この前のお昼もぼーっとしていると言っていましたが、何か心配事ですか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんです。その、昔のことを思い出しちゃうときがあって、ぼーっとしちゃうんです。仕事中はベルトコンベアに集中しているので大丈夫なんですけど。意味わかんないですよね」

 なるべく何事でもないように、苦笑しながら弁解した。田丸さんは、何か眩しいものを見たようにすっと目を細め「ああ、そういうこと、ありますよね」と言った。

「ありますか?」

「はい。僕もよく、過去たちが追いかけてきますよ」

「追いかけてくる?」

「思い出そうとしているわけじゃないのに、勝手に追いかけてきて、思い出させられるんですよ」

「ああ、そういう感じ方もできますね。私は、自分が過去に飛ぶ、という感覚だったんですけど、過去が追いかけてくるかあ。それもしっくりきます」

「しっくりきますか? 良かったです。あれ、なんなんでしょうね。無意識のうちに勝手に追いかけてくる。来るなーって、追い返せたらいいんですけど」

 そう言って笑う田丸さんは、単に話を合わせてくれただけなのかもしれないけれど、わかると言ってもらえたことは嬉しかった。


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